第4回「アフターコロナに忘れたくないこと」

今回の講座の最後は、「アフターコロナに忘れたくないこと」という題で、この講座をしめくくる文章を書くことになった。いつにもまして、筆が進まない。書こうと思うと、苦しいような気持ちになる。少し前は、書くことで気持ちが整理でき、すっきりしたような気持ちになったし、書きたい気持ちの方がまさっていた。なぜだろうか。


6月19日を境に、私の住む地域は、県を越えての移動自粛が解除された。それとともに、近隣の車の交通量が目に見えて増えた。友人たちも、インスタグラムにレジャーに出かける様子を安心してアップしだした。電車内の混雑も普通になってきた。大学は相変わらずオンライン講義、会議のままではあるが、施設利用は徐々に学生に解放されつつある。夏以降の会合はオフラインでという約束も増えてきた。


そんな日常が戻ってくると、あれほど不安、恐怖だったコロナウイルスが、遠い世界のことに思えてくる。しかし、6月26日現在、新規の国内感染者が105名、5月9日以来の100名超えだとニュースになっていた。いったん収まっていたかのように見えたが、収束には程遠い。世界中でまだまだ感染は拡大し続けているのに、周囲に以前のリズムが戻ってくると、現実味がなくなる。書くのが苦しくなるのは、すでに乗り越えたような気分になっている問題を、もう一度蒸し返す作業に感じられるからなのかもしれない。そうか、私は、もうこのコロナ禍を忘れたがっているのだ。


 しんどいことばかりではなく、良いこともたくさんあった。在宅になって、ストレスは減ったし、人と会うエネルギーを温存できた。無駄な会合もなくなった。ITスキルも上がった。学生は、より責任を持って講義と課題に向き合い、コメントもしっかりしてきた。ちょっとドライだったうちの猫たちとも親密になった。恋人と過ごす時間が増えたことで、けんかもしたが絆が深まった。世界中の経済活動が強制的にストップする様子は今まで見たことがなく、圧倒的だった。あ、全部やめれるんだ、実は、というのも大きな発見だった。


 しかし同時に、今まで見たことのない醜いものに直面したというのも事実だ。見たことのない、というのは、語弊があるもしれない。見ないようにしてきたものを、見ざるを得なくなったのだ。たとえば、市民の痛みを無視する政治家たち。次々と愚策を打ち続ける政府。率先して国に従属しようとする市民たち。ヒステリックな自粛警察。地域社会の差別性と排他性。サーフィンというスポーツの政治性。どれも重く、解決は容易ではなく、複雑な要素が絡み合っていることがらだ。ひとりの人間の力では、とうてい太刀打ちできない問題で、改善するには、根気よく、あきらめずに、多くの人の力と知恵を終結させていく必要がある。


 日常が戻ると、こうしたことは、また片隅においやられ、何事もなかったようになってしまう。だから、この事実と、それについて自分が感じたことは、覚えておかなくてはいけないし、覚えておきたいと思う。「戦争ってこうやって始まるのかな」と感じたこと。ウイルスの感染拡大と戦争はまったく別のものだが、よく似たものをあらわにする。自分が感じた息苦しさの正体、そして覚えておくのが難しく、忘れてしまいたくなるものの正体。人によって正義は異なる。こういうことを心にとめて、コロナ後の世界を生きていこうと思う。

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