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小説「ころがる彼女」・第13話

 私は夢のなかにいる。
まもなく叔父が、福岡の叔父さんが、巨大な蜘蛛の化物になって現れるに違いない、悪夢のなかにいる。
 私はまた、苦しめられるのだ。最後には、胸を突き抜かれ、殺されてしまうのだ。
 不吉な声が、暗闇の向こうから響いてくる。
「ゆうみこおー」
 これまでに何百回も聞いてきた、その声が近づいてくるにつれ、棘と毛がびっしり生え並んだ関節肢が、一本ずつ、闇から歩き出てきた。そして八本の脚がすべて出そろったとき、メガネザルに似た蜘蛛の怪物の顔は、私のすぐ目の前にあり、大きな腹部の突起からは、しゅるしゅると糸を吹き出している。
「ゆううみこおおー、逃げられんぞおおー」
 不気味な声を発したとき、すでに蜘蛛の顔は、叔父の顔に変わっている。 その人相は、私には分からない。叔父の顔を忘れてしまったから。でも、そいつの口が開き、おぞましい言葉を吐きかけてくるのは分かっている。これまでも、ずっとそうだったから。
「弓子。躁の気分に任せて不倫をするとは、相も変わらぬあばずれ女だ。勤めていた広告代理店を追われる羽目になった、尻の軽さを発揮して、哀れな老人を手玉に取ったおまえには、淫婦の名こそふさわしい。上司のディレクターと関係を持つだけでは飽き足らず、その上の制作部長にも、さらに上の制作局長にも股を開いて、社内不倫の出世コースを歩んでいたつもりが、突然のブラジル支社への転勤辞令、事実上の退職勧告だ、ざまを見ろ。会社人生の急坂を転がり落ちていったのと同じように、悦楽の躁から絶望の鬱へ、おまえを叩き落としてやろう。断崖絶壁から、地獄の底へ突き落としてやろう。弓子、これを見ろ」
 言われた通りに目を凝らすと、化物蜘蛛のたくさんの脚が、なにかをつかんでいる。
 それは、人の体だ。首から下を、ねばねばの糸でぐるぐる巻きにされた、人間のコクーンだ。
 その人の、顔が見えた。
 あ、清水さんだ。邦春さんだ。
 このまえの夢では、蜘蛛を追い払ってくれた邦春さんが、いまはその虜になってしまっている。
 化物蜘蛛の前脚が、なにかを握っている。ああ、それはナギナタだ。ナギナタを使って、邦春さんの首を刎ねようとしているのだ。
「弓子。おまえを助けてくれる味方は、もう誰もいないぞ」
 意地悪な声でそう言うと、蜘蛛はナギナタを振るい、邦春さんの首を切り飛ばした。
 切断面から噴き出した鮮血が、暗闇を朱に染めていき、胴体から離れた邦春さんの頭部が、私の目の前に落ちてきた。
「いやあああーっ」

「いやあああーっ」
 自分が放った叫び声で、弓子は目を覚ました。
 これまでは、声を出そうとしても、悪夢のなかでは出せなかったのに、それが初めてできた。
 ベッドから跳ね起きた彼女は、部屋の明かりを点けると、悲鳴を聞いて隣室から起き出してくるかもしれない夫に備えて、ドアへ行き、鍵をかけた。
 それから壁際に置いたCDラックへ向かうと、たくさん並べられたCDやDVDのなかから一枚を、右手に選び取った。
 そして大きなCDプレーヤーのキャリーハンドルを左手に握り、持ち上げると、そのまま出窓へ移動した。
 カーテンを開き、窓を開けると、床板の上に、スピーカーを戸外へ向けてCDプレーヤーを据えた彼女は、部屋のドアを激しく叩きながら夫が投げかけてくる「弓子どうした!」の声には耳を貸さず、プレーヤーのコードのプラグを壁のコンセントに差しこんだ。それから電源ボタンを押し、扉を開いてCDをセットし、スキップボタンを操作して五番目の曲を選ぶと、音量ダイヤルを最大限にまで回したのち、再生ボタンを押した。

 二基のスピーカーから放たれた轟音は、近隣住民の眠る深夜の空気を伝わり、大音響となって拡がっていく。
 ゆっくりと回転をするギターの音に、男性ボーカルそして女性たちのコーラスが重なり合うなか、ドラムとベースの力強いリズムが生み出すロックのうねりが、夜のしじまを破ってどこまでも連なっていく。

「ベイービーッ、アキャーンステイッ、ガッツローオーオーミー、コールミエンタームリンダーアーアーアーイッ」
 
 三分四十五秒の楽曲が、弓子の押したリピートボタンによって、何度も繰り返され、終わりのない演奏会は続く。

 沈黙を守っていた近隣の家々の明かりが次々に点き、表へ人々も出てきて、これは何事かと騒ぎ始めた。音源になっている西原邸の二階の出窓を指さし、何だあれはと非難の言葉を交わし合った。
 寝室で眠りを破られた邦春もまた、ベッドから起き出し、壁時計の針が午前三時過ぎを指しているのを見ると、この騒音の状況を把握するために二階へ上がっていった。
 西原邸の出窓と向かい合う二階の部屋に入ると、うるさい音楽が鳴り響いてくる窓を、邦春は開けた。
 そのとたん、大音声が邦春の耳をつんざいた。

「べいーびーっ、あきゃーんすていっ、がっつろーおーおーみー、
こーるみえんたーむりんだーあーあーあーいっ」

 うわあ、なんだ、これは。なんという、やかましくて、だらしのない音楽だ。いや、これは音楽なんかじゃない、ただのどんちゃん騒ぎだ。邦春は両手で耳をふさいだ。
 それでも騒音は飛びこんでくる。見ると、その音源は出窓に置かれた機械であり、その向こうには髪を振り乱して踊っている女性の姿があった。
 弓子だ。弓子が踊っている。パジャマ姿で踊っている。音に合わせて、腰を大きく回しながら、弓子が踊っている。
 その女性は、この自分が恋する人だ。その腰は、昨夜この自分が抱いた腰だ。ああ、なんという事態を、彼女は引き起こしてしまったのだ。
 絶望感に襲われる、邦春。その視界の端に、もうひとりの人物が現れた。
それは、弓子の夫だった。ドアを開け入室してきた彼は、工具のようなものを手にしている。
 そして出窓へ向かってくるなり、機械のコードをつかむと、コンセントから引き抜いた。
 音が止んだ。
 静寂が戻った。
 窓を閉めようと彼がしたとき、
「ストーンズ、サイコーっ!」
 と、弓子の大声がしたが、窓が完全に閉じられると、それもまた聞こえなくなった。
 カーテンが閉められた部屋は、しばらくすると暗くなった。西原邸の周りに集まっていた近隣の人々は、やがてそれぞれの家へ帰っていった。
 邦春もまた、窓を閉め、部屋から出ると、階段を下りていった。寝室の戸を開けると、ベスがベッドから出て待っていた。飼い主がいなくなったのを心配して。
 愛犬を抱き上げると、邦春は言った。
「真夜中のコンサートをやらかしたのは、おまえの原産国の悪ガキどもみたいだよ」
 それを聞いたベスが
「フウン」
 と鼻を鳴らした。


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