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学ばぬという学び、『帰る場所』の変遷

あけましておめでとうございます、ゴリ松千代です。


「親として何か気をつけてる事とかありますか?」と言われた時に「『怒る』じゃなくて『叱る』ように気をつけてますねー」なんてどこかで聞きかじった台詞をドヤ顔でブチ込んで悦に浸ってたんだけども、いやいやしっかり考えてみればそれぞれの子どもの躾ってこんな聞こえの良い言葉一つでまとめられるような単純なもんじゃねーよなと思う。簡単な会話のやり取りの中だから仕方ないのだが。

私は子ども達に甘えていた。何か粗相をした時に親である私が難しい顔をして、子ども達に私の顔色を伺わせていた。怒っても、叱っても、『私は子ども達に許してもらえる』と無意識に、勝手にたかを括っていたのだ。良いわけあるか、こんな親の態度が。親という立場だからとて理不尽すぎる。「子ども達も一人の人間だ、自分で決めた事なら認めてあげよう」と生まれたあの日から心に決めて接してきたつもりだったのにこんな体たらく。変わらねば。

だから私は、教えていく事にした。怒るでも叱るでもない、『教える』を徹底していこう。もちろんその先の『どう教えるか』の細分化はその時によってあるだろうが、これを意識するだけで私の言動は変わる。育児の基礎は親から学び、子が親になった時にそれを使う事になる。「失敗した相手には不機嫌になって良い」「ルールを逸脱した相手には大きい声を出して良い」「言う事を聞かない相手に暴力を加えて良い」等といった選択肢を私は肉親から与えられてきて、そしてそれを出さぬよう極力押さえつけてきた。

これまでのそういった考えを更にアップデートする事で、親から怒りで躾られた私自身の負の連鎖を断ち切り、これから先の地盤を固めてやろう。あくまでも私から子に与えられる『教育の選択肢』の一つにしかならないだろうが、親の存在が大きい事は嫌と言うほど分かっている。

気付けて良かった。家族はこれからだ。

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