書きたいこと

また悩んでいる。勘違いしないでほしいのは病んでるわけではない。悩んでいる。悩んでいるのか?不満が溜まっているだけかもしれない。

ただこれを誰に打ち明けたらいいのか分からず、不特定多数が見れてしまうこの場においてみる事にする。

こうしてここにおいておく事で不特定多数を不快にさせたり、不安にさせてしまう可能性がある。

もちろん、やってんなこいつと思われることも百も承知である。

ただ一方でどこかしらに共感したりする可能性もあるかもしれない。

普段からラジオをやったりや月刊のコラムやエッセイを書いているわけでもないので、

言葉を扱うことを日常的に生業にしている人には見るに耐えない部分もあると思う。

こんなに恥部を晒して普通の人はしない特殊な性癖の新しいタイプのオナニーなのかもしれない。

ただそんなこともう気にしない。

書きたいから書く。

とある順風満帆だと思われていた俳優が自殺した。死人は何も語らないので真実は分からないが、

誹謗中傷によるものだと言われている。TLに3年A組の動画がいくつもあがっていたのを見た。

僕は誹謗も中傷もされていない。むしろ相手にされていない。

しかし、これはこれで辛い。

かなりパーソナルな事情も書くので不特定多数にその一端を背負わせることに対しては気が重い。

ただ思い悩み思い悩みすぎるとパンッと人は死んでしまう可能性がある。これは僕なりの延命措置だ。

自己満でもなんでも残しておこうと思う。26歳独身の僕はこんなことを考えていた。

将来的に自分がこれを笑い話にしてほしいから。

僕は基本的に面白い人間、魅力的な人間にはカテゴライズされない。

世間的に僕のイメージといえば、変な名前、スキマスイッチ 。くらいのものだと思う。

ここから人間的魅力をどこに感じればいいのか。

僕のパーソナルな部分はほとんど誰も知らないと思う。そりゃそうだ。だって会って話す機会もほとんどないわけだし。

こうして書かなければ、もっと知ってもらえない。今、僕は明確に知ってほしいという感情で書いている。

そうしないときっとすぐに忘れ去られてしまうから。書いても忘れられる人には忘れられるだろうけど。

もう今現在基本は孤独だ。ご時世的にも性格的にもなかなか誰かに連絡もできない。

もちろん、連絡もこない。

それはきっと自分という人間を知ってもらうためのアピールをできた期間に怠ったからだ。

でも後悔しても時間は戻らなくて、だから今知ってもらおうと必死だ。

ただ自分でも自分がわからない時があるのにどうして他人に分かってもらえると思っているんだろう。

そもそも僕もほとんど人のことを知らない気がする。

一番近いはずの両親の馴れ初めも幼少期の話も知りやしない。

知る気がなかったと言ってもいい気がする。

なんとなく聞いてはいけない気がしてたのもあるけど。

血の繋がった人間ですら分からないことだらけなのに、

他人にそれを求めるのがそもそもの間違いなのだろうか。

これって社会人数年経験してる人間が気付くには遅すぎることなのかな。

26歳にしては人生経験が薄いと思う。新しいことをチャレンジしたいっていう気持ちがあんまりない。成功体験も希薄で、きっと自信がないから。

ただなんとなく生きているだけの人生だなって最近思うことが多い。

ただ僕はそれだけで十分偉いと思うんですよ。社会はただそこにありやがるからそこに参加しなきゃいけないって

教育されてくるんだけど、そこに属していなきゃ死んでるのも同然みたいな。腹たつな。

そこに生きているだけで生きる権利はあるはずなのになぁ。

ただそれでも結局社会に参加しなきゃいけないと思ってしまう自分の小ささも殺したいくらい腹立つ。

社会人の人間関係ってめちゃくちゃむずいしめんどくさくないですか?それまで味わったことのない特殊な人間関係だと思うんです。

責任という言葉がのってくるから?資本主義のせい?新自由主義のせい?競争社会のせい?それとも自分のせい?

責任の押し付け合いをしている現場の人たちは助け合いの精神を道徳の授業とかで学ばなかったの?

あれはでも寝るための授業だよね。しょうがないか。

社会主義国家に比べたらきっとチャンスが巡ってくるタイミングが多いのかもしれない、が、

可能性の幅が狭まってきている気がする。転職サイトには〇〇経験3年以上!と書いてあるものが多い。

人生ってもう少し色んなことできると思ってた。急にこういうことやってみたいな。

という衝動に襲われて、調べてみても、大抵自分が応募条件に見合った能力がないことがほとんどだ。最初から門前払いなんだもんなぁ。

可能性もあったもんじゃない。結果重視の社会で僕の人生はこういう過程でみたいなことを説明する時間すらもらえない。

自分の天職だって早めに見極められる人は本当にすごいと思う。

もし見合っていたとしても、そこには何かしら事情があって、大抵は会社側に問題があるから人がどんどん辞めているところである。

そんなものは入ってみてないと分からない。大抵愕然とするほど、クソみたいな環境だったりする。

単純に疑問なんだけど、社会に参加している人たちは消費される毎日で人はどこにどのように幸せを求め見つけるんだろう。

多様性という言葉は便利だよね。きっと僕が何を楽しみにして生きてますか?って聞いてみても理解できない幸せがそこには沢山ある。

今の幸せは自分の時間を確保することになってしまっている。毎日疲れて帰ってきて、自分の時間を確保するのに精一杯だ。

ただ今までの人生経験上、悩むってのは相当な時間と体力を要する。

そもそもこんなこと悩むことができるあたりまだ自分には余力があってやりようがあんのかね。

それでも自分なりには結構頑張って生きてるつもりだ。映画やドラマみたいな華々しさもクソもないけど。

自分より頑張って自分の時間を削って生きている人間が沢山いるのは分かっている。

ただ自分なりの精一杯だ。そんな中で最近気になるのが結婚する人がちらほら出てきた。自分と同じ時間を過ごしていた人達の結婚の報告は本当に嬉しい。

これは本当に嘘偽りない。これは信じてほしい。こういう言い方すると振ってるみたいだけど、本当に本当だ。

ただそれとは別にどういう感情なんだろうか。そう思ってしまう自分もいる。

今、僕は自分を生きるのに精一杯なのに、他人と一緒になる覚悟を決めるのなんて到底無理だなぁと思う。

幸せな家庭というものに憧れがある。もっとも近くの夫婦が一切幸せじゃなさそうだからだ。

信じることや、嘘をつかないことをテーマに作品を作った人がそこにはいた。

自分はそれを見て育ったから親の伝えたかったことはそこに詰まっていると思っている。

一方でその人の家庭での姿はどうだろう。家には収集癖の趣味がたたって、居住スペースのほとんどがその人のもので埋まっている。

しかも最近知ったのだが、それが家のなかで収まらずに別にお金を払ってものを置いていることが判明した。

10年近くその状況が続いていたらしい。もちろん今も進行中だ。

その上ほとんど仕事場に缶詰で一週間丸々家に帰ってこないこともザラにある。

それが普通の父親の姿じゃないと気づいたのが遅かった。

そして帰ってきてもろくに家族とコミュニケーションも取らず、家にいたら寝てるか

好きなアイドルの動画見てるだけだ。そのくせ、家族に対する注文は多い。

この自粛期間にその人以外はかなり断捨離をした。ただほとんどその人のものが家の中を占めているので、ほとんど家の中は変わっていない。

自分はお金を入れているから家庭のことは一切しなくていいというスタンスなんだろう。

そのせいで家庭が壊れていることにも気づかず、最近自分の場所がないとか言い始めちゃったもんだから困っちゃっている。

こうして家庭内の男性は自己責任とはいえ、淘汰されていくものだという印象が激しく強い。

こうはならないようにと反面教師になって最近時間のある土日はちょこちょこ家事をするようにしている。

正直本当にめんどくさい。でもこれを無給で続けてきた母親の凄さを実感している。

一つの家庭を作るのに必ず切っては切れないもので、SNSで見た表現を借りるなら

家庭が一つの会社だと考えると父親はもはやクビになっていてもなんらおかしくない。

仕事(家事)もしねえ、コミュニケーションもとらねえ、そのくせ従業員に注文は多い。

こんな従業員誰が雇うかよ。

芸人のコンビの片方が不祥事を起こした時、必ず言うことがある。

「最近、全然コミュニケーション取れてなかったやん。」

ここ数年ずっと、両親がまともに会話をしているところを見たことがない。

芸人ならもうとっくの昔に解散しているはずだ。

言ってしまえばうちの家族は家族としては終わっている。

そこに仕方なく暮らしている人の集まりだ。

仕方なくそこにいて、生きるために仕方なく少しずつ助け合う。

環境を変えればいい。無責任な人たちは言うだろう。

そんな経済的余裕はどこにもない。

さらに相続するときに相続税を払えないかもしれない現実がすぐそこまで来ている。

父親はアイドルにハマっている。息子からすれば正直きつい。

今までどうしても分からなかった。でも、最近理由が少しずつ見えてきた気がする。

アイドルの歌ってものは辛いときに背中を押してくれる楽曲が多い。

思えば高校の受験期、ももクロの空のカーテンという曲を結構聴いていた。

当時はいい曲だなくらいにしか思ってなかったけど、

今思えば、あの時の自分を肯定してくれていた、背中を押してくれていると思っていたのかもしれない。

父親は今家では孤独で、自分の責任とはいえ家族が到底肯定してくれるような環境にない。

だからきっと若い娘の楽曲だけが、肯定してくれる大事な要素なんだろうと思う。

つまり救いなんだと思う。

アイドルの現場に見られる香ばしいおじさんたちは救いを求めているのかもしれない。

偏見。

この話だけ明らかに蛇足だな。まぁいいや。

家庭を持つと言うことはよくいえば、無条件に帰れる場所がそこにあって、助け合える人がいるということだと思う。

悪くいえば、自分の時間やお金を自分のためだけに使えなくなる環境に置かれるということだろう。子供ができれば尚更だ。

そこまでして、うちの両親はこんなドラ息子を育ててくれたと思うと気が知れない。

家庭は壊れていても、やりたいことを否定されたことはなかった。無条件で常に味方で肯定してくれていた。

体力は衰えていくのに、頑張って、我慢して、それでも見守って。

うちの両親だけではない、色んな人を敵に回しそうだが、子供を持つ両親はみんなキチガイだと思う。

僕の敬愛するアーティストは生きることは少しずつ手放すことだと歌っていた。

もちろんそれは間違ってないと思う。体力、可能性、交友関係、諸々。

でももしかしたら、それだけではないのかもしれない。ふと、思った。

この文章を音楽聴きながら書いていたら、今まで普通に何度も聴いてたはずの曲なのに

いやに刺さってしまった超有名曲がある。あまりにリンクしすぎててパソコンの前でニヤニヤしてしまった。ふと暗くなった画面に写った自分の口元が気持ち悪かった。

”どれくらいの値打ちがあるだろう?

僕が今生きているこの世界に

すべてが無意味だって思える

ちょっと疲れてんのかなぁ

手に入れたものと引き換えにして

切り捨てたいくつもの輝き

いちいち憂いていれるほど

平和な世の中じゃないし

一体どんな理想を描いたらいい?

どんな希望を抱き進んだらいい?

答えようもないその問いかけは

日常に葬られてく

君がいたらなんていうかなぁ

「暗い」と茶化して笑うのかなぁ

その柔らかな笑顔に触れて

僕の憂鬱が吹き飛んだらいいのに”

この「君」が僕には誰だかまだ分からない。

でもそれが見つかるまでこの曲を聞きながら

僕は本当のことを言わないこの世界で、

まばらな客の動く箱に乗り、

檸檬の爆弾とバズーカを何本も背負って、

また戦地に忙殺されにいく。

あぁ、鉄塔の見える広いグラウンドでキャッチボールがしたい。

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