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修験寺院の師弟関係について

はじめに


本山派先達修験寺院笹井観音堂の研究を継続している。寺院運営と年行事職としての霞支配が主たるテーマであるが、運営は宗教活動を基礎として経済・文芸などの多方面に参画することで旦那衆との関係深化、財政基盤を整備していった「里修験」的活動が史料に残る。
霞支配に関しては、笹井観音堂を頂点とした上流部分だけでは史料上の制約から把握は困難である。むしろ、「同行」と称される配下寺院の動向からアプローチするのが断片的ながらも実態を把握できるのがわかった。これは筆者のフィールドワークや現物史料調査から実感できた点である。具体的には配下寺院の免許状申請から受給までの過程、配下寺院住職の日記などの記録、宗門改め、上官寺院から受給する従属証明状の内容である。具体例に関しても過去にnoteで投稿しているので併せて参照されたい。
今回は、寺院運営のうち師弟関係について触れていく。笹井観音堂・本山派先達修験寺院十玉院の史料から新たな見解を出すというより整理しておきたい点が出たので記述していく。

(1)修験寺院における弟子の意味

修験寺院における師弟関係は、東林寺教純(笹井観音堂配下)を師匠とした高萩院教寛(笹井観音堂配下)・大宮寺良純(笹井観音堂配下)・大徳院周応(山本坊配下)の関係について文芸活動を柱とした地域交流面から考察したことがあった。
そのベースとなったのは横田稔氏が編纂した『武蔵国入間郡森戸村本山修験 大徳院日記』の刊行である。大徳院周応・周乗父子の宗教活動、縁戚関係、地域交流が明らかになった。
特に、高萩院と大徳院は、境内地が隣接する関係であるから教純を通じて笹井観音堂と山本坊の平和的関係に貢献していた点を以前の投稿で指摘した。今回は、修験寺院の師弟関係は東林寺教純門下以外にも史料で存在するので紹介する。

文書1
寛政2年(1790)三月 本山修験道人別帳「篠井良勝家文書」『狭山市史近世資料編Ⅱ』
「         武州高麗郡笹井村
  本山修験道人別帳
          大先達
            観音堂
山本永三郎知行所
 本山修験道
京都
 聖護院宮御末寺
   武州高麗郡笹井村
一       観音堂印
          現住良盛
            去酉年五拾五才
一        同寺隠居
          良賀
            去酉年七拾五才
一        同寺弟子
          岡之坊
            去酉年弐拾六才
一        同寺弟子
          当時遍参 智発
                同断参拾壱才
一           妻 いそ
                同断五拾参才
一           倅 豊之助
                同断弐拾弐才
一           倅 運平
                同断弐拾才
一           娘 さる
                同断拾四才
一           娘 とみ
                同断拾弐才
一           倅 鹿之丞
                同断九才
       〆拾人 内山伏四人
           俗  三人
           女  三人
       
      観音堂小先
一          薬王寺印
             良秀
              去酉年四拾四才
一          同寺弟子
             靱負
              同断拾四才
一          母 くめ 
              去酉年七拾壱才
一          妻 げん
              同断四拾壱才
一          倅 祐助
              同断拾壱才
一          倅 粂七
              同断七才
一          娘 こん
              同断弐才
     〆7人 内山伏弐人
          俗 弐人
          女 三人
    観音堂役僧
一        真源院印
           良春
           去酉六拾四才
一        同院弟子
           多門
            同断拾五才
一          多門母 もん
            同断四十才
一          倅 弥七
            同断拾弐才
一          娘 しを
            同断九才

     〆五人 内山伏弐人
           俗 壱人
           女 弐人
    観音堂役僧  
一        式部印
          去酉年弐拾六才
一     隠居 内蔵
          同断五拾四才
一      母  まつ
          同断四拾参才
    〆三人  内山伏弐人
          女 壱人
    観音堂役僧
一        大膳印
          去酉年弐拾参才
一      母 よし
          同断六拾五才
    〆弐人  山伏壱人
         女壱人
    観音堂役僧
一        林光院印
          去酉年弐拾壱才
一      母 とよ
          同断五拾九才
一      姉 せん
          同断三拾三才
一      姉 れん
          同断弐拾三才
   〆四人 内山伏壱人
        女 三人
   観音堂役僧
一       中将印
          去酉年拾弐才
   〆壱人
   観音堂役僧
一       大行院印
        良空
         去酉年五拾三才
一     同院弟子
        隼人
         同断拾弐才
一     同院隠居
        良満
         同断八十壱才
一       母 しも
         同断七十七才
一       娘 つや
         同断弐拾四才
一       娘 とり
         同断拾八才
一       娘 その
         同断拾五才
   〆七人 内山伏三人
        女 四人
右はこのたび去酉(年)の人別御改めをすると仰せ出されたについて、拙寺ならびに手廻り役僧共まで調べて書き上げましたところで間違いないことです。依って銘々の印形を差し上げます。以上
              武州高麗郡笹井村
       寛政弐年  三郡本山修験道触頭
         戊三月      観音堂印
                寺社
                 御奉行所」

長文の引用になったが、笹井観音堂の運営を担う堂主、役僧の構成員名簿が同文書である。
寛政2年における笹井観音堂主は、第52世良盛なのがわかる。「隠居」に第51世良賀がおり、「同寺弟子」として当時26歳の岡之坊がいた。記載場所が笹井観音堂一門、年齢から岡之坊は、良盛の子で第53世良清と見られる。

次に登場するのが智発一家である。智発は「当時遍参」とある。遍参とは広く諸国を廻国して高僧に教えを請う意味がある。智発は、一家を引率して笹井観音堂良盛の元で修行する山伏だった。

智発一家以降は、執事薬王寺を筆頭として寺院運営実務を担う7名の役僧達が記載される。
当時の薬王寺住職は、第45世良秀である。同寺弟子に当時14才の靱負がいる。靱負は、第46世良康と見られる。良秀・良康父子は文化3年(1806)に篠井村開発に携わった事を示す石仏地蔵を造立している。父子の墓石も存在する。

「文化3年寅二月吉日、高麗郡篠井村 階発領主最上山薬王寺良秀朋願法印良康」と記銘される地蔵(在薬王寺境内地)


第45世薬王寺良秀、第44世良歓 第43世良清の墓石


第46世薬王寺良康墓石

文化3年造立の石仏地蔵の記銘から、薬王寺良康が聖護院から免許される「法印」を称しているので寛政2年から文化3年までに住職を継承したのが確認できる。ただし、良秀も共同で開発事業に携わっているので実務は後見があったと言える。

薬王寺良秀以外の役僧は、真源院良春・多門父子・式部・隠居内蔵父子・林光院・中将・大行院良空・隼人父子・隠居良満がいた。
薬王寺良秀・真源院良春・大行院良満・良空父子は「良」を冠している。これは笹井観音堂主の通字「良」の偏諱を得ているのもわかる。
さらに、薬王寺靱負(後の良康)・真源院多門・大行院隼人のように継承者は「同寺弟子」または「同院弟子」として父親の弟子になって実務経験を積む過程があった点も確認しておきたい。

修験寺院の継承者は父親の弟子として経験を積むことになっていた。文書1では、「弟子」と記載があるが、もう1つの表現として「附弟」が登場する。

文書2 弘化4年(1847)「大般若経六百巻寄進者奥書」「宗源寺文書」『狭山市史中世資料編』
「武高麗郡中新田(の)高篠伊三郎(が)小判十五片を持って助け興した。大般若経六百巻を運び、先祖万霊菩提の下、子孫が長く栄えて心願が満ち足りるため伏して願い上げる。
 弘化四年丁未春二月瀧音山観音堂
               現住良賢
                   識
               附弟良孝
(後略)」

同文書は、笹井観音堂第55世良賢と第56世良孝父子が高篠伊三郎の寄進によって「大般若経六百巻」を笹井観音堂付近の宗源寺に奉納した際に作成した寄進者名簿である。奉仕した人々は伊三郎を始め、笹井観音堂の霞である高麗郡中の村人達も加わっている。
笹井観音堂良賢は、文書1で登場した良盛の子良清の孫にあたる。継承者の良孝は、父の弟子として宗教行事に携わった。良孝に付けられた「附弟」とは、「法脈を伝えることを託された弟子」の意味があり良賢の継承者として位置していたのがわかる。
ここまでを整理すると修験寺院における弟子とは「寺院を将来継承する人物」を意味する。父親の弟子として寺院の運営実務に携わるための教育訓練中の立場である。人別帳でも他の兄弟姉妹とは別に把握され寺院の家族序列も住職に次ぐ地位であるのが明確にされていた。

宗源寺山門

(2)修験寺院の師弟関係ー父子関係以外の弟子ー

前項目では、修験寺院の師弟は父子関係が基本となり次期住職を教育するためだと笹井観音堂の事例から位置づけた。
同事例以外でも宗教・文芸・武道において現代も機能する師弟関係と同じ意味を持つ史料が十玉院にある。

十玉院最後の境内地難波田城

文書3 明治2年(1869.)「弟子取立願につき証文一札」「柳下東三郎家文書」『富士見市修験道関連文書』
「私(の)父万吉は旧来病身にて農業ができませんから、筆学指南(読み書き教授)かつ売卜(占い師)を生業としています。家を相続したところで、今は、御一新(明治維新)の折りで、在住欲家にて売卜を営んでもどうにもなりません。殊に追々、衰退していくばかりです。全く農業もできない折り、神仏混淆が御廃止になり、貴院(十玉院)御支配体制も多分に変わられるに付き、例年春秋の朝廷(への)祈祷に使用する御撫者(祈祷に使う形代)、御祈祷御用等に差し支えが出ると(十玉院は)仰せられていますが、拙父(万吉)も右の次第と同じ(状況)ですので、何卒修験道の御弟子として(入門許可を)願い、貴院のお役などを勤めたいので、御人別(十玉院配下山伏)に加わり、一世修験道にて不動尊信心するのを希みます。もっとも実家相続については親類が引き受ける共に貴院へ迷惑をかけないようにします。まさにまた、(十玉院の弟子になる)件につき、五人組などにて一切、問題はございません。併せて、貴院御弟子に御取立下さいます上は、修験道の儀について万一、(十玉院の)筋に合わせられるようにします。万端御指図、御取り計らい下さい。かつ、御識法の儀は必ず全て守ります。後日、証文を提出します。
           武州入間郡下南畑村
 明治二巳年      百姓当人 伴左衛門
    十一月     親類   藤右衛門
            名主   与惣左衛門
  十玉院様」    

同文書は、十玉院が所在する南畑村の百姓伴左衛門が十玉院への弟子入りを願う内容である。
左衛門の父万吉は病身で農業ができないため、手習い教授、占術師として生計を立てていた。しかし、万吉・左衛門父子は、明治維新によって神仏分離令が発布されるなかで占術師として生計が立てられなくなった。そこで、実家の生業をアピール材料として十玉院へ弟子入りすることで没落を防ぎたい思惑が書かれている。
十玉院の配下山伏として規則を守ること、実家の相続と経営は、親族に任せるので上官寺院へ迷惑は掛けない、技能を活かして寺院運営に携わりたい旨を書いて十玉院へ提出した。左衛門の親類藤右衛門が連署しているのも文中の誓約に同意したのを明確にする意味合いがあった。また、五人組という村秩序に問題が起きていないことを示すため名主与惣左衛門も連署している。

文書4 明治5年(1872)「弟子入り願いにつき証文一札」「柳下東三郎家文書」『富士見市修験道関連文書』
「     入門一札  入間郡針ヶ谷村
                神山彦平」
「     一札願い奉る事
 一、私の儀ですが不動尊信仰を旧来より居どころにしてきました。老年になり病多くにていわゆる農業も出来なくなるかもしれません。殊に当今、御政令御改正の折にございますので何卒、貴院へ入門し、一世不動行者にて信心したいので、この段、お頼み申し奉ります。もっとも御弟子になった上は、御法式の儀を少しも背かない、まさにまた其の身についていかような義になっても親類が引き受けて貴院へ迷惑をかけないことを後日、証文として提出します。
           武州入間郡針ヶ谷村
  明治五壬申年      当人神山彦平印
     八月       親類寺澤宇太郎印
             准副戸帳神山太平印 
   修験道先達   
    十玉院様
      御役者」
同文書も文書3と同様に十玉院への弟子入り志願状である。神山彦平は、老年で多病につき農業ができなくなる可能性があるので昔からの不動明王への信心を持って十玉院へ入門して生命を全うしたいと願う内容である。
文書3・4で共通するのは弟子入り志願者が明治維新や私的理由で生計が立てられなくなる危機感から十玉院へ救済を求めているのは共通している。先達・年行事職寺院を筆頭に秩序を霞全体へ確立・浸透させることが支配力の証明となる。それは、総本山への忠誠・奉仕を行動を持って示すこと、配下寺院への権威を示し帰属心を得ることでである。それは聖護院から先達・年行事職というフレームを与えられても実効性の有無は補任された寺院の自助努力になる。
そのため、弟子志願するにしても村役人や親類を保証人にして幕府が作った支配体制と相反させない配慮が求められた。誓約文言も含めて半僧半俗と言われる山伏になるとしても家族関係の調整、村秩序から逸脱しない証明を寺院側は求めたことがわかる。
また、十玉院への入門は前述したように生命保全のセーフティネット面もあり規律は厳しいが自身の安全には変えられないと弟子志願者が認識しておりある意味、寺院のアジール性は存続していると解釈できる。

おわりに

今回は、修験寺院における師弟関係を記述した。弟子の分類は山伏間の師弟関係を結んだ東林寺教純門下の例、笹井観音堂および配下寺院の父子が師弟関係を結び寺院運営実務を教育した例、生命の保全を求めて村人が修験寺院へ弟子入り志願した例を列挙した。特に村人と修験寺院の関係は一種のアジール性が見られ、以前、十玉院配下寺院の般若院の後身である水宮神社の水宮亘宮司から「十玉院は、山伏をやめても地域のリーダー的存在だった」とご教示を受けた。最後の院主十玉院岱弁は、上田岱弁を名乗り埼玉県県会議員も務めた経歴がある。十玉院への弟子入り志願者がいた事実は大きな宗教組織ならば生命の保全が図れるという点も作用していたと言える。修験寺院の師弟関係も多様な事情があったのだ。


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