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人に会うのがしんどい

人に会うことが苦手だ。

程度の差こそあれ、人に会うことを苦痛に感じる人は少なくないだろう。
「そんなの誰にでもあることだよ」と言う人もいる。

しかし私の「会うのがしんどい」は、重症とまではいかなくとも、中等症くらいではあると思う。

1日のうちで人と会話することといえば、スーパーのレジで「ポイントカードはお持ちですか?」と聞かれて「いいえ」と答えるくらいだ。
そんな生活が何年も続いている。
親友と最後に会ったのは半年以上前で、母や妹にはもう1年以上会っていない。

人と話しているときの私はごく普通に見えるらしく、それが周囲から病気についての理解を得られにくい理由になっている。
相手の目を見られないとか、ボソボソしゃべるとか、おどおどしているとかいうことはまったくない。

親しい友人と話しているときには、その場では楽しんでいるときさえあり、自分ではまったく無理をしているとは感じていないのだが、家に帰ると心身の疲れがどっと出てしまう
人に会った次の日、ひどいときにはそのさらに翌日も、ぐったりと動けずに布団で寝込んでしまうことになる。

認知行動療法を試してみようとカウンセリングを受けたこともあるが、カウンセラーと話をしただけで翌日寝込んでしまった。
臨床心理士というのは、私のような精神障害を持った人たちと毎日のように会っていて、相手の感情を逆撫でするようなことはめったに言わないプロフェッショナルだ。
しかも私を担当していたのは若くて美人な女性だったのだから、それで寝込んでしまうようでは、ほかの人と会ったときにどうなってしまうかは推して知るべしである。

半年以上会っていない親友もそうだ。
彼は心理学、哲学から宗教、スピリチュアルまで、読んでいない本はないのではないかと思うくらいに心の世界に精通しており、しかも人格者だ。
宗教団体の教祖から「私の後を継いでほしい」と頼まれたという話を2件くらい聞いたことがある。
いつもにこやかで、穏やかで、私に対しても思いやりがあって寛大だ。
それなのに、もう会いたくないと思うくらいに疲れてしまうのである。

そんな中にあって唯一、私とLINE電話で話をすることがあるのが台湾人のT君だ。
彼と話をすることは、なぜかわりと大丈夫なのである。
それは彼のパーソナリティーに因るところもあるだろうが、彼がマルチリンガルの外国人で、会話の8割が英語であることが大きいのではないかと思っている。

2ヵ国語もしくはそれ以上を話す人は、異文化に対して概して寛容だ。
いわゆる普通でない人に遭遇したときに、彼らは「そういう人もいるよね」心の底からあたりまえに思っているように見える。
そういう人と話をするときはありのままのどうしようもない自分を出せるから、やはり楽だ。

そして英語は、表現がシンプルなところがいい。
日本語はいわゆるモダリティのバリエーションが著しく多く、ニュアンスが細かすぎる。
例えば「私はそれが好きだ」ということを相手に伝えようしたとき、
「それ好き」「それ好きです」「それ好きよ」「それ好きだわ」「それ好きだな」「それ好きだぜ」等々、さまざまなニュアンスが存在する。
日本人はその微妙な違いを敏感に感じ取り、場面に応じて使い分けている。

些細なことながら、これも私を疲れさせる小さな一因になっているのかもしれないと思う。
T君は日本企業の台湾支社に勤めていたことがあり、日本語もなかなか堪能だが、こういったニュアンスの違いはほとんど理解できていないようだ。

英語では「I like it.」と言えばそれ以上に深く悩むことは何もなく、単純明快だ。
頭の調子が良くて自分の脳が完全に英語モードになっているときは、そのシンプルさによって何かから開放されたような気持ちになれる。
調子が悪くて脳の半分が日本語モードになっているときはといえば、それはそれで英語で文章を組み立てることに必死になっているから、ほかのことを考える余裕がなくて助かる。

T君は今、彼女を連れて一年ぶりの日本旅行に来ていて、私は昨夜、彼らといっしょに夕食を食べてきたところだ。
今日はその話を書こうと思っていたのだが、なんと「人に会った後のダウン」が発症してしまった。
会った相手がT君でもこんなにぐったりと疲れてしまったことに少なからぬショックを受けている。

一滴の酒も飲んでいないのに、午前中は布団の中で動けないまま過ごしていた。
この苦しみを紛らすためにできることは、美沙希さんがあの美しい指で私を絞め殺してくれたらどんなにいいだろう」という甘美な妄想だけだ。

T君からもらったおみやげの話は明日に書こうと思う。


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