表紙

不動産と音楽が持ちうる 物語が導く終着地について(仮)

「ポップカルチャーから紐解く2010年代の ”郊外” SUBURBS」 という同人誌が、今年の夏、コミックマーケットで頒布され、見事売り切り御免となった。

 i am Kólßtrains: 「Key's FOUR SEASONS」「ポップカルチャーから紐解く2010年代の ”郊外” SUBURBS」再版しました 

僕もその誌に、一つの論説や論考の類のようなものを寄稿した。

頒布主のこるすとれいんさんからの要望(ぜひ書いてくれよー!という声)に応えて書き始めたこの文章が、今のところ、僕が今まで書いた文章で、僕自身が最も驚かされた文章になった。

この文章は、書こうと思ってからほぼ3時間、夜の1時から4時の間で書いたもので、その後の校正も5分程度で終えた。僕の中で予期していた流れからはだいぶ離れたところに着地したこいつは、聞こえの良い声で僕にさけび始めた。この狂文のおかげか、未だ金無しで寄稿することが多い自分の物書きライフがひどく快調になったし、いくつか考えていたことが一つの出口に顔を向けるように整列し、ひどく見通し良く見立てることができるようになった。

おおよそ、僕は僕の中で、この文章を書き終えることで、一つの答えを出したのだろうと思う。

人は孤独だ。文化的にも、身体的にも、精神的にも、孤独だ。それを明るみに出した、ボロボロのやり口ではあるけども、それを為してしまったという意味で、僕の中でおおきな達成であって、ここからがスタートだ!という一つの記念碑のような文章になった。

こるすとれいんさんには、本当にありがとうと伝えたいです。氏には承諾を得ているので、ここにその全文を載せたいと思います。

あと、添え物としてこれを

『ポップカルチャーから紐解く2010年代の ”郊外” SUBURBS』後日談 <個から共同性へ、また共同性から個へ> の話 ~ラブライブを添えて~ - Togetterまとめ http://togetter.com/li/867069

あと、もしも「ポップカルチャーから紐解く2010年代の ”郊外” SUBURBS」がほしい方は、ここに連絡すればなにか対応してくれると思います

→ https://twitter.com/colstrains002

ではでは


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不動産と音楽が持ちうる 物語が導く終着地について(仮)

 正直、反省していることがある。いやいきなり冒頭から反省されても……と、読む人ならびに、責任編集者の「こるすとれいんす」さんには申し訳ないのだが。

地方/郊外/都会」という三つの場所が音楽に与える影響がこれまでにあったなか、「地方/郊外/都会」が均一化/フラット化していくという視点に基づいた都市開発/都市発展がまさに実施されているいま、音楽が果たす(果たしてしまう)役割について

 などという大それたテーゼを投げたことについて、この上なく、今まさに僕は反省している。

 詰まるところそれは、日本やアメリカやイギリスは言うに及ばず

・世界で最初の高速道路「アウトバーン」が生まれたドイツ

・ユーロ最大にして、最高密度の移民国家として、国内での論争も激しいフランス

・現在も国土横断鉄道が活躍しているロシア

・現在最も不動産事業の発達と不動産金融によるバブルが大きな影を落としている中国

などにおける、「地方/郊外/都会」の性質や役割を、それぞれに吟味した上で、その地における音楽を語ることで、ようやく何かしらの答え(のようなもの)を導き出せると思っているからだ。

それでもなお、僕が不可視境界線によって区分けされた、

・「地方/郊外/都会」という不明瞭ながらもが区分される・・・不動産や場所

・様々な壁を飛び越えて胸を打つ可能性をもつ目には見えない音によるポップアート・・・音楽

この2つの軸を重んじるにはわけがある。そしてそれらは、こうした国境と国民という違いをも超越した所で、通底したテーゼを持っているという確信があるからだ。それは後半に語ろう。

 とはいうものの、この大きすぎるテーマにおいて、僕が話せる国は2つだけ、日本とアメリカに限る。文字数にも限りがあるので、まずこの2つの国を使って「地方/郊外/都会」について話をしなければならないだろう。

 まずは日本。これは僕らが住む場所としてリアリズムを持って筆を走らせることができる。

くさのが生まれ育ったのは、福島県いわき市だ。18歳の大学進学とともに、神奈川県川崎市に引っ越し、卒業後に新卒として引っ越した先は、栃木県宇都宮市、その後いろいろあって、再び神奈川県川崎市に住んでいる。雑把ではあるが、地方→郊外(都会的)→郊外(地方寄り)→郊外(地方寄り)といった具合に住んできた人間だ。

郊外に住む、ということは、あまり意識したことはない。なにせ元々の生まれは東北地方、閑散とした人並み、古ぼけた街並み、過ぎるほどに生い茂る緑地や山々、そういった風景を見慣れている人間だから、あからさまな郊外を見なければ決してその違いを感じ取れはしないということだ。

逆に言えば、郊外で生まれ育った人間は、郊外と地方の違いをちゃんと捉えられるのだろうか?。いや、そういうわけではなさそうだ。

というのも、去る2015年4月頃にTVアニメ『四月は君の嘘』の聖地を巡礼して回ったことが、この違いを確かなものにしたのだ。

お相手は、『四月は君の嘘』のモデルともなった、杉並区で生まれ育ったという女性(……別にデートできて嬉しかったとかいうわけではない!)彼女と様々な聖地巡礼している時にみた様々な場所が、明らかに僕の思い出にはない場所ばかりだったのだ。

まず、川沿いにキレイに植え付けられた桜の木々。歩きまわった時はちょうど見頃の時期で、華麗かつザっと並びたつ桜や樹木の並びから、明らかな「人の手」を感じたのはいうまでもない。僕の覚えている桜の木々は、山からまるで這い出るような格好であったし、そもそも川にあった覚えがまるでない。

そういえば2014年に見た目黒川での桜の木々も同じように、作為的に川の近くに桜の木を植えているようにも見えた。あそこでは多くの人が酒を呑み、飯を喰らいつき、花を愛でていた、川の流れに桜の花びらが一片、さらさらと流れていく。そんなイメージを起こさせるために、そう仕向けられるような感覚すら覚えてしまう。そういえばその時は、違う女性とオレは歩いてい……

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次に、区画化された街並みとマンション郡だ。

別に、街を区画するのは地方でも同じだ、そうではなく、マンションが群となって、折り重なるように見える格好で並び立つ姿、それを初めて見たのだ。いうなれば、団地の類ではあるのだが、あの建物がより多く、高く、そして敷かれているのは衝撃的だった。

どこまでも、どこまでも、どこまでも、同じような建物が続いているのだ。あれだけ大量にマンションやアパートがあれば、空き部屋があってもおかしくはない、現在の人口減少時代において、真っ先に潰すべきはこういった建物ではないのか?と思えるほどだ。

公園の大きさも書き記しておきたい。こうした住居区の近くに公園を置くのは地方も同じ、だが僕が見たそれは、もはや公園というレベルではない、運動場のような大きさだ。置いてある遊具もむかしとは変わらない、それらが置かれている場所の面積が、僕の知るところの『公園』『運動場』に比べて桁違いに広かったのだ。

最後に、これが最も驚かされたのだが、都内都心や地方では雑居ビルで小さくまとまっているはずのお店が、ここ郊外では非常に大きく展開されていたこと。これについてはヒトコトだけ、なんで大戸屋やマクドナルドがファミレスばりにデカイの!? ならそこはガストでもいいんじゃないの?!

といったのが私が今回見てきた、練馬や光が丘の光景だ。ぼくは住居区しか見ていないので、きっと都心からココへと連なる道には、ロードサイド店舗が非常に沢山あるのだろう。

もうひとつ驚いたのは、同じように歩いた彼女が、この風景を至って普通の風景と(そりゃ当たり前なのだが)感じているということだ。さもこれが日本の風景そのものであると・・・そんなわけがない、僕が生まれ育った故郷福島県いわき市、あの地方の寂れた町並みこそ、『日本の町並み』の大部分であろうとすら思う。

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僕は最初に、【「地方/郊外/都会」が均一化/フラット化していくという視点に基づいた都市開発/都市発展】と書いたわけだが、これがどういうことかが少しだけお分かりだろうか?

もう少しだけ説明を加えれば、「郊外/ロードサイド」や地方に住まう住民に恩恵をもたらしてきた大手デパート店のイオンが、ココ数年で、都心内で実験的に店舗数を増やしてきたことにある。

イオングループに属される「まいばすけっと」というミニスーパー型店舗がある。2005年12月に、横浜市保土ヶ谷区に一号店を出店後、2012年2月までに、249店舗を東京都区・横浜市・川崎に出店してきている。順調に行けば、今年中には400店舗を突破するのではないだろうか?

「地方/郊外/都会」が均一化/フラット化していくという視点に基づいた都市開発/都市発展、それはショッピングモール店舗を発展させたことで、スーパー/デパートのトップを往くことになった一大企業だけの問題ではない。

ヨドバシカメラなどの家電量販店、セブンイレブンなどのコンビニ、ドトールやスターバックスコーヒーなどのコーヒーショップ……衣食住に関わるチェーン店舗が、高齢者増加/出生率の低下/都会永住/地方住民減少/全人口減少という、人口に係る5つのタームを受け入れ、企業発展を推し進めれば、地方と郊外と都会の境目は徐々に消えていくように考えられる。つまり、もしも都会という場所が「人が集まる場所」であるならば、住居地となる現在の郊外が「都会化」する可能性がこの先あるのかもしれないのだ。都会と言われた街に人口が集中し、そこから円を描くように人口が減っていく、そのように捉えてくれると幸いだ。

厳密に言えば、その姿形はこれまでの都市とは大いに違う可能性を秘めているわけだが、地方/郊外にかぎらずとも「都会化」する試みは、過去にも今にもある。ここで、アメリカという場所/国家、そこで生まれたディズニーランドやショッピングモール、という施設を加えていこう。

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速水健朗氏の著書『都市と消費とディズニーの夢 ショッピングモーライゼーションの時代』において、氏は「最新のショッピングモールがテーマパークと結びついたものになっている」という認識のもと、ディズニーランドを一つの例としてあげている。

今回はその内容についてはあまり深くまでは語らないが、書において速水氏は、ディズニーランドにはアメリカの西部開拓や、フロンティア開発の歴史から、SF的意匠を凝らした近未来の宇宙開発に至るまで、通底する「開拓心≒フロンティア精神」を物語化してノスタルジックに描いていることを指摘している。

同時に氏は、「ショッピングモーライゼーション」、駅や空港のターミナル/テレビ電波塔のような公共性の高い場所が、経済効率や収益性といった市場原理のより姿を変えていく傾向についても示唆している。実際、羽田空港や東京駅のような公共の場も、消費のために最適化され、東京駅は「Tokyo Station City」という呼称にすらなっているほどだ。ただの駅ではなく、駅と町、という観点で現在運営されているのは面白い傾向であると思う。

また、現代思想家の東浩紀氏の書作『東京から考える』『ショッピングモールから考える ユートピア・バックヤード・未来都市』の2冊から伺えるのは、海外旅行者がまず最初に足を運ぶのは、「身の安全を考えて(ショッピングモールから考える より抜粋)」ショッピングモールになるという事実だ。

もしも、僕らが海外に足を運んだらと考えれば、なるほどと頷ける話だ。東南アジアや東アジアに足を運び、いきなり街中に飛び出していくのは、180センチで大柄に入る体格の僕といえども怖いものがある。

ショッピングモールから考える ユートピア・バックヤード・未来都市』で対談相手となっている大山氏と東氏はそれだけではなく、こういった言葉も残しているのだ。

実はモールでこそ、土地のローカルなものが現れるのではないかと思ったんですね」(東)
それは同感です。(中略)バンコクに行って驚いたのは、屋台の食事では意外と満足できなくて、モールに行ったら地元の料理が一番充実していたことです。いるのもみんな地元の人で、食べ物も美味しい」(大山)
地元の人達の生活を見ようと思ったら、ショッピングモールに来るべきだったんです。東京に来て浅草に行っても東京の生活がないのと同じです。豊洲のららぽーとを観に行った方がいい。モールにこそ、地方のリアリティがある」(東)

最後の発言、「地方」ではなく「その当地の」という意味だと僕は捉えているので、すごく納得できる。東京やバンコクといった観光客が多く訪れる場所では、間違いなくこの論理は正当だと思う。浅草寺や東京タワーにはそこに住む人のリアリティがない、なぜならそこには九州や東北や他の外国人がいて、しかも当地の状況も彼らに合わせてチューンナップされた土地になってしまっているからだ。その地に元々あった物語(≒ナラティブ)が変奏され、本来あるべきだった姿から変化していくのだ。

だからこそ、「イチから構築されていくショッピングモールには、何かしらの物語(≒ナラティブ)が必要となってくるのではないか?」という論理がこの2人から生まれ、同書のオチにもなっている、それには僕も同感だ。

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そしてそれは、音楽というポップアートについても非常に近しい点だとも言える。音楽には必ず物語(≒ナラティブ)が発生する、つまり、一つの物事が推移するということである、そこには過ぎ去る過去と、未だ来ない未来が発生する。そこには間違いなく、ノスタルジアが生まれるのだ。

ノスタルジア、それは音楽においては重要だ。いとしき人を想う恋愛ソング、聞く者の鼓動を速めるような勇気づける歌、怒りに打ち震える歌、いかなる歌にも『過去があるからこそ』という認識があるから成立する、意識的にも無意識的にも、歌は過去を振り返ることからは逃れられない。「これまでの過去」という一個人だけが有する唯一の財産、そこにどれだけ自覚的であるかが、音楽が奏でる際には重要であると言い切っても良いだろう。

音楽は、始まりと終わりを必然的にも設けてしまうことで、「曲」という単位に落とし込まれてしまう。つまりそこには、その曲にしかないノスタルジーやナラティブ(≒物語)が在るといっていいのではないだろうか。

アルバム10曲あれば、10種類のノスタルジーがある、そのどれもが同じということでは決してない、もしもそれを認めた場合、同じ曲だけを、ただただ作り続けるということを認めることになってしまう。

新宿駅や東京駅、ないしは東京や新宿という場所にしても1つしかない、同じような構造で同じような路線を配しても、新宿は新宿という都市であり、同じように、東京駅は東京駅という都市であるとかんがえられるし、それは、立川駅だろうがいわき駅だろうが舞浜駅だろうが同じだ、それぞれの曲(≒場所)にはそれぞれの曲(≒場所)にしかないノスタルジアが広がっている。

その10つの曲を、10つの都市として考えたとき、非常に面白いことに気付かされるだろう。つまり、曲という単位に落とし込まれた時に、音楽は都市になりえる、そういうことだ。

一つ一つの都市にはそれぞれ違ったノスタルジアがあり、そのノスタルジアを構築するために、楽器やコード進行≒法律がある。それを1つの群としてまとめた時、日本では、都道府県や市区町村を名付けられ、やがて一つの国として合集される

かつては、A面B面の2曲シングルしか発売されなかった音楽産業に、アルバムというセールス方法を生み出したのが、50州それぞれに見合うようにと自治法を認めているアメリカ合衆国であったことを考えてみれば、なるほどこの筋の話はアリなのかもしれない。

しかも、最大収録時間30分を超えるLPレコードが生まれたのが1948年ごろ、アメリカでディズニーランドが生まれた1955年であり、7年違いではあるが同時代なのも面白い。

この筋の話に、序盤で話した「地方/郊外/都会が均一化/フラット化していくという都市開発/都市発展」というお話をくっつけてみれば、なんとなくだがおぞましい世界が見えてくる。地方/郊外/都会どころか、国境も時間すらも超越した目に見えぬ都市を、いままさに僕らは小型携帯電話機に詰め込んでいるではないか。

もう一度問おう、そこにはノスタルジアはあるのだろうか? 残酷なことを申し上げれば、それは、孤独性に満ちた、個人の記憶内だけに留まるものであり、群衆全員が眼差しを向ける共通体験としてではないことが、いまハッキリと分かってしまった。

むしろ、その小型携帯電話機を何度か擦り押すことで、一個人だけが持ちうるノスタルジアを促進させるためのあらゆる装置を手に入れてしまう時代に僕らはいま生きている。

そうなってしまえば、余計に僕らは孤独へと進んでいき、そこに合集の意味を大きく読み解くことはできない。現代という時間において、音楽はこれまで以上に孤独の意味を僕らに示しているのだ、あまりに大きく。

音楽は、僕らをいつも孤独にする。音楽は共感を求めないし、共感を促そうともしない、音楽は音楽だけが生み出せるナラディブ(≒物語)とノスタルジアを醸し出すだけだ。僕らが曲を解するときに生まれる感情や、想起される光景は、いつだって僕ら個人だけが持ちうる、ただひとつのノスタルジアである。もしも、故郷を想うときがあれば思い出してほしい、君が見ていたその風景は、君だけが持ちえる思い出だということを。

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