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熱狂とそれがもたらす暴力

台風が近付いている。荒天だが雨風はそれほど強くはない。朝、ジムでトレーニングしながら堀田善衛の『路上の人』を読み終える。

ピレネー――土地の人々はピリオニと呼ぶ――山脈は総じて石灰質の、白色の勝った山波であり、従って水の流れのあるところは深く抉られて断崖となり、その地質によって洞窟もまた多いのであった。ある種の洞窟の入口は、この地方独特の強烈な風が吹くと、巨大な笛の吹口(ふきぐち)となり、茫々と地獄の笛のような音をたてた。それは山波そのものがただの自然として、救われもせず、神によって放擲されている、その無限の孤独を嘆いているかに聞こえた。

堀田善衛(著)『路上の人』新潮社,P.203

中世北イタリア、当時のカトリック教会に異端認定されたカタリ派。別名アルビジョワ派。十字軍に討伐されて消滅した彼らの教義は、今なお謎に包まれている。私はこの本を読むまで宗派の存在すら知らなかった。

この小説を読むと、中世ヨーロッパ社会の複雑なあり方がよくわかる。複数の都市国家が覇権争いのため離合集散を繰り返し、内部で分裂と統合を繰り返すカトリック教会が世俗社会に深く関与する。諜報活動と権謀術策が渦巻く世界で、今日の友が明日の敵になる日常、微妙な政治力学が何層にも積み重って成立する社会。読者は、路上者ヨナの目を通じて、かように錯綜する当時の社会情勢を目の当たりにする。背景は複雑だが、歴史的事実を物語に巧く落とし込んでいるため、小難しいこと考えずにぐいぐい読み進めることができる。身構えて読む必要は全くない。

特に会話が生き生きとしている。時折、会話に特徴のある言い回しが挿入されて、その違和感が創作上の人物に個性とリアリティを与える。例えば、「背中から未来へ向かって行けというに等しい」と例える騎士と、その例え方が琴線に触れたヨナ。

「一二二九年にトゥルーズで開催された会議で、信徒が聖書を読むことを禁止した、つまりは教会だけが聖書を独占しようとしたことは、これは要するに臆病さから発したことだ。聖書のなかの矛盾や撞着を、信者に知られてはならぬという恐怖からだ。それぞれの地方語に聖書を訳することまでを禁止し、信徒は教会の彫刻や柱頭や聖画だけを見ていればいいというのは、映像と記号だけを受け身に受けていさえいればそれで足りる、その内容の是非や意味内容などを考える必要はない、ということだ。これでは背中から未来へ向かって行けというに等しい」

 騎士の独語のはじめの部分は聞き流していたので、ヨナには漠然としか受け取れなかったが、”背中から未来へ・・・・・・”という部分は聞き捨てがならなかった。自分でもくるりと後ろを向いてみて、後ろ向きに歩いてみると、それはひどく頼りない感じのものであった。

 しかし、後ろ向きで歩いてみてはじめてわかったことは、ものを考えるということ自体、ひどく危いことであるらしいということであった。

堀田善衛(著)『路上の人』新潮社,P.206

本を閉じた後、最後の舞台となるモンセギュール山嶺の城塞の写真を見る。こんな断崖絶壁に、よく城なんか建てるなと思う。今は観光地になっている様子。著者のあとがきによれば、このあたりには岩山や崖の上など、よくこんな場所に建てられたなと思うような教会や歴史的遺物が多いらしい。

ジムのあとは奥さんと合流して魚屋で昼食。今年初の秋刀魚を食べる。味がしっかりしていて美味しい。去年は不漁でなかなか食べれなかったが、今年は豊漁なんだとか。現代科学を以てしてもなお、秋刀魚の回遊ルートには未だに謎が多く、毎年の漁獲量を予想するのは難しいらしい。

帰宅して本棚を片付けていたら、昔、青山ブックセンターで貰ってきたリーフレットが出てくる。若林恵『さよなら未来』という本の刊行記念に作られたもので、同氏の推薦図書が掲載されている。その中にある『路上の人』の推薦文がきっかけで、この本を手に取ったことを思い出す。そうか、「熱狂とそれがもたらす暴力」が軸にあるのか、と。それは私自身が興味のある事柄だった。

堀田善衛先生は、カタリ派から、宗教戦争から、十字軍から、島原の乱から、戦時中の日本軍にいたるまで、熱狂とそれがもたらす暴力について数多くの作品を残したが、それが人の本性であることを受け容れながらも、どのような立場においてそれに与せずにいることが可能かを思考し続けたように思える。「路上に身を置く人」になることは、そのひとつの解だったと読める路上の人とて自由なわけではない。やはり大きな十字架を背負いながら歩くのだ。

『さよなら未来』刊行記念〈地図なき未来を迷う本棚〉若林恵のエディターズ・チョイス2010‐2017〈一般書セレクション〉より

TSUTAYAから借りてきたDVDを観る。残り3本。まず『サウルの息子』。

1944年10月、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所。サウルは、ハンガリー系のユダヤ人で、ゾンダーコマンドとして働いている。ゾンダーコマンドとは、ナチスが選抜した、同胞であるユダヤ人の死体処理に従事する特殊部隊のことである。彼らがそこで生き延びるためには、人間としての感情を押し殺すしか術が無い。ある日、サウルはガス室で生き残った息子とおぼしき少年を発見する。

ゾンダーコマンドたちが、ガス室からたくさんの悲鳴が押し寄せるなか、「処理」中の人々の衣服から金目の物を探し集める場面から始まる。「処理」が終わったあと、彼らはガス室の床を洗剤と雑巾やぶらしでゴシゴシ洗う。各々が膝をつきながら、洗剤の泡だらけの床をせわしく雑巾でふき取る様子は、大変生々しい。

サウルが息子だと彼が思いこんでいる少年(の死体)は、本当に彼の息子なのか。疑いが芽生え始めると、収容所の悲惨な現実以上にサウル自身の狂気によって物語は緊張する。しかし彼の狂気を生み出すのもまた、収容所の容赦ない現実かもしれない。

続いて『かぐや姫の物語』を視聴。いつの間にか身体が成長している描写の自然さや、かぐや姫が部屋を吹っ飛ばして走り出す(しまいには四つん這いになって野を疾走する)描写の疾走感など、とにかく絵が凄すぎて惚けてしまう。

かぐや姫を男性たちに抑圧される女性の象徴として、竹取物語を現代的に再解釈した話だと勝手に思っていた。だが、この映画はそんなに素直な話だろうか。かぐや姫の台詞に感情移入しながら観るとたしかにその通りだが、違和感のある場面がちょいちょいあるのが気になる。2匹のカエルの体を重ねる必要はあるのか(露骨に交尾を思わせる)、蝶が部屋の中をひらひら飛ぶシーンが異様に長いが何か暗示しているのか、いきなり富士山の絵が出たり、見知らぬ父子が後ろ姿で砂浜に立つ絵が唐突に出てくるが、物語とどう関係するのか。不可解な絵や演出がこうも積み重なると、この映画には何か別の意図が秘められているのではないかと邪推したくもなる。

極めつけは最後、月の迎えが来る場面。これが最高。まず音楽。翁たちとかぐや姫の別れのシーンなのに、ここで寂しさや切なさを煽るような、悲愴な音楽は流れない。代わりに、エレクトリカルパレードを若干雅にしたような場違いな音楽が流れてきて唖然とする。かぐや姫は最後、死の概念を理解できない月の者たちに、限りある生を生きる素晴らしさを熱弁する。が、月の者たちは話の途中で有無を言わさず彼女の記憶を消してしまい、演説の途中でかぐや姫ははたりと気を失う。彼らの、初めから相手に同情も理解もする気がひとかけらもない、あの話が全く通じない感じ、彼岸の向こう側に存在する感じがすごくよく出ている。超然とした彼らを前にすると、かぐや姫の鳥、虫、けもの、草木花、生きとし生けるものみな同じ、私は私らしく生きたい、などのパセティックな訴えものれんに腕押しで、虚しく空回りするかのよう。高畑勲監督自身も、かぐや姫に感情移入するより、むしろ月の者たちのように、誰に共感することなく超然と世界を俯瞰しているのかもしれない。

少なくとも、この映画は何か他とは違う、と思った。何が特別なのか、まだうまく言葉で表現できないので、もやもやする。ただのフェミニズム映画として片付けてしまうには惜しい何かが秘められているような気がする。監督がこの映画を制作する様子のドキュメンタリーもDVD化しているようなので、そっちも観てみたい。

TSUTAYAから借りてきた最後の1本は『ブルーベルベット』。長閑な郊外、少年が野原で切断された耳を拾う。不穏な幕開け。面白そうだが、時間切れ。隣町のTSUTAYAに行って、月初に借りたDVD5本をそのまま返却し、プレミアム会員を解約する。定額の映画(旧作)借り放題サービスは、私の性には合わなかった。借りてきても、DVDを積んだまま放置してしまうので。

帰宅して、奥さんが図書館で借りてきた本谷有希子『静かに、ねえ、静かに』をパラパラと読んでみると、すごい読みやすい。想像に反して、それほどSNS文化を揶揄したい訳ではなさそうだが、なんだかもやもやとする感じ。深夜、雨も降らず。台風は来そうでまだ来ない。予報では明日の午後に東京にやってくるらしい。SmartNewsのトップに並んだ記事。

・台風24号(チャーミー)沖縄市泡瀬一帯で冠水 一部で車両通行できず(琉球新報)
・昼得きっぷ、30日販売終了 金券ショップではどうなる?(神戸新聞NEXT)
・マレーシア首相「後退だ」日本の憲法改正にクギ(朝日新聞デジタル)

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