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高山右近の足跡を訪ねて―in金沢

連休前半を利用して、金沢に一泊二日の旅行に行ってきました。

金沢在住の旧友との6年ぶりの再会と、音楽会(ポーランド国立放送交響楽団with角野隼斗)が今回の旅の大きな目的でしたが、さらにもう一つ、キリシタン大名であり利休七哲の優れた茶人でもあった戦国時代の武将高山右近の足跡を辿るという目的がありました。

カトリック金沢教会の敷地の一角に立つ右近像
石川県立美術館に続く歴史の小径を登り切ったところに立つ案内板
築城の名手だった右近が修復を手がけた金沢城石川門


「棄教して生き残るか信仰を守るか」その二つに一つしか選ぶ道のなかったキリシタン大迫害時代。

キリシタン大名達が次々と棄教していく中、その信仰が最後まで揺らぐことのなかった一人の大名がいました。

それが高山右近、その人です。

高槻城主時代、貧しい領民の葬列に出会った時には自らその棺を担ぎその死を悼んだほど、領民を愛し守る偉大なリーダーだった右近。
その姿に打たれ、高槻の領民のなんと7割がキリスト教に入信したといいます。

山崎の戦いなどでその戦功を認められ、築城の名手としても高く評価されていた高山右近。
「裏表のない、絶対に裏切らない男」と秀吉に信頼されていたといいます。

大名職を捨てた後、相談役として長く右近を加賀に迎え入れ庇護した前田利家は、「本来ならば日本の大名として一.二を争えるほどの器」と彼のことを評価していたそうです。

秀吉も「伴天連追放令」を出す一方で、右近の才能を惜しむあまり、彼の師匠千利休を右近の元にやってまで、なんとかして棄教するよう説得にあたらせたといいます。

神の前に、信仰を守るためには6万石の大名の地位さえも、惜しげもなくさらりと捨て去ることができた右近。

この世の地位や名声、財産など、天国で受ける栄光に比べれば何の価値もない。
そのことを強く確信していたからに他なりません。

最期は今のフィリピンのマニラに流刑になり、そこでその生涯を閉じることになります。

右近の生涯は、まさにこの聖句を実践した一生だったと言えるのではないでしょうか。


マタイによる福音書16:24~26

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。


今回は時間がなくて回り切れませんでしたが、金沢中心街には高山右近から影響を受け信仰をもった豪姫や、脇田直賢などキリシタンの足跡を残す遺構が他にも何か所かあるようです。
それらを訪ねるのは、また次回の金沢行きの機会にとっておきます。

新しいものと古いもの、文化と自然が徒歩圏内にギュッと凝縮されている町金沢。とても魅力的な街だなと今回あらためて再認識しました。

右近研究に関しては、今度は機会を見つけて大阪の高槻にもその足跡を訪ねる旅に行ってみたいと思っています。


表千家の教授であり、高山右近研究者として知られる高橋敏夫牧師の解説↙

http://jvckoto.news-site.net/culture/ukon_20130326.pdf