デザイン思考の蹉跌

今2冊書いているうちの1冊がデザイン思考に関するものだ。題名をどうしようか迷っている。

デザイン思考の蹉跌

デザイン思考失敗の本質

方便としてのデザイン思考

いずれにせよ書きたいことは

・そもそもデザイン思考って何かよくわからないよね。

・2020年の日本で喧伝されているデザイン思考って「誰でもクリエイティブになれます!」とかいっているけどろくなアイディアが生み出されたことがないよね。

・人間中心設計のドン・ノーマンは「人間中心設計からは漸進的な改良しか生まれず、画期的なイノベーションはユーザから生まれない」とはっきり論文で書いているのに、それに言及する人少ないよね。

・「デザイン思考でイノベーションが生まれます!」っていうなら実例を見せて欲しいよね。実例をあげるならそれのどこがデザイン思考か教えて欲しいし、その上であなたのデザイン思考の定義を教えて欲しいよね。

・15分か20分、その場で思いついたことを付箋に書いてはりつけるだけでイノベーションが生まれるとか本当に思ってんの?そんなこと信じてるの?

・そうやって書き出したアイディアを誰かが適当に「グルーピング」する。そこでそのアイディアは誰のものでもなくなる。

・そこからどうやって案を選ぶの?投票っておそらく誰からも文句がでないけど、最低のやり方だよね。集合知が働くためには他人の意見に影響されちゃいけないんだけど、どうどうと丸シールとかはってるよね。

ということをつらつら考えていくと、「デザイン思考で誰もがクリエイティブに!」と大声で解くのって、大乗仏教、しかも鎌倉新仏教に通じるところがあると思うのだ。

仏教というのは、釈尊から始まり、様々な人が様々な考えを提示してできた哲学の体系と見ることもできる。しかしそれはとても難しく難解。誰もが庶民でも救われるためには、

「とにかく念仏」

「とにかく題目」

そうすれば誰もが救われる、と説く。「誰もが」というところに力点をおけば確かにそうした方向性もあるだろう。

しかしそれは過去に積み上げられてきた知の体系を無視する行為にもつながる。ブレーンストーミング一つとってもそれに対する批判、改良方法はいくつも提案されてきているのに、「とにかくブレスト、批判絶対禁止!」と無邪気に繰り返す姿勢はどうなんだろう。

いや、私のデザイン思考ではそんなことは、、という人には「そうですね」と答える。しかしどうして「とにかく南無阿弥陀仏」のような「とにかく批判絶対禁止、質より量!」という教義が批判なしにまかり通るのだろう。

健全な発展のためには、健全な批判が必要である。そう考えて本を書こうとしている。いや、私がKindleでだしたところで10人も読まないんだけどね。

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