見出し画像

聖書通読ができないYou Can Not Through Reading The Bible?

クリスチャンとして、定期的に教会に通っていると、おそらく、多くの皆さんは、『聖書通読』という言葉を、一度は聞いたことがあることでしょう。

私自身は、『教える賜物』を授かっている者のひとりですので、この『聖書通読』という言葉を聞いたとき、

聖書通読という言葉の意味
●聖書通読をおこなう目的
●聖書通読で何を得られるのか?
●なぜ、聖書通読が必要なのか?

ということを考えてしまいます。

教える賜物とはどのような賜物なのかについて、まだ、詳しくご存知でない方は、ぜひ、こちらを熟読してみて下さい。

もしもあなたが、教える賜物を授かっている者に該当する場合は、教える賜物を授かっている者の性質・特性・動機がピッタリと当てはまっているはずです。

さて、この『聖書通読』ですが、私は、キリスト教会で、なぜ、『通読』という言葉を使用しているのかについて、疑問を持ちました。

わざわざ、『通読』という言葉を使用するのではなく、普通に『聖書を読む』という言葉を使用すればいいのではないか?

と思うのは、おそらく、私だけではないと思いますが、あなたはどう思いますか?

私は、『教える賜物』を授かっているため、自分が疑問に感じたことや、自分が「モヤッ」と感じたことは、納得するまで、徹底的に調べ、解き明かさないと気がすみません(苦笑)

そこで、『通読』という言葉の意味を調べてみますと、通読とは基本的に、

●始めから終わりまでを読むこと
●始めから終わりまで読み通すこと
●全体にわたって目を通すこと
●ひととおり目を通すこと

という意味であることがわかりました。

もしも、途中で読むことをやめてしまったり、飛ばしている部分が多かったりする場合は、通読には当てはまらないとのことです。

また、通読で使用されている漢字の成り立ちについても確認してみると、『通読』は”通して読む”と書きます。

そのため、”ひととおり目を通す”という意味になります。

例えば、教科書であれば最初のページから最後のページまで読むことは『通読』になりますし、何らかの資料について、ひと通り、資料の内容について、最初から最後まで目を通すことも『通読』になります。

つまり、書籍であれ、資料であれ、最初から最後まで読むことを『通読』と言うわけです。

そのため、聖書についても、最初から最後まで、順番に読み続け、最後まで読み終わらせることを、聖書通読と言うわけです。

おそらく、ここまで、読んでくださった皆さんは、

「そんなの当たり前の話。聖書通読は、聖書を最初から飛ばさずに、最後まで読み通していくことだ。そんなこと、誰でも知っている。

と、思われるかもしれません(苦笑)

しかし、私は、ここで、もうひとつの疑問を持っています。

はたして、聖書通読をしている皆さんたちの中で、どれくらいの数の皆さんが、聖書を正しく理解し、聖書を正しく解き明かしているのか?ということを…。

実は、私は今まで、一度も、聖書通読をおこなったことはありません。

「一度も、聖書通読をおこなったことがない。」

ということを言うと、おそらく、多くの皆さんは、私がまったく、聖書を読まない人だと思うかもしれませんが、そうではありません。

私は、聖書通読はしませんが、『聖書精読』をしています。

『精読』というのは、どのようなことかと言いますと、『精読』は『熟読』という言葉と同じ意味合いになります。

念のため、『精読』という言葉の意味を調べてみますと、

細かいところまで丁寧に読むこと。
●細部までしっかりと丁寧に読むこと。

と書かれてあります。

また、精読の語源を確認してみますと、『精』は、精巧(せいこう)・丹精(たんせい)などの言葉に使用されているように、対象に対して心を込めるという意味になります。

したがって、『精読』とは、心を込めてしっかりと、細かいところまで丁寧に読み込んでいくことを意味しています。

私が聖書を読む際におこなっていることは精読であり、私は聖書を精読しているため、ただ単に、聖書を最初から順番に通読するということをおこなわないだけです。

私が精読する場合は、例えば、創世記を読んだ後、順番に、次の出エジプト記を読むという通読方法ではなく、別の聖書箇所を読む場合もありますし、

ルカの福音書とマタイの福音書の内容について、細かく比較するために、2冊~3冊の聖書を、その都度、比較しながら読み込んでいくときもあります。

例えば、新改訳聖書と新共同訳聖書、そして、私が愛読しているリビングバイブルとでは、使用されている単語が異なる場合が多々ありますし、

同じことを言っていても、違う言い回しが使われている場合もありますので、私が聖書を精読する際には、何冊かの聖書を比較しながら読み込むということをしているのです。

これが、私がおこなっている精読です。

聖書通読に関しましては、「その方法が好きで、その方法が自分に合っているよ。」という皆さんにおかれましては、そのようにしていただければいいと思います。

しかし、もしもあなたが、

聖書通読をすることがつまらなく感じる。
●聖書通読をしても意味が分からない。
●他の人たちが聖書通読をしているから、なんとなくやっている。
●聖書通読を義務的にやらないといけないと感じるから、やっている。

というように感じる場合は、一旦、通読をお休みして、私がおこなっているように、聖書の順番どおりではないけれども、自分が読みやすいと感じる部分から読むという方法でも構わないと私は思います。

もしも、聖書通読をすることに、義務的な思いを感じたり、通読をしても意味がよくわからない、通読をすることが難しいと思う場合は、あなたが読みたいと感じる部分から読み始めてもいいと私は思います。

聖書を読むことは、テストではありませんので、『この読み方をしなければいけない』というルールはないのです。

仮に、聖書を最初から最後まで通読したとしても、もしもあなたが、聖書の内容を正しく理解していなかったり、ただ単に、聖書を流し読みしているような状態になっているのでは、それは一体、何を意味するのでしょうか。

あなたは、仏教で使用されている『お経』と呼ばれるものの中で、

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」
「奈無法蓮華異教(なむほうれんげいきょう)」

という言葉を聞いたことがありますか?

私の親戚の多くは、日本人に最も多いと言われている、いわゆる、”無宗教”という名の『お葬式は仏教でおこなう』という人々ですので、私がクリスチャンになる前は、お寺でおこなう彼らの葬儀に参加した経験があります。

通常、お寺では、宗派によって、

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」
「南無法蓮華異教(なむほうれんげいきょう)」

これらのいずれかのお経を、お寺のお坊さんが唱えます。

その際に、お寺のお坊さんから、このお経が書かれた紙を渡され、葬儀に参加している者は、その場で、一緒に唱えるように言われます。

おそらく、多くの”無宗教”という名の『お葬式は仏教でおこなう』という人々は、これらのお経の意味を正確に知らないと私は推測しています。

お経の意味を知らずに、只々、お坊さんに言われるがままに、お経を一緒に唱えているという人たちが、大勢いるのではないかと私は思う次第です。

では、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とは、どのような意味なのかといいますと、

「南無」は「私は帰依(きえ)します」という意味であり、帰依(きえ)とは、仏の教えを信じ、仏の教えに従って生きていくという意味になります。

そのため、

南無阿弥陀仏とは、「阿弥陀如来(あみだにょらい)の教えを全身全霊で信じ、教えに従って生きていきます」

という意味なのです。

そして、「南無妙法蓮華経(なむほうれんげいきょう)」ですが、「南無」は「私は帰依(きえ)します」という意味ですので、

南無妙法蓮華経とは、「妙法蓮華経(法華経の教え)全身全霊で信じ、教えに従って生きていきます」

という意味なのです。

つまり、南無阿弥陀仏と言うことによって、「私は、阿弥陀如来(あみだにょらい)の教えを全身全霊で信じ、教えに従って生きていきます」と、宣言している状態だということであり、

南無妙法蓮華経と言うことで、「私は、妙法蓮華経(法華経の教え)全身全霊で信じ、教えに従って生きていきます」と宣言している状態なのです。

こちらについては、どれくらいの数の人たちが、この事実を知り、このことを本心として、心の底から言っているのか、私は疑問に思っています。

もしも、無宗教の人々や、なんとなくのしきたりで仏教を選択している人々が、お経の意味を知らずに、お経を唱えているとしたら、”お経を唱える意味がまったくない”と私は思います。

つまり、私が何を言いたいのかといいますと、私たちが聖書を読む際にも、同じようなことが起こる可能性があるということです。

もしも私たちクリスチャンが、神様の言葉である聖書を正しく理解していない、または、聖書の内容を正しく解釈していないということになったら、たとえ、聖書通読をおこなったとしても、それは何か意味があるものになるのでしょうか?

だからこそ、必ずしも、聖書通読ということに、こだわる必要はないと、私は思っています。

私がおこなっている『精読』という方法は、実際には、聖書を読むことが、とても面白くなっていく方法です。

聖書は、神様の子供として生きているクリスチャンに向けての神様の言葉ですから、その神様の言葉を『正しく理解する』ということは、非常に重要なことだと私は思っています。

聖書というのは、本当に精巧に正確に書かれた書物であり、聖書を深く、読み込めば読み込むほど、神様の偉大さを感じます。

聖書を読む際に、ぜひ、皆さんに考えていただきたいことは、

聖書を読む目的
●聖書を読んで何を得たいのか?

ということです。

私自身は、『聖書をより深く、正しく理解する』ということを目的にして聖書を読んでいます。

そのため、私は聖書を読む際に、自分が読んでいる聖書箇所が、どの聖書箇所をつながりがあるのか?ということを調べます。

例えば、多くの日本の教会で言われていることのひとつである「ダニエル書は理解することが難しい」ということですが、決して、ダニエル書は理解することが難しい書物ではありません。

おそらく、ただ単に、ダニエル書を最初から最後まで、普通に読んだだけでは、正しく理解することはできないかもしれませんが、ダニエル書で書かれている内容が、他の聖書箇所のどこに結びついているのかを知ることができれば、ダニエル書の理解と解釈は、誰にでもできることです。

ちなみに、もしもあなたが、ヨハネの黙示録を理解し、正しく解釈したいと願うのであれば、ダニエル書を正しく理解しておくことが必要です。

理由は、ヨハネの黙示録で話されている内容は、ダニエル書に記されている預言と密接な関係があるからです。

ヨハネの黙示録についても、多くの皆さんが理解するのは難しいと感じていたり、あるいは、間違った解釈をしている場合が多いですが、ダニエル書を正しく理解すれば、ヨハネの黙示録についても、正しい解釈と正しい理解ができるようになるのです。

私がダニエル書をどのように読んでいるのかについて、ひとつ例を挙げてます。

もしも、お手元に聖書がある方は、ぜひ、ダニエル書の9章を開いてみて下さい。

ダニエル書9章20節からの内容は、天使ガブリエルがダニエルに神様のご計画を悟らせるためにやってきます。

ダニエル書9章25節では、エルサレムの再建の命令が出てから油注がれた方が来るまで、49年(7週)に加えて434(62週)年かかる。それは苦しい時代だが、その間にエルサレムの城壁も町も再建される、と書かれてあります。

この聖書箇所に出てくる数字につきましては、聖書の種類によっては、

●49年・434年

または、

●7週・62週

という違う表記になっておりますが、どちらも同じ期間です。

この聖書箇所に書かれてある『エルサレムの再建命令』というのは、他の聖書箇所のどの部分とつながっているのか、ご存知でしょうか?

答えは、

●歴代誌Ⅱ(または歴代誌下)36章22節から23節(クロス王からの勅令)
●エズラ記1章1節(クロス王からの勅令)
●エズラ記5章13節(クロス王からの勅令についての主張)
●エズラ記6章3節(クロス王からの勅令についての確認)
●エズラ記6章6節(ダリヨス王からの手紙)
●エズラ記7章11節から27節(アルタシャス王からの手紙1回目)
●ネヘミヤ記2章3節から8節(アルタシャス王からの手紙2回目)

です。

ぜひ、聖書を開き、あなた自身の目でこれらの聖書箇所を確認してみて下さい。

ダニエル書9章25章で言及されている『エルサレムの再建の命令』という言葉の中身を詳しく理解したい場合は、

●歴代誌Ⅱ(または歴代誌下)36章22節から23節(クロス王からの勅令)
●エズラ記1章1節(クロス王からの勅令)
●エズラ記5章13節(クロス王からの勅令についての主張)
●エズラ記6章3節(クロス王からの勅令についての確認)
●エズラ記6章6節(ダリヨス王からの手紙)
●エズラ記7章11節から27節(アルタシャス王からの手紙1回目)
●ネヘミヤ記2章3節から8節(アルタシャス王からの手紙2回目)

これらの聖書箇所を熟読することによって、エルサレムの再建命令の中身がわかるようになるのです。

これが、私がおこなっている精読です。

もしも、ただ単に、「エルサレムの再建命令が出されたんだね。」という受け止め方で終わってしまう場合は、その次の非常に重要な箇所である、

油注がれた方が来るまで、49年(7週)に加えて434(62週)年かかる。
(ダニエル書9章25節)

この箇所の正しい解釈ができなくなってしまうのです。

理由は、油注がれた方というのは、メシアであり、メシアとはすなわち、イエス様のことを指しているからです。

この箇所は、絶対に、間違って解釈してはいけない、非常に重要な箇所です。

そのため、エルサレムの再建命令が、一体、いつ、出されたのか?ということについて、正しく理解しておかないといけないのです。

エルサレムの再建命令が出されたのは、B.C.(紀元前)457年です。

A.D.は、Anno Domini というラテン語から来ており、日本語訳では『紀元後』と言われています。

B.C.は、Before Christ の略であり、イエス様が来る前の時代を指している言葉で、日本語訳では『紀元前』と言われています。

B.C.(紀元前)457年から、49年(7週)と434年(62週)が経った年…。
それは、A.D.(紀元後)27年です。

※49年(7週)と434年(62週)は、483年(69週)になります。

イエス様が、神様のための働きのための伝道を開始された時は、A.D.(紀元後)27年です。

なぜ、イエス様が神様のための働きのための伝道を開始された時が、A.D.(紀元後)27年かというと、このことについても聖書では明確に書かれています。

マルコの福音書の1章9節を見て下さい。

そのころ、イエスもがリラヤのナザレから来て、人々といっしょに、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになりました。
(リビングバイブル/マルコの福音書1:9)

ここで疑問に感じることは、はたして、洗礼者ヨハネは、いつ、イエス様にバプテスマを授けたのか?ということです。

この疑問に関する答えは、ルカの福音書にあります。

ルカの福音書の3章の1節と3節を確認して下さい。

ローマ皇帝テベリオの治世の15年目に、神は、荒野に住むゼカリヤの子ヨハネにお語りになりました。(リビングバイブル/ルカの福音書3:1)

ヨハネはヨルダン川周辺をくまなく歩き、罪が赦されるために、今までの生活を悔い改めて、神に立ち返ったことを表明するバプテスマ(洗礼)を受けるようにと、教えを説き始めました。(リビングバイブル/ルカの福音書3:3)

これらの聖書箇所から、わかることは、

洗礼者ヨハネが、バプテスマを人々に授け始めた時期は、ローマ皇帝テベリオの治世の15年目であるということがわかります。

歴史を勉強してくださった皆さんは、既にご存知だと思いますが、

●ローマ皇帝テベリオの治世の15年目とは、A.D.(紀元後)27年

なのです。

そのため、イエス様が洗礼者ヨハネからバプテスマを受け、神様のための働きのための伝道を開始された時が、A.D.(紀元後)27年になるのです。

こんなにも、聖書は精巧であることには、本当に驚くばかりです。

いかがでしょうか。

今回は、ダニエル書の9章5節の部分である、

エルサレムの再建の命令が出てから油注がれた方が来るまで、49年(7週)に加えて434(62週)年かかる。それは苦しい時代だが、その間にエルサレムの城壁も町も再建される。

この箇所のみを、読み解くことをおこなってみました。

この箇所だけでも、多くの聖書箇所が密接に繋がっていることをご理解いただけたことと思います。

聖書を、より細かく読み解いていくと、このように他の聖書箇所と繋がっていることがわかるのです。

とても興味深いと思いませんか?

私は、聖書を読む際に、このような読み方をしているため、聖書を解き明かすことが面白くて仕方がないのです(笑

私が学んだことが、少しでも、あなたが聖書をより一層、深く理解するために役立つことを、私は切に願っています。

Article by Toshie Ito ©copyright Good news Minstries with Toshie Ito

Ministry Toshie の Jesus Calling 福音の部屋
クリスチャンのためのグットニュース・福音の部屋


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?