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小説「ノーベル賞を取りなさい」第29話

あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。




 中川は絶望のどん底にいた。自分がこの世でいちばん愛している存在とも言うべきガガが、突然いなくなってしまったのである。
 多摩川の河川敷で、いつものようにリードから放し、自由に走らせた。すると五、六十メートルほど走ったところで急に止まり、それから宙に浮かんで堤防の向こうへ消えていってしまった。
 すぐに河川敷から交番へ行き、事情を話し、ガガを探してくれと頼んだ。ところが警官は真面目に話を聞くふうでもなく、被害届の提出さえも拒んだ。その理由は、ガガがいなくなったのは盗難なのか逸走なのか分からないからだと言う。さらに犬の逸走防止は飼主の義務であり、盗難であることを裏付けるにはカメラの画像などの客観的な資料が必要になるとも告げられた。しかし、あの状況ではスマホのカメラを使うことなど思いもつかなかった。だって、そうだろう。あまりにも突然の出来事だったのだから。
 ガガを失ってからというもの、なにをする気にもならなくなってしまった。家でも、街でも、大学でも。今週の土曜日には北青山のTASでテレビに出演しなくてはならないが、いまの精神状態ではとてもそんな大役は果たせそうもない。辞退しようか。いや、そんなことを、あの理事長が許すはずがない。へたをすると殺されるかもしれない。
 頭を悩ませながら、大学の食堂で砂を嚙むような味気ない昼食をとっていると、上着の内ポケットの携帯電話が鳴った。知らない電話番号の相手からだ。中川は声をひそめて応対した。
「もしもし」
 すると相手は驚きの言葉を返してきた。
「こんにちは、加賀縄静也さん。ごきげんは、いかが?」
「えっ……。ど、どうしてその名前を……?」
「単調な平仮名のアナグラムじゃ、簡単にバレちまうってことさ。
どうせならローマ字に分解して、まったく違った感じのペンネームを作れば良かったのに。そうは思わないかい、中川保司さん」
「ええっ……。俺の本名まで……。あんた、いったい、何者だ?」
「愛しのガガちゃんを預かっている者だよ」
「ガ、ガガを? ガガを返してくれ! いますぐ返してくれ!」
 突然の中川の大声に、食事中の学生たちがこちらを向いた。それを見て、中川は再び小声で話しはじめた。
「ガガは元気なんだろうな? 食事はちゃんと与えてくれてるんだろうな?」
「エサは与えてる。ただし、キャットフードだ」
「な、なんだって。体を壊しちゃうじゃないか。ガガは元気にしているのか?」
「写真を送ってやるよ。あんたのスマホ、『+メッセージ』アプリは使えるかい?」
「ああ、使える」
「それじゃあ、いますぐ送る。写真を確認したら、折り返し電話をくれ。じゃあな」
 相手が電話を切った。中川も切り待っていると、ブーブーという振動音とともに「+メッセージ」のアイコンに赤い印が付いた。それをタップし開くと、ケージに入れられたガガの写真が出てきた。ケージには有名なメーカーのキャットフードの箱が立てかけられており、「このままだと、私にゃんこになっちゃうわ。たすけてえー」という一文が添えられていた。
 中川の両目から涙が溢れだした。それを拭いもせず急いで相手に電話をかけると
「キャットフードなんて、まだ序の口だ。こちらの要求をあんたが吞まないと、こんどはトラフグの肝を食わせる。イチコロだ」
 という声。発狂しそうになったが、心を落ち着かせて訊いた。
「要求とは、なんだ?」
「土曜日の『殿様のヒルメシ』。話題本コーナーに出演したら、すべてを正直に話せ。この本は私が大隈大の柏田教授の英語論文を翻訳したもの、つまり完全なる盗作です。読者および大隈大の関係者の皆様に心からお詫び申し上げます、とな」
「そ、そんなことをしたら、俺はほんとうに殺されてしまう」
「あんたが生きてガガちゃんが死ぬのがいいか、両方とも生き延びるのがいいか、よーく考えろ。考えるまでもないだろうけど」
「助かる方法があるのか? ガガといっしょに暮らせる方法が?」
「話題本コーナーは、十一時過ぎ頃からだったな。俺はそれまでにTASの来客用駐車場に青いプジョーを駐め、あんたがスタジオから出てくるのを待つ。当日の駐車場番号は『+メッセージ』で知らせる。俺の車のナンバーは『品川○○〇 △ □□‐□□』だが、これも念のため『+メッセージ』に送っとくよ」
「プジョーに乗って、それから先は?」
「まず、ガガちゃんの居場所へ行き、車に乗せる。それから静岡へ向かい、あんたのために用意した家に連れていく。もちろんペット可だ。仕事も紹介するから、この先、生きていくのに不安はないはずだ。晴道学園大の連中に知られることもないだろうからな。奥さんは放っておいていいんだろ?」
「ああ。いずれ離婚しようと考えていたからな」
「よし、話はついた。だが、もしも裏切って警察や大学にたれこんだら、ガガちゃんの命は無いからな。俺の手下たちは残虐だぞ」

       

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