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少女に気軽な一人旅が届くまで問題3

1912年7月30日、年号は大正になりました。この時点での列車移動についてまずまとめます。前回はちゃんと扱っていなかった部分についてもここである程度まとめます。

注意 2以降のこの記事は鉄道情報が足りていません。追記の告知をせずゴンゴン書き足します。申し訳ありません。

国有鉄道、私鉄がかなり整備されたことで、いろんな場所に行けるようになっています。むしろこの時点で重要な『行けない場所』『ない場所』について説明しておいた方がいいかもしれません。

まず、山手線です。
全くない訳ではないのですが、環状線になるのはまだまだ先、1925(大正14)年、関東大震災の後です。
正式には「山手線」は品川──田端間のみで、田端──東京間は東北本線、東京──品川間は東海道本線です。複数の沿線を経由した環状線なのです。山手線が環状線になるまでかなり混乱した、すんごいことになっています。掘ると「マジかこれ」とおののくくらい濃密なので、興味のある方はいろいろ読んでみてください。

とりあえずまだ「東京駅なし」で、「上野──呉服橋までのC字型」に沿線ができている状態です。ここからある程度予想できるとは思いますが、環状線でないことでC字の端っこから反対側に行くルートはものすごく不便です。これが大正元年時点の山手線です。

そして1914(大正3)年、東京駅が開業し、呉服橋駅は廃駅になります。

東京駅です。辰野金吾が設計した赤煉瓦のアレです。辰野金吾は日銀の建物も設計したりしています。

そしてご存じの方も多いでしょうが、東京駅には東京ステーションホテルというホテルもついています。(死ぬまでにぜひ一度宿泊してみたいホテルのひとつです)

大正4年に開業し、この時点では築地精養軒が経営しています。

東京駅が開業したことはとても大きいです。東海道線、東北本線のターミナル駅が「ちゃんと設定された」状態になったからです。少女トラベルミステリでもこれは大変重要な要素だと考えています。(すみません。この記事『少女トラベルミステリ』のためのものなので、基本はそこなんです)

日本でどこからどこまでスムーズに移動できるか、これを定義するのに「ターミナル駅が存在するか」はとても大きいです。山手線というのがそもそも東海道線と東北本線を連結するためのルートして作られたものなので、こうして遠くまで行ける路線と近隣を繋ぐことのできるターミナル駅が設定されたのは本当に重要だと思います。

ただし上野──東京がC字であるということは、東海道線から東北本線へのリンクがめちゃくちゃ不便だということです。上野までのC字の合間は残り3.6キロ。ごくわずかです。わずかだからこそ余計にストレスがかかっただろうと思います。

そして1919(大正8)年、神田駅が開業しました。繋がっていないのは神田──上野間、現在の山手線だと神田、秋葉原、御徒町、上野の間(この時期にはまだ御徒町駅はなく、秋葉原駅も貨物専用の駅でした)。ごくわずかです。このわずかな距離が繋がっていないためにものすごい不便感が生じます。なので中央本線と接続して中野──東京──品川──池袋──上野駅間でのの字運転が始まります。

のの字なので中野から東京へ向かう時と、東京から品川を回ってくる時と、新宿駅に二回停車することになります。このために新宿駅の利便性がめちゃくちゃ上がりました。

このまま少しずつ地道に便利になっていくのかと思われた山手線ですが、とんでもない番狂わせが起こります。関東大震災です。

1923(大正12)年9月1日、東京だけでなく近隣の県にとんでもない被害を出した地震です。このタイミングに火災も発生しています。このせいで有楽町駅、新橋駅、浜松町駅、鶯谷駅、上野駅が焼失します。この状況下で山手線の残りの工事を行うことになります。
(上で採り上げた東京ステーションホテルも、経営していた築地精養軒が築地全焼のために経営悪化しています)

1925(大正14)年、神田──上野間が接続されます。環状線になりました。このタイミングに御徒町駅が開業、秋葉原駅が旅客営業を開始しています。これでやっと日本の北と西を繋ぐハブが完成したと言えるでしょう。

大正の終わり時点で、現在の大手私鉄の多くが出揃っています。現在、大手私鉄と呼ばれている鉄道会社のうち、東京メトロを除いた会社の開業時期を明治から並べてみます。

1885(明治18)年 阪堺鉄道(後の南海電気鉄道)、難波──大和川(後に廃止)間を開業
1899(明治32)年 東武鉄道、北千住──久喜間を開業
1899(明治32)年 大師電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)、川崎(六郷橋駅)──大師(川崎大師駅)間を開業
1905(明治38)年 阪神電気鉄道、三宮──出入橋間を開業
1910年(明治43年) 箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)、梅田(大阪梅田駅)──宝塚間、石橋(石橋阪大前駅)── 箕面公園(箕面駅)間を開業
1910(明治43)年 京阪電気鉄道、天満橋──五条間を開業
1910(明治43)年 (旧)名古屋鉄道、押切町──枇杷島間、枇杷島線として先行開業
1911(明治44)年 九州電気軌道(現在の西日本鉄道)、東本町停留場──大蔵停留場開業
1912(大正元)年 京成電気軌道、押上──市川(江戸川駅西方)、曲金(京成高砂駅)──柴又間開業
1913(大正2)年 京王電気軌道(現在の京王電鉄)、笹塚── 調布間開業
1914(大正3)年 大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)、上本町──奈良間(現在の奈良線)を開業
1915(大正4)年 武蔵野鉄道(現在の西武鉄道)、池袋──飯能間を開業(現在の池袋線の一部)
1921(大正10)年 相模鉄道、茅ケ崎──寒川間を開業
1923(大正12)年 目黒蒲田電鉄(現在の東急電鉄)、目黒──丸子(沼部駅)間を開業

ただ、大正の世は短く、1926(大正15)年12月25日、大正天皇が崩御します。

もっと短く書けるかもと思っていたのですが、山手線が思った以上にインフラとして重要すぎて、大正で一回まるっと使ってしまいました。
大正の終わりにやっと東北本線沿線から東海道線の沿線へ、そしてその逆へ速く移動することができるようになった訳です。大手私鉄もほとんどが出揃いました。(まだ開業していないのは小田急電鉄一社で、こちらは昭和2年に小田急線全線を開業します)
ネックとなっていた東北本線、東海道線のリンクが実現したことで、かなり遠くまで行けるようになっています。ただ、まだ少女が一人旅できるほどの状況ではなさそうです。

次回は昭和に入りますが、どこまでできりがよくなるか読めていません。

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