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私の思う(あいでんてぃてぃ)

アイデンティティという言葉は高校時代にはいやというほど聞くと思うし何かと少し考える材料、悩みのタネという表現が適切なのかわからないが何かと考えるものである。

例えば己の非力さを感じた時、何か現状に不満を抱えている時。人によっては「生きがい」にもつながってくるかもしれない。

まずはじめにアイデンティティとは独自性(他者と自分は確実に違う)とそこから派生する自分らしさ(それが生きがい等に繋がるのか)である。

私の恩師は「アイデンティティの本質は職業であるがアイデンティティ自体がまやかし」とおっしゃっていた。後者はともかくともアイデンティティが職業であるという点について確かに生活の大半を職業に捧げる社会人にとって生きがいにも繋がるし、江戸時代などの屋号や「〜屋のなんとかだい」のような昔の名乗りを見ても確かにわからなくはない。(昔はお家が仕事に直結していたからアイデンティティがそこに行くつくのはいわば当然でその流れを受け継いでいるというのが説明としては楽かもしれない)

確かにわかるが私は現代においてはそれだけではないと思う。画一的なデスクで同じような仕事をしていようものなら独自性はないし生きがいにもならないだろう。

一つ前の記事にも書いたが自分は信条や思想が自分を形成する上で独自性の材料になると思う。

人には何かしらの考えがあるが、現代においてその考える事柄は本能からかけ離れる。噛み砕いていうなれば食料を確保するために獣を殺そうレベルの狩猟本能とかそのレベルに関わることはまずないという話だ。

では本能からかけ離れた思考や思想はどのように形成されていくのかというと過去だと私は思う。

例えば親の思想も少なからず影響する。つけていたテレビ番組や日常会話によって親の信条や思想が反映された偏った情報源であるし、細かく言えば一生の中で自分が友人から聞いた話レベルのしょうもない話を全く同じ程度聞いた人なんてまずいないしいたとしても受け取り方が違うだろう。

さらに新しい情報を受け取ったとしても自らの過去から形成された思想や信条のフィルターにかけた時醸成される結論はおそらくわずかながらでも異なる。

このようにそれぞれの人が異なる過去を持つことによって生まれた思想や信条、考えといったものには独自性がある。

一つ目の要件、独自性はクリアした。では二つ目の生きがいになりうるかについてはどうなのだろうか。

生きがいとはそれが生きる意味に繋がるのかという話になるが私はこの思想や信条は生きがいにはならないと思う。

思想、信条というものは別に固定されているものではなく新たに知識を取り入れたり話をするレベルで変わるものであり非常に可塑性に富んでいる。そんな可塑性のあるものが生きがいとなりうるのであれば、非常に不安定で壊れやすい生きがいになる。自分の思想や信条と正反対の正論を突きつけられようものなら自我を見失うなんてことは聞いたことはない。まぁその信条や思想を基に成り立っていた考えや価値観が瓦解するという点で見ればあながち間違ってなくはないがそこまでの強度ではないだろう。

ともかく自分は他者と異なる思想を持っているという点においてそれが生きる意味にはならないにしろ独自性はある。ならそこは誇れるべき場所なのではないかと私は思う。なんせ地球上で一つなのだから、代替不可能なのだから。

生きがいという短絡的な結論じみたものを求めるアイデンティティという一般に広まる言葉としてではなくその生きがいになりうる論理の根本にある自分が他者と絶対的に違う部分で自分にしかできないという意味で達成している真のアイデンティティという意味では思想、信条はアイデンティティであると私は思う。





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