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ドサクサ日記 1/22-28 2024

22日。
夜中に突然、数本の小さな指を口の中に感じて「なにごと!」と目を半開きにして寝返りを打った。寝ぼけながらも、凄い薄いパニックみたいな感情でいると、今度は顔を寄せたベッドの隅からふざけるような感じで手が出てきて口に突っ込まれる。なんでやねん、みたいな明るい気持ちで手を振り払ったあと、生成りに薄い緑と薄い橙の着物の断片がパッと浮かんだ。久しぶりのオカルト体験だった。

23日。
やりたいことは決まっているが、それを音楽的に「かたち」にするのは難しい。歌を作る場合には、言葉が言葉以前の様々な感覚や感情未満のものと、実際に鳴らされるサウンドとの橋渡しをしてくれる。インストゥルメンタルの場合は、音符という言語はあるにしても、自分が取り扱うのは音符の外側でもあるので、意味以前のものをそのまま取り扱わねばいけない。そこに難しさと楽しさが同居している。

24日。
身体の精神の間に溝ができてくると、疲れているのに眠れなくなってしまう。精神がバリバリにイキりあがってしまっているので、脳をフル回転せよと無理強いをしてくる。身体はそれをすっかり信じてついていく。身体部位の多くは基本的に無口なので、しんどいかもというサインを脳が感じた時にはほとんど手遅れ、休みたい身体と動きたい脳=精神の歯車が無茶苦茶なことになってしまう。脱力したい。

25日。
コンセプトを揉んで揉んで、鬼が握ったオニギリのように固めて、それを割って取り出した梅干しの種の中心の仁を眺めながら、やっぱりパン屋に行くことにしました、みたいなややこしい手順を踏まないとできない音楽もあれば、ほとんど無のまま手を動かして、そのうちに膨らんでいく音楽もあって、改めて創作というのはよく分からんなと思う。そういうわけのわからないことを自分で行い、そのわけのわからなさに耐える時間を得られたことは本当に幸運としか言いようがない。創作上の才能というのは、やはり身体能力の制限を受けるので、音楽的なイチローや白鵬には敵いようもないのだけれど、まったく別のチャンネルによって開く感覚のような分野があって救われている。上手い下手だけなら、とっくに土俵の外。そして俺のようなやつは失敗できる時間と環境がないと才能の有無すら発揮されない。

26日。
池袋の国立芸術劇場で三東瑠璃さんの舞台を観た。ダンサーふたりの動きや身体そのものに大変に魅了された。気をつけないと素朴や権威や身内にしかわからないジャーゴンのようなものが、表現のそこいらに転がっていたりまとわりついていたりする。そうしたすべてを掻き分けて、一体私たちは何に感動するのかという問いは、手放してはいけないと思う。どこに寄ろうが何かしらの偏りのなかにあることは避けられず、しかしそうした偏りを拒むだけではありもしない「フラット」みたいな幻想に固着して、イソギンチャクのように何かを濾し取って生きるしかなくなってしまう。もっとも、イソ(以下略)には(略)ギンチャクの喜びがあり、自由な移動という人権の感覚の埒外であるため、彼らの感覚的な一切合切を日本語で表現することはできない。俺こそが観念上のイソギンチャクかもしれないと自省。

27日。
焼津へ。能登地震の後、やはり地震の国静岡と言うと語弊があるが、大地震が来る来ると煽られ続けながら育った身としては、思うことが多い。焼津の駅や港の風景のみならず、駿河の民として思い出深い海辺の風景はいくつかあって、これがいつか何らかの巨大な災害によって無茶苦茶にされるかと思うと切ない。100年くらいの目で見れば、それは不可避であることを抱えながら、生きていくしかないのか。

28日。
藤枝で手もみ茶の保存会のイベントに参加。朝に摘んだ茶葉を6時間かけて揉みながら乾かす、みたいな労働を経て、2.5kgの生茶葉は500gぐらいの乾燥茶葉、俺がよく知っているようで知らない緑茶になる。それは粉ではなく針のような形状で、温めのお湯でゆっくり戻すようにして飲む。お茶の戻し汁のような緑色のそれは、脳天を突き上げるような旨味を含んでいて、俺の飲んできたお茶は何だったんだろうかと、助宗という地区の農家の倉庫で俺の脳はカテキンでバキバキだった。そうした経験を経て、現場が観たくなってやってきたのだった。お茶の手もみは軽く揉んでいる風に見えて重労働だ。緑茶を作る手間を考えると、本来はポップに、というか饂飩屋とかでポチッとボタンで急湯的な感じで飲めていることが贅沢というか、ほとんど産業への迫害というか何らかの攻撃みたいな感じにも思えてくる。俺たちは人の手仕事に関わるコスト、価格への転嫁をあまりにも想像しないで「高い」とか言い合って暮らしている。時代と共に育んだ自分の性分が恥ずかしい。誘ってくれた大塚君は小学校からの同級生で、以前にもがっつり取材させてもらった。凝り性なのは昔からで、そういう陽の性分を生かして茶揉み名人に向かって突進している。世間的な評価は知らんが、全盛期のトシちゃんくらい格好いい。


新茶の季節ではないので、蒸しあげて冷凍保存してあった茶葉を解凍して、温めながら、水気を飛ばしていく。そのまま食べれるんじゃないかっていう感じの茶葉。
午後まで温めた和紙の上で揉み続けられた茶葉はこのような量になっていく。乾燥しているように見えて、まだ湿り気がある。これを完全に飛ばすのは本当に大変。10分で腰が痛い。


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