新型コロナウイルスを知って以来、わたしは何を体験してきたか?

新型コロナウルスの感染が拡大していって、わたしが体験したことをひとことで言うなら、それは息苦しさである。

その息苦しさは、ひとつには生理的な面での息苦しさで、もともと喘息やアレルギーを持っているため、たとえばマスクをするとさらに息苦しさがつのるからだ。また、歯科治療のときは、椅子を倒されると気道が狭くなり、普段から息苦しいのだが、今回の件で感染防止のため歯科ではゴムのカバーを口にはめて治療が行われたので、溺れるような息苦しさであった。不安障害の気もあるので、逃げられない状況に、心臓がドキドキし、治療をときどき中断してもらわないといけないほどであった。先生は心配しつつも、中断できないプロセスもあるようで困っていて、それもさらにプレッシャーになった。治療が終わったときの達成感といったらなく、生還した喜びにあふれてしまった。

わたしの感じた息苦しさは、このような生理的なものだけでなく、精神的なものもある。特に3月末に勤務先の大学がオンライン授業を決めるまで(それは異常に遅い判断であったのだが)、大教室での感染のリスクを考えると、不安で憂鬱な毎日だった。かかったらどうなるかを調べてみると、喘息の人はハイリスクであり、致死率は基礎疾患のない人の6倍と書いてあった。新型コロナウイルスの症状は肺炎ということを考えると、確かに喘息の人は肺炎になると命取りだと思った。少しでもリスクを下げる戦略を考え、マスクや消毒液を用意しようと思ったが、どこにも売っていなくて、高い転売品しか見つからなかった。トイレットペーパーやティッシュペーパーが店先から消えていくのも不安だった。はじめてするオンライン授業の準備など、やらなくてはいけないことがたくさんあったが、手につかなかった。まずは命の安心があってこそであって、そんな不安の中で仕事などできるわけがない。自分に厳しい義務を課すのは少しやめようと思った。


精神的な息苦しさは、このような感染への恐怖という点に加え、サーファーたちのサーフィンの自粛のあり方と、それにまつわる言説についてだった。県外者は来るなと言い、あたかもウイルスが外部の人間からしかもたらされないような言いようだった。お互いに感染しない・させないということは確かに重要であるが、一斉にサーフィン禁止にして、サーフィンをしている人をヒステリックに怒りつけたり、批判したりするというのは、何か違うという思いでいっぱいだった。しかしその思いは口に出すのが難しく、息苦しかった。


サーフィンのようないわゆる横ノリ系のスポーツは、権威に対する抵抗という要素が、レゾンデートルであり、人気の理由でもあったはずだ。しかしどうだろう。今回の件で、明らかになってしまったのは、サーフィンは一ミリの例外なく、権威に丸め込まれ従う、むしろ率先して旗を振って「コロナ自警団」の役割を果たすようなスポーツに成り下がったということだ。コロナ自警団とは、「自粛」に従わない人を攻撃する人たちである。甲南大学の田野さんは、大学院時代の研究室の先輩だが、朝日の記事でこう書いていた。『コロナ自警団』のような人たちは、異端者に正義の鉄槌(てっつい)を下すことで、普段なら抑えている攻撃衝動を発散しているわけです。ファシズムの根本的な特徴を体現しているといえます」。 「『自粛』要請に従っていないように見える人たちを非難する行動は、『権威への服従』がもたらす暴力の過激化という観点から説明できます。政府という大きな権威に従うことで、自らも小さな権力者となり、存分に力をふるうことに魅力を感じているのです」。

サーファーたちは、権威に対して、自分たちの工夫で自粛行動をクリエイティブに作り出すこともできたはずだ。しかしそうはしなかった。もとからサーフィンの世界には、閉鎖性と排他性が蔓延していたが、ウイルスの感染防止をエクスキューズに、それを隠す必要もなくなったのだろう。奇しくも、2020年は、サーフィンがオリンピック種目として採用された年である。サーフィンの本質が大きく変化したのを、オリンピックではなく、新種のウイルスによって目にするとは思ってもみなかった。

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