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香港のタンザニア人コミュニティから学ぶ事

小川さやか著『チョンキンマンションのボスは知っている』読了。著者の小川さやかは、チョンキンマンションのボスことカラマを入り口に香港に住むタンザニア人のコミュニティがどのように回っているかを語った後、それが現代の日本の社会の未来を考えるヒントになるのではと言う。

 香港のタンザニア人たちは、中古の自動車や携帯電話などを香港の業者から仕入れ、タンザニアの輸入業者に販売することをメインのビジネスとしており、情報の非対称性をうまく利用してビジネスを成り立たせている。彼らは組合も作っていて、タンザニア人が誰か亡くなると寄付を募って、遺体を母国に送るとかの活動もしている。詳しくは原著を参照して欲しいが、小川は彼らの社会を”新しい経済のかたちを動かすためにコミュニティの論理を取り入れたのではなく、仲間との贈与や分配のためにテクノロジーや資本主義の論理を取り込んでいるのである“と言う。そして”モノやサービス、情報がその時必要な誰かに自然に回るシステム、誰かに過度な負い目や権威を付与することなく回っていく分配システムが市場経済の只中に形成されていくことに期待する”と言う。

  このようなシステムを日本などでも実現可能だろうか?資本主義とはどこまでも差異を求めていき、それを共通の価値尺度(現在は貨幣)で評価し、その共通の価値尺度の資本をどこまでも増大させていくというシステムである。この本でも触れられているが、共通の価値尺度が貨幣から、信用となれば現在の金融資本主義が、信用資本主義となるだけであり、同一の価値尺度で評価されるという息苦しさからは逃れられないし、資本を持たざる者は排除されるというのも著者が指摘する通りである。貨幣は、そもそも外部化された信用であり、元々は巨大な石に貸し借りを刻んでいたという。そこには現代の貨幣のような厳密さはなく、ゆるい縛りであったであろうと思われる。

 香港のタンザニア人コミュニティに感じるのは、この緩さである。この緩さが、資本主義が高度化していない過渡期のものなのか、タンザニア人の生きる知恵が反映されたものかはわからないが、ここでは後者であるとしてそれを日本とかにも適用できるかを考えてみよう。

 貨幣であれ、信用であれ、共通の価値尺度で評価されるということは、取引される物や事を文脈から引き剥がす事になり、それが息苦しさを生んでいると思われるので、まず新しいコミュニティでは、外部と内部に対する価値尺度が同じでなく、またそれ自体変動しても良いという風になっている事、またコミュニティがメンバーにとってのセーフティネットになっている事が必須であろう。

 ちょっと抽象的になってしまったので、もう少し具体的に考えてみる。貨幣であれ、信用であれ、共通の価値尺度での評価に息苦しさを感じる人々は、顔の見える関係性からコミュニティを作っていくだろう。地域コミュニティであれば、食料・エネルギー・住居が確保できれば、基本サバイバルできると思うので、これらをどう確保するだが、それができなくとも別のコミュニティと連携を取れば実現可能かもしれない。いずれにせよ、コミュニティ内では、独自の信用システムが築かれ、外部とのコミュニティとの間は依然金融資本主義的かもしれないが、内部において緩さがあるおかげで息苦しさからは逃れうると思う。香港のタンザニア人コミュニティは本能的にその緩さを取り込んでいるんではないかと想像する。いずれにせよ、こうやって金融資本主義(信用資本主義)の網が細かく張り巡らされないようにすることで、人間らしいポスト資本主義を生んでいかねばならないと強く思う。


 


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