わたし(たち)はコロナウイルスからどんな影響を受けているか?

新型コロナウイルスの感染拡大という事態を受けて、自分のこれまでの考え方に変化があったか、価値観を揺すぶられるような経験があったか、と考えてみると、確かに大きなインパクトはあったと思うが、がらりと価値観が変わったかというとそうでもないかなと思った。

自分にとっては、東日本大震災とそれにともなう原発事故のほうが、遥かに大きな衝撃で、考え方や価値観が二度と元には戻らないほど大きく変わったと思うからだ。このときは、政治やエネルギー問題、自然環境の保護という大切なことについて、これまで完全にひとごとだったことに気づき、後悔した。取り返しのつかない惨劇に、自分が無関心という形で深く加担していたことを思い知ったのだった。

国は、国民を守らない、研究者も、金と名誉のためには魂を売り渡す。電力会社は広告代理店と組んで嘘の安全神話を垂れ流す。メガバンクは大量に融資をして金利を稼ぐ。国民は電気料金や税金としてその資金を払い込む。いわゆる原子力ムラの構図から、誰も逃れることができない。

そんな絶望的な状況から、何を学び、何を希望にして、生き残るのか、何を残すのか、必死に考えた。当時の私は、正規雇用をやめ、離れて住む家族に元に引っ越した。周囲の人は驚き、退職に反対したりしたが、家族以上に大事なものなどないと思え、見知らぬ土地で一からキャリアを作り直そうと決意した。政治に関心を持ち、投票するときはきちんと党の公約を比較するようになった。大学で学生にもっと日本の社会問題、特にエネルギー問題を教えようと思った。食材や食品のバックグラウンドに注意を払い、動物の飼育環境も気にするようになった。

その経験からすると、今回の感染症拡大にともなう国や自治体のお粗末な対応は、すでに経験済みのように思えた。命を最優先にしない、弱者を守らないという点で共通点が多い。そういう場合は、新聞やテレビに頼らず、ニュースを批判的に見て、情報を集め、先を読んで自分の健康を守る手段を考え、行動するほうがいいのでそうしていた。


では、原発事故と感染症拡大、自分に与えたインパクトは、それぞれ大きいのだが、何が違っていたのか。自分に与える影響、自分をどんな行動に駆り立てたかという点で、どんな点が異なっていたのか。原発事故については、私は明確に即時停止、即時廃炉、反原発を一点の曇りもなく自分の立場を明確にできた。

しかし、新型コロナウイルス感染拡大防止に対する自粛行動については、基本的に自粛、ただし工夫の余地はあるので、臨機応変に、創造的に、想像力を働かせてという自分の立場を、自分自身には明確に意識できたが、それを公に表明するのは難しかった。何かを言えば、自粛警察のようなヒステリックな人に吊し上げられるのではないか、あるいは円満な関係を持っていた知り合いとのあいだに、考え方が異なる場合、亀裂が生じるのではないか。そんな風に思って、ただひっそりと、自分の納得できる範囲の行動を静かに行う以外できなかったのだ。


原発は批判できて、コロナ対応は批判できない。なぜそのような影響の違いがあるのか。それはおそらく、原発は私にとって、ある意味のひとごとなのだ。原発のある地域に住んでいない。原発の関わる仕事に就いていないし、周囲の人も関わりがない。反原発を公言しても、仕事は奪われないし、サーフィンを軸にした生活スタイルも変わらない。むしろサーファーは海に入るので、海の近くにある原発には反対の人も多い。安全な状況で批判できるのだ。

しかし、コロナ対応ではひとごとではいられない。自粛となれば、自分の生活スタイルの変更を余儀なくされる。仮にそれを押して海に入れば、自粛警察のふりかざす正義と、いやおうなく対峙させられる。コストが高すぎるし、リスクもある。自分がひとごとでない問題に対し、立場を表明したり、批判したりするのは難しい。なんだ、私は案外情けないじゃないか、芯が弱いなと自覚させられた。おかしいことをおかしいと言うのを恐れているうちに、いつのまにか戦争も起きたのじゃなかったかな。

少なくとも、自分が自分事になると、意外に勇気がないということを知った。そしてそのままではダメだ、しっかり立っていかなくてはという意識の変化が、きっと今回の感染症拡大が私にもたらした小さな変化だと思う。

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