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ドサクサ日記 3/4 2024

4日。
詩を書くのがとても好きだ。歌詞が書けなくて困ったことはほとんどない。こんな言葉を書きたい、なんてことは想像しないで、メロディやそれに乗る言葉の断片や韻と向かい合う。そうすると出てくる。最初のうちは全体的な意味なんて気にしない。言葉にはそれぞれに意味がある。それを繋ぎ合わせていく。そうすると、思っていたかもしれないことや、思ってもみない言葉の風景が立ち上がってくる。そういう出会いを楽しむ。それは自分が持っている、あるいはこれまでに集めてきた言葉の可能性を広げるものだと思う。初めから設計図を敷いてしまったら、自分のなかに言葉が留まったままになってしまう。俺がしたいのはそういうことではない。もともとそんなに自己評価が高くない。いつも隣の芝が青くて、実際に世界は超人のような天才だらけで、打ちのめされながら進んできた。ただ、身体性とは違って、言葉はみんなのものだ。誰しもが、それを通過させる筒にすぎない。だって産まれて直ぐに言葉を話せる人はいないのだから。これは希望だと思う。大谷選手みたいには打てないけど、ホームランみたいな詩歌を書くチャンスは誰にでもある。もっともらしいことを書いてしまったときは恥ずかしくて、窮屈で、残念な気持ちになる。谷川俊太郎の言葉にはいつも勇気づけられている。自由に書きたい。

5日。
音楽の締切を厳守し、今度は文筆の締切と向き合っている。「筆はどこまでも滑っていいのだ」と自分勝手に解釈させてくれたのは町田康さんの小説や随筆での書きっぷりだった。動画を撮るようにはキャプチャーできないのが人間、言葉の性質だからこそ、誤読も含めた言語の可能性を考える。僕らはひっきりなしに思い出を自分で脚色している。そういう意味では、記憶こそがイリュージョンとも言える。

6日。
麺類にご飯、という食べ方だと炭水化物過多になってしまうので避けたい、みたいな気持ちを持ってから随分経つ。さすがにラーメンにライスみたいな注文の仕方は30代のどこかで止したが、定食屋や饂飩屋などに行ってサービスランチみたいなセットを見かけると負けてしまう。饂飩にミニカレー丼が付く、饂飩にかやくご飯が付く。よく考えると、饂飩の場合だけ、炭水化物摂取の縮減に失敗している。

7日。
久々にGOING UNDER GROUNDの松本素生君とゆっくり話した。ほとんどが音楽とバンドにまつわる話しで、部分的にはとても深く、また別の角度ではくだらない、とにかく楽しい時間だった。ノンアルの俺の前で一杯ずつ酔いが加速していく素生君の姿を見て、ノンアルで飲み会に参加しているヤツらはこういう風景を毎度眺めているのかと感心した。これはこれで、楽しい。彼は曲が書けて書けて仕方がないのだという。未発表曲を山のように持っているわけだ。細美君も前にMONOEYESのために100曲くらい書いたみたいなことを言ってたような気がする。世の中にはこうした天才が時折居て恐ろしくなる。どちらも聴けば分かるが、良い曲ばっかりだなと驚く。俺はというとボツ曲、曲のストックがほぼない。「手ェ出すんなら仕舞いまでやりな」と釜爺が言っていたが、毎度そういう感じだ。

8日。
腰と背中がバキバキなので整体へ。身体の背面が硬くなると息が吸えなくなる。そうすると肺活量が落ちて息が続かなくなってしまう。声の出る出ないのほとんどは喉が閉まってるとか開いてないとかそういうことではなくて、そういうことかもしれないが息の吸い方、吸え方が起源になっている。正しく息が吸える身体になっていれば、自ずとスパコン!と声は出る。気がするので、ボディーメンテは大事。

9日。
スーパーで刺身を買うと、かなりの確率であまり美味しくないやつを買ってきてしまう。売り場ではピカピカに輝いて見えて、あれは絶対に美味しいだろう、お魚系のYouTuberも今が旬だと言ってたじゃん、いいじゃん、絶対いいじゃん、と思って持ち帰るが、いざ実食となるとなんだか売り場と違って見えるな、みたいな気持ちになって、食べてみると信じられないくらいに普通か、美味しくない。難しい。

10日。
Wilcoの余韻。深夜のTV番組(多分、Beat UK)でOuttasiteのミュージックビデオを見て、『Being There』を買った。当時、友達に話せる人がいなくてとても寂しかったけれど、年を重ねるうちにまわりにWilcoファンが増えた。タンテの井上君をはじめ、Good New Timesのみんなも好きだったはず。とりあえず、生でMisunderstoodを聴くまでは死ねないなと思う。また元気に来日してほしい。