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みかんの色の野球チーム・連載第40回

第4部 「熱狂の春」 その12
 
 
「チャッカチャーン、チャチャチャ、こーおーち! チャッカチャーン、チャチャチャ、こーおーち!」
 11回の裏、ワンナウト三塁。絶好のサヨナラ勝ちのチャンスを迎えて、一塁側スタンドの高知のブラスバンド応援団が、コンバット・マーチのお返しを始めた。
「チャーンチャ、チャーンチャ、チャーンチャ、チャッチャ、チャッチャ、津久見をたーおーせーっ、おーっ!」
 大声援に後押しされて打席に入ったのは、6番の橋本。
 絶体絶命のピンチ、吉良はもうドロップに頼るしかない。
 そして、1球目。打者の手元でストンと落ちたボールは、ストライク。
 打席の橋本、ピクリとも動かない。
 2球目。やはり大きく曲がり落ちた投球は、ボール。
 橋本、またも微動だにせず、見送った。
 カウントは、1‐1。
 ここで吉良、三塁に牽制球を1つ。ランナーがすばやくベースに戻り、サード山口からの返球を受け取る、吉良。
 帽子のひさしに手をやった後、セットポジションから左足を上げようとした、そのとき、

「フフヒフひゃああああああああああああああああーっ!」
 
 ものすごい絶叫が三塁側アルプスからマウンド上の吉良に飛んでいった。
 その直後に三塁走者西森スタート、打席の橋本がバントに構えたが、吉良の投球はそのバットの上を通過する外角高目のストレート。それを捕球したキャッチャー山田、すかさず走者の前に立ち塞がる。慌てて三塁へ戻ろうとする走者を、山田が追い、サード山口との挟殺プレーで三本間に仕留めた。スクイズ失敗、ツーアウトだ。
「よっしゃーっ!」
 津高の応援席から、歓声が湧き起こる。
 最後は打者の橋本をセカンドゴロに打ち取り、スリーアウト。吉良、ピンチを凌いだ。
 私は、見ていた、知っていた。
 アルプススタンドの上段から、高知の作戦を見抜いて吉良に伝え、津高を敗戦の危機から救った人物が誰であるのかを。
 それは、私の5列下の席にいる、フォクヤンだった。
 吉良の投球動作とともに彼が放った、あの空気音の絶叫は、
「スクイズじゃああああああああああああああああーっ!」
 という音声になって、吉良の耳に届いたのに違いない。
 ユカリの命に続き、津高の運命までも救った老人は、座席に着いたまま両手を大きく打ち鳴らしていた。
 
 12回の表、津高の攻撃。
 この回の先頭バッターは、7番の山口。
 新チームの結成以来、通算の打率が4割3分2厘、打点が18、塁打数19と、いずれもチーム最高の数字を上げていた不動の4番打者も、甲子園に来てからは極度のスランプに陥り、打順を下げられていた。
 倉敷工戦でも、県岐阜商戦でも、報徳学園戦でも、ノーヒット。責任感の強いキャプテンは、この絶不調に悩み、苦しみ、宿舎でも眠れぬ夜を過ごしていたことだろう。
 ただし、わずかながら、好材料もある。今日の試合、前の打席で、彼はこの大会初めてのヒットをライト前に放っている。得点には結びつかなかったものの、これは吉兆と見て良いのではないだろうか。
 そんなことを考えていた私の目の前で、高知のエース三本は、早くもカウント2‐1と山口を追いこんだ。
 4球目は、ファウル。5球目もまた、ファウル。キャプテンの意地と責任が、バットに乗り移っているのか。
 そして、6球目。内角高目に入って来たカーブを、渾身の力で叩いた一撃は、レフトへ高く舞い上がり、背走する左翼手の頭上をグングン伸びて、ラッキーゾーンに飛びこんだ。
 ホームラン! キャプテンのホームラン! 12回表の劇的ホームラン!
歓喜渦巻くスタンドの中で、私は確信していた。
 この試合は、勝ちだ。
 キャプテンが打ったのだから、勝ちだ。
 打てなかった選手が、こんなところで打てたのだから、勝ちだ。
 野球の神様というものがいて、その神様が打たせてくれたのだから、勝ちなのだ、と。
 
 12回の裏。あとは、吉良の仕上げを見るだけだった。
 先頭打者の松本を、ピッチャーゴロで、ワンナウト。
 次打者の崎本を、キャッチャーゴロで、ツーアウト。
 そして、最後の打者の三本を、ドロップで三振、スリーアウト。
 試合終了。2対1。津久見高校、優勝だ!
 
 マウンドを駆け下りる吉良。抱きつく山田。走り寄る内野手たち。遅れて跳びつく外野手たち。両手を上げてベンチから飛び出す小嶋監督。総立ちの大観衆。酔いしれる4万人。湧き上がる大歓声。躍り上がる応援部員たち。抱き合うバトンガールたち。割られるクス玉。乱れ飛ぶ5色のテープ。舞い上がる紙吹雪。鳴り響くサイレン。整列する両校の選手たち。交わされる握手。流れる校歌。振られる大旗。放り投げられるザブトン。繰り返されるバンザイ。飛び交うオメデトウ。拍手の大嵐。クシャクシャの笑顔。ビショビショの泣き顔。
「やった! やった! やった! やった!」
 父に跳びつく私。
「やったのう! やったのう! やったのう! やったのう!」
 私を抱えて高く掲げる父。
 三塁側のアルプススタンドでは、観客どうしが抱き合い、肩を叩き合い、笑いを弾かせ合い、涙を流し合い、叫び合い、飛び上がったり、転げ回ったり、体をいっぱいに使って喜びを表現しようと懸命な人、人、人。
 フォクヤンが、両隣の人たちと肩を組んで何かわめいている。
 両隣の人たちも、フォクヤンと肩を組んで何かわめいている。
 みんなが、わめいている。何か、わめいている。
 みんながわめいているので、何をわめいているのか分からない。
 ブッチンの姿が見える。
 その左隣に、母親の姿も見える。
 母親の、そのまた左には、男の人が立っている。
 男の人が、母親に、何かを話している。
 母親が、男の人に、何かを話している。
 男の人が、また、母親に何かを話した。
 母親も、また、男の人に何かを話した。
 男の人が、さらに、母親に話しかけた。
 母親が、男の人に、平手打ちを食らわした。
 平手打ちを食った男の人は、頬を押さえながら、また母親に何かを話し始めた。
 母親もまた、男の人に何かを話しかけ、途中から両手で顔を覆って、泣き出した。
 そのとき、ブッチンが、男の人に駆け寄り、その胸に抱きついた。
 男の人が、ブッチンを抱きとめ、抱きしめたまま、泣き始めた。
 抱きついたまま、ブッチンが顔を上げ、男の人に何かを言った。
 男の人が、泣き顔のまま、ブッチンに返事をした。
 抱きついたまま、ブッチンが、もういちど、男の人に何かを言った。
 男の人が、泣き顔のまま、ウンウンと、うなずいた。
 両手で顔を覆って泣いていた母親が、男の人とブッチンに歩み寄った。
 そして、ブッチンの背中ごしに、男の人に抱きついた。
 男の人の泣き顔が、ひどくグシャグシャになり、口を大きく開けて、叫ぶように泣いた。
 
 閉会式が始まった。
 大会の委員長から、紫紺の大優勝旗が、山口キャプテンに手渡された。
 選手1人1人の首に、優勝メダルの青紫色のリボンが掛けられた。
そして、行進が始まった。
 大優勝旗を手にした山口キャプテンを先頭に、優勝した津久見高校の選手たちが、甲子園球場の広いグラウンドをゆっくりと周回する。
 その後ろに続くのは、優勝こそ逃したものの、名勝負を戦い終えて晴れやかな笑顔をした高知高校の14人。
 両校の選手たちの足取りに伴って、マンモス球場をぐるりと取り囲む大スタンドから、4万人の拍手と歓声が巻き起こる。
 三塁側アルプススタンドの上部席から、それを見守る、父と私。
 私は、父の鞄から取り出したスケッチブックの新しいページを開き、そこに赤いマジックペンで「おめでとう」の5文字を書いて、高く掲げ持っていた。
 そのメッセージは、オレンジソックスの14人と、そしてもう1人の人物に向けて書いたものだった。
 私の5列下の席で、先ほどの男の人に肩車をされて、行進に見入っている、ブッチン。その顔が、ふと、こちらを振り向いた。
 そして、私の掲げたメッセージに気づき、これまでに見せたことのないような、とてもすてきな笑顔を投げかけてくれた。
 オレンジソックスの大活躍は、大阪にいた父親をこの甲子園球場に呼び寄せ、津久見からやって来たブッチンと母親との間に、7年ぶりの再会を実現させてしまったのだ。
 ありがとう、日本一の誇りと感激を。
 ありがとう、私の親友の人生の幸せを。
 春の午後の日差しの中を、鮮やかな緑の芝生の上を、晴れやかに行進する、みかんの色の野球チームの選手たち。
 土で汚れたユニフォームの、その頼もしい背中に向かって、私の心は感謝の言葉を、何度も何度も繰り返していた。
 
 
 
 
(※注)今回の(注)は、ありません。


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