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「私」というフィルタの使用期限

記事ごとに完結していなくて本当に申し訳無いのだが思想や信条は独自の過去から生まれるため独自性があるというのが前回までのあらすじである。

では、その思想や信条から醸成される個人の意見や考えというものに着目していきたいと思う。

思想や信条というものは他人の意見を取り入れることで徐々に、又は緩やかに変わるものだが変わるというのはあくまで能動的な話であって受動的な話ではない。

ここでいう「能動的」というのは講演会に出向こうとかそういう話ではなく、自分が知る意欲を持って接するあるいはそのような意欲を持ち続けるという意味での言葉だ。選挙期間に走る選挙カーから新たな考えに触れるみたいな話はそうそうないだろう。

能動的でない限り新しい意見は得られない。新しい意見が得られないで固着すると思想や信条がそこでストップされ更新されなくなる。更新されなくなるとどうなるか?

「天上天下唯我独尊」の誕生である。

他人の考えなんて間違っているから触れる必要なんてない。

まぁこういうことである。

だが、実は能動的に他人の考えに触れようとしてもそこには落とし穴がある。少し前の文章を見て欲しいのだが、論理としては考えが固着してしまい更新されないからこそ他の話は間違っていると新たな意見を受け入れられない体質になってしまうという話だ。

要は考えを取り込む姿勢はあってもその考えが固まってしまった時点でアウトなのだと

この固着というものが異様に溢れていてYouTubeの政治動画なんてみようものならその下のコメント欄にはびっしりとその情報源だけを鵜呑みにしたかのようなコメントや偏ったコメントで溢れかえり偏った人達しかそもそも見にこないので偏った意見が高評価を押され、これだけの人がこう思っているのだからこれが正しいに違いないとそこで思考を停止させる。

このような人たちが考えを止めているかはわからないという意見もあるかもしれないが、おそらく止まっていると思う。ソースは私なのだがある政治家の主張動画に対してつけられた擁護するようなコメントに対しそもそも主張している前提の事実が異なることを指摘したところ8回ほども説得のために文献を貼りコメントしたが結局は最後には別の話にすり替えられ自らの正当性を主張したままいなくなってしまった。もはや狂気の沙汰である。

話を戻そう。ではいかにして固着しないようか、だ。

まず一つ目として信者にならないこと

一般的に、ある人や団体を崇拝するかのごとく全面賛成するような人を信者と呼ぶが、特定の人や団体の意見のみが正しいという考えに結びつきやすい。

信者にならないために  「意見に共感できる。」と思ったら正しいと思い込む前に正反対の意見も調べてみること、ただしあくまで能動的にみる必要がある。

二つ目に人は誰でも間違えるということを忘れないこと

自分も然り、他人も然り、専門家も然り

こんなものだろうか、いずれにしろ固着しなければいいだけの話だ。

タイトルに戻ろう。それぞれが思想や信条というフィルタを持っているがそれは固まってはいけないものである。新たな事実や考えに出会い、そして向き合う時がフィルタの更新チャンスでありそれはあり溢れている。

浄水器のフィルターのように見た目では劣化は感じなくても実際のところは月日を重ねるたびに古くなり汚れていく。だからこそこまめに交換することが必要なのだ。




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