なんとなく毒を飲みたい時

毒を飲みたい時がある。

例えば、朝起きて外に出る前の時間とか、元気な中高生を見たときとか、起きることがわかってる上での寝るまでの間とか、そういうとき、毒を飲みたくなる。

私は生まれたときから私だから、私から逃げることはできない。私を構成する記憶とか、身体とか、そういうのがいつまでも消えない。なぜなら、私はそれらによって成立しているから。成立に必要ではあるけど、邪魔な時がある。

そういうとき、毒を飲みたくなる。

毒はすぐに意識を失わせる毒だ。意識があるという1から、小数点なしで、意識のない0に減らす。

そういう毒があったらいいんだけど、呼吸困難とか嘔吐とか、1→0に至るまでがしんどいから、まだ生きているだけだ。

しかし、そもそも0になるために生きているのに、なぜ0になることが禁忌になっているのだろう。

私は何度この考えを繰り返しても、それを否定することも肯定することもできない。形而上学だから、人は知ることができないのかもしれない。

それでも考え続けたり疑ったりするのは、そういう気分だからだと思う。

この気分の原因を探すのだとしたら、青い鳥症候群なのだろう。

人が飽きるのは、そもそも本能ゆえだといわれる。狩猟時代にその場に立ち止まらず、動き回っていた方が、その土地の資源を枯渇させずに済む。

その延長線上で、毒を飲みたい。

もし毒が飲めれば、一旦はこの世界から抜け出すことができる。毒を飲んだあとは楽園か地獄かもしれない。もしそうなら、新鮮味があって、それはそれで飽きを潰すことができるのだろう。

けれど、飽きは工夫のなさといわれる。同じことでも、受け取り方を変えることがコツなのだという。

確かにそうなのかもしれない。しかし、私であることに飽きてしまったらどうすればいいのか未だにわからないから、毒を飲みたくなる。

毒を飲んでも私で居続けたらどうなるのだろう?私はまた毒を飲もうとするだけなのか。毒を飲もうとすると、私が私を飲ませてもくる。

私か毒か、きっと人であるからなのだと思う。

しかし、薬と毒は表裏一体だという。それは量によるということで、今「毒を飲む」と少量の毒、つまり薬を欲しているだけなのだとしたら、私という毒で我慢したほうがいいのかもしれない。

全部が毒なのだとしたら、安全な毒を飲みたい。

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