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弱さを開示できれば、組織は強くなる。次世代のための社会変革に挑む、支援員の姿

ゼネラルパートナーズ(以下、GP)の就労移行支援事業「リンクビー秋葉原」で活躍する、森一彦。海外の駐在員も務めた彼が、障がい者の就労支援にたどり着くまでには、大きな苦労がありました。今回はそんな森が、当事者研究を始めたきっかけとなった過去の出来事や、GPで実現したい社会について語ります。


レールを敷くのではなく、本人自らが変わっていくための支援を

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▲人生最後の仕事として利用者が自分らしく生きるために伴走する、リンクビー秋葉原の副施設長、森一彦


私は2015年にゼネラルパートナーズへ入社し、現在は発達障がい専門の就労移行支援事業所である「リンクビー秋葉原」で副施設長を務めています。またその傍、東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎研究室と共同で、企業✕当事者研究プロジェクトを進めています。

就労移行支援事業は、障害者総合支援法に定められた障がい福祉サービスのひとつです。就職のためのスキルアップ研修をはじめ、障がいに関する自己理解を深めるワークやストレスマネジメント研修、就職活動のサポートなどを行なっています。


数ある就労移行支援事業所のなかで、リンクビーが大切にする方針は「利用者が自分らしく生きる」ということ。精神障がい・発達障がいがあるリンクビーの利用者さんの中には、これまで過ごしてきた学校や職場、さらには家族にまでも否定されてきた経験がある方が少なくありません。

そんな利用者さんが、安心して自分を開示できるような場所づくりを心がけています。そのうえで利用者さん同士が助け合い、その過程で本人が自ら変わっていくことを見守る。施設長の鈴木や私のような職員がレールを敷くのではなく、卒業後も自分の道を自分の足でしっかりと歩いていく、そのための支援を私たちは行なっています。


私のもうひとつの取り組みである企業✕当事者研究プロジェクトは、「当事者研究」という手法を用いた、企業の働き方改革や風土改革の支援を行うプロジェクトです。当事者研究は北海道浦河町にある「浦河べてるの家」で、重度精神障がい者の就労や起業などを進めるなかで、新しい支援技法として編み出されました。自助を促すためのプログラムが特徴的で、当事者の方々が抱えるさまざまな生きづらさや不快な経験を対話のテーマにしながら、自分や仲間の経験を語り合い、一緒になって解消していきます。

企業✕当事者研究プロジェクトではこの手法を用い、組織に所属する人の「弱さ」を公開し、資源と位置づけます。それをもとに研究することで、組織内の心理的安全性が高まり、社員の可能性がより引き出されることを目指します。

このような仕事に取り組む現在ですが、実はGPに入社する前は、障がい者支援に関わったことは一切ありませんでした。そんな私が “人生最後の仕事” としてGPへの入社を決意した背景には、私自身が難病を発症した経験が大きく関わっているんです。


闘病生活の支えになったのは、同じ境遇の仲間の存在だった

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▲発病後始めたバンド活動の仲間と。 カラオケ、ライブ巡り、曲づくりなど、さまざまな活動を始めました


前職では、大手企業のグループ会社に勤務し、バブルが崩壊するころには、中国にある駐在事務所の責任者として仕事に奔走していました。当時はバブル全盛期から状況が一変していて、事業の撤収や売却、そしてスタッフ解雇など、つらい業務に追われてストレスを重ねる日々が続きました。

日本に帰国後はグループ会社に転籍しましたが、ほどなくして米国企業に買収され、社内は毎年のように繰り返されるリストラに翻弄されます。さらに、父の死や身辺のゴタゴタなどもちょうど重なり、ストレスは長年に渡り解消されなかったんです。

しばらくして身体が疲れやすくなり、これまでおいしく飲んでいたお酒もまずくてすぐ酔っ払うようになりました。そして、体重も徐々に減り始めました。おかしいと思い病院を受診したのですが、なかなか本当の原因は判明しません。ようやく「クローン病」だと診断されたのは、半年以上経った後、6カ所目の病院でのことでした。


クローン病は発症原因が不明の、消化器官が炎症を起こす難病です。若い人がなりやすい病気で、状態によって症状は変わりますが、腹痛や下痢、また私の初期症状であった体重の減少などが現れます。慢性の病気で継続的な治療が必要なので、今でも月に一度は通院をしています。

診断されて7カ月間は絶食となって、入退院を繰り返しながら、栄養剤のみで生きていました。当時はヘルプマークもない時代です。栄養剤だけではもちろん元気は出ません。ですが見た目は普通なので、誰も自分を障がいのある人だとは思わない。当然、電車内で席を譲ってくれる人もいませんでした。お腹が痛くなってはトイレに駆け込む日々。間に合わずに、駅の構内で漏らしてしまったこともありました。

そのような身体的な苦労に加え、精神的な苦労も大きかったです。入退院を繰り返したので、病気が原因ではないと言われながらも仕事は降格。みるみるうちにまわりから人が離れ、同僚とのつながりも疎遠になっていきました。


苦労する一方で、大きな力となったのは入院仲間の存在です。イケメンの美容師や、ビール会社の会社員、設計士など……年齢も職業もバラバラですが、みんな重い病気を抱え、入院期間が長い仲間でした。

そんな仲間との情報共有のおかげで、私は体調を安定させる療法を学びます。また、ソーシャルワーカーに取れないと言われていた障害者手帳を取得し、仲間を追いかけるようにして専門的な病院へ転院。徐々に、治療の主導権を自分に取り戻すことができました。

何より心強かったのは、同じ病気を抱える仲間がそれぞれの職場に復帰し活躍する姿です。仲間に勇気をもらいながら、私も体調を安定させ、職場でも成果を上げて元の職務に戻ることもできました。


それから10年ほど経って体調が落ち着いた頃、毎日のように深夜残業が続いたので障がい者枠での就労を考えるようになり、GPが運営する転職支援サービス「atGP」を利用しました。当時の私は入院仲間の若い人たちから、就職や結婚、家のローンなど、いろいろな悩みを聞いていました。そのこともあって、「同じ病気の人たちのサポートをしたい」という想いがあったんです。

そんな想いをキャリアカウンセリングでぽろっと伝えたところ、現職であるリンクビーの立ち上げがあることと、その事業所の支援員のポジションがあると教えてもらいました。いただいた求人のなかで一番条件は悪かったのですが(笑)、ほかの求人のどれよりも、 “ワクワク” しそうな予感がしました。

同じGP社員である、担当のキャリアアドバイザーに不思議な魅力を感じたのも決め手でした。そうして一回カウンセリングしただけで、半ば直感的に私は、リンクビーへの応募を決めたのです。


理想と現実に葛藤するなかで出会った当事者研究

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▲リンクビー秋葉原で開催されたクリスマス会にて。余暇活動を意識したコンテンツもあり、利用者さんと楽しんでいます。


その後無事に転職が決まり、支援員としてのキャリアをスタートさせましたが、最初は怖かったんです。プライベートで知り合いの大学生が亡くなった直後でした。

「自分の一言で死なれたらどうしよう」

障がい者を支援した経験のなさに、当然自信もなく試行錯誤の連続でした。そんな私に当時の施設長や先輩職員が教えてくれたのは、ひとりの人として利用者さんに向き合うこと。病名やレッテルから入るのではなく、ひとりの人間としてどういうことに苦労してきて、どういう悩みがあるかを受け止める。そのような姿勢を心がけながら、自分ひとりではなくチームで支援していくと考え、だんだんと仕事に慣れていきました。


今では働き始めて4年が経ちます。利用者さんと一緒に過ごした時間は、私の宝ものです。多くの方が卒業し、就労して活躍する様子に、私自身も励まされています。利用者さん全員を就職させることができたわけではなく、その後悔は非常に大きいですが、事業所を卒業した利用者さんが遊びに来てくれる時間は、何より嬉しいひとときです。

一方で、支援を行い始めて2年半が経った2017年の暮れ、私は大きな疑問にぶつかります。「自分らしくていいんだよ」と話し、リンクビーから社会へ送り出すものの、卒業された利用者さんの中には社会にうまく適応できず、大きく傷つく方もいます。実は私たちはすごく酷なことをしていて、本当は自分らしさなんて諦めて「会社に適応しなさい」と言う方が優しいのかもしれない――人の支援には正解がないので、当然ながら支援員のなかでも考えの違いがあり、何が正しいのかわかりませんでした。


いろいろな勉強をして自分なりの正解を模索するなかで出会ったのが、当事者研究です。熊谷先生の著書『リハビリの夜』などを読み、その哲学的で奥深い世界に魅了されてファンになりました。そしてリンクビーの指導方針やカリキュラム作成にも通じるものがあるのではないかと考え、職場の仲間と熊谷先生に実際に話を聞きに行くことにしたんです。

ファンなだけあって、私は熊谷先生にお会いできることだけでも嬉しく思いました。しかし、出迎えてくれた熊谷先生の表情は厳しいものでした。ご自身も障がい当事者であり、また当事者研究を実践し、専門に研究する先生方です。たとえばカリキュラムのテーマとして挙げた「障がい受容」という言葉について、このようなことを言われました。

「『障がい受容』という言葉を誰がどういう文脈で使うのかに無自覚な支援者が多い。支援者が当事者をコントロールする文脈で使うことには問題がある」

いわば多数派のシステムのなかで「あなたは障がい者であることを認めなさい、認められたらあなたはいい障がい者だ」というようなニュアンスになってしまう。熊谷先生との出会いをきっかけに、自分が当たり前のように使っていた言葉の暴力性に初めて気付きました。


正解のない支援にこそ限りない挑戦を

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▲当事者研究プロジェクトの一環で、終業後の社内“すいすい勉強会”を主宰。読書会の筈が飲み会に。


そのような熊谷先生との初めての出会いでしたが、最後には「定期的に情報交換をしましょう」と、数カ月後にお会いする約束をしました。そして熊谷先生との話をもとに生まれたアイデアが、冒頭でもご説明した「企業✕当事者研究プロジェクト」です。

最初からプロジェクトに自信はなく、まずは社内向けに企画書を書き、熊谷先生にも企画書をそのままメールで送りました。ところがすぐにメールの返事をくださって、お会いすると熊谷先生から「ぜひ一緒にやりましょう」と言われ驚きました。障がい者が働く環境である企業、そして社会の側を変えていきたい、という想いが共通していたんですよね。

そこからGP社員やGP以外の企業も巻き込み、企業内での当事者研究の実践を中心に、この1年間プロジェクトを進めていきました。複数の企業や大学が連携した新しい取り組みです。もちろんうまくいくことばかりではありませんでした。それでもここまで歩んできた背景には、前職での経験が大きいのではないかと感じています。


私の前職の同僚は、私と同じく難病を抱えていました。しかしそのことを会社に明かせず、隠しながら働き続けていたんですね。彼は私に対しては病気のことを明かしてくれたのですが、このときのことから私は、“会社=弱みを見せてはいけない場所”といった硬直した認識が社会に根強くあるように感じたのです。

それに、支援に正解はないとわかりながらも、私たちは「自分らしくていいんだよ」と利用者さんに伝え社会に送り出している。その責任があると思うんですよね。支援の正解はないからこそ、障がい者側も企業側も無理をしているという現状を変えていくことに、挑戦していきたいと思っています。そうやって挑戦することが、疲れたなと思っても働き続けられる、私自身のモチベーションにもつながっています。


継続的に当事者研究会を開催して感じたのは、このような当事者研究は、障がい者だけではなく、社内のチームビルディングやマネジメントなどでも活用できるということです。

従来のピラミット型組織が崩れつつある今、日本企業はどうやって仕事や組織の新しい仕組みをつくればいいのかと模索している段階にあるのではないか。そのようななかで、企業の本質は社員の「心理的安全性」を高め、多様性をうまく組み合わせて、しなやかで強い組織をつくることにあると思います。


弱さを開示し、人と人とのコミュニケーションを見直す。このプロセスが必須になる今、自らの“弱さ”を開示しながら働く障がい者は「仕方がないから雇う」といったマイナスの存在ではなくて、組織にとってプラスの存在になっていくのではないでしょうか。

自分の人生最後の仕事としてGPで働いていることに、私は今もワクワクしています。想いもある、優秀な若い社員と一緒に働けることも幸せです。これからも私がどんどんGPのカルチャーである「やってみよう、楽しもう」を実践し、次世代にその姿を見せていきたいと思います。



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