『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』の歌詞について、またはその参照、ならびに引用、について

 こんばんは。
 年の瀬ですね。

 ギリシャラブは今年、二〇一七年の三月十五日にはじめてのフルアルバム『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』をリリースしました。
 発売元のレーベルであるミロクレコーズのひとたち、また協力してくれたまわりの人たちのおかげで、想定していたよりもずっと多くのひとに作品を聴いてもらえました。
 

 作品を聴いて、ライブに来てくれて、直接感想を伝えてくれるひともたくさんいます。ものすごくうれしいです。
 

 そういうとき、歌詞に言及されることがすごく多いです。どのようなものに影響されたのか、どんな他の作品を参照したのか、など、よく訊かれますけれど、その場ですぱっと、それにこたえることはむつかしい。
 で、ちょうどいいメモが見つかったので、ここで公開しようとおもいました。

 メモといっても、アルバム制作における共同作業者、わけても、アートワークを担当した高石瑞希さんに、アルバムの歌詞について、またはその参照、ならびに引用、について、伝えるために、アルバム発売のずっと前に書いたメモです(彼女とは、口頭でも、文書でも、かなり綿密にやりとりを重ねて、ジャケットを描いてもらいました。このメモはその好例です)。

 よってかなり説明的です、また、読む快楽を得られるたぐいの文章では、おそらくありません。ですけれど、アルバムを聴いてくれたひとに、今一度別の角度から、アルバムを楽しんでもらえたら、あるいはまだ聴いていない、というひとに、少しでも興味を持ってもらえたら、とおもい、以下に転記しました。





ギリシャラブ『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』

はじめに
 もっぱら歌詞について論じたい。というのも、私が全曲の作詞・作曲をした、ということに一応なってはいるが、実のところ、厳密な意味で一人で作り上げたといえるのは歌詞だけなのだ。バンドというのはそういうものだ。私は船長として舵を取ったが、それ以上のことはなにもしていない。
 まず私は、ジャン=アントワーヌ・ヴァトーの絵画『シテール島の巡礼』と、スタンリー・キューブリックの映画『バリー・リンドン』に着想を得て今作の歌詞を作っていくことにした。前者は、というよりもロココ期の芸術はそのほとんどが、今日においては鑑賞されるのではなくたんに消費されている。そしてヴァトーについて、もう誰もまじめに語ろうとはしない。
『バリー・リンドン』は、キューブリックの映画の中でも、代表作とは言い難く、興行的にも決して成功したとはいえなかった。しかしそのようなことは、私にはどうでもいいことだ。私にとって重要なことは、この映画の中で描かれている世界が、もう存在しないものであるということだ。主人公のレドモンド・バリーは、アイルランドの農家の息子ながら、権謀術数をめぐらせて、女伯爵と結婚するところまでのし上がっていき、やがて没落する。しかし「18世紀のヨーロッパ」は、2016年の日本には存在しないし、1975年のイギリスにも存在しなかった。
 いうまでもないことだが、『バリー・リンドン』で描かれた世界がもう存在しないということによって、作品の価値が減じられるということは絶対にないし、その逆に、価値が上がったり、新たな価値が付与されることもない。優れた作品というのは往々にして時代をよく反映しているが、時代とそれに伴う変化を超えた拡がりをもっている。
「普遍性」などというものはない。そんなものはまやかしだ。芸術作品の中の普遍性というものは必ず、作品という宇宙の、都合の良い一部分だけを抜き出して、帰納法によって一般化することによってのみ見出されてきた。カフカがそうされたように。
 つまるところ私は、『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』の中で、ヴァトーやキューブリックへの、いわゆる「返答」がしたかったわけではないし、まして「まじめに語ろう」などとは少しも思わなかったのだ。ただ、ルノワールの言葉を借りれば、「その中を生き」られる、作品を作らなければならないと思った。それこそがヴァトーやキューブリックに対する、真の意味でのオマージュだと。

1. 竜骨の上で
 冒頭で、ラストシーン、しかも主人公(たち)の死ぬシーンを描きたかった。『カリートの道』のように。10曲目のタイトルトラック『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』で盗んだ舟で、「永遠」を探しにゆく。この永遠は、アルチュール・ランボーの詩『永遠』で詠われている永遠である。その冒頭でランボーはこういっている。

もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番った
海だ。

『ニコマコス倫理学』でアリストテレスは、何かの手段でしかない行為ではなく、それ自体が目的であるような行為を「最高善」と呼んだ。「踊り」 はまさにそれ自体が目的であり、また全体としての踊りは個々のステップからなるが、一つ一つのステップもまた、それ自体が目的である。この歌の登場人物は、頭を空っぽにして踊る。裸であることも忘れて、まだ服を脱ごうとする。そうしていつまでも踊る。最高善がすなわち幸福であれば、彼らも幸福であるといえるかもしれない……。しかし舟は沈むのだが。

2. つつじの蜜
 この曲の詞は三人称で書いた。特に意識的に参照・引用したものはない。少しカフカの影響はあるかもしれない。この曲以降、「ただの身体として」生きる主人公の男が、女に出会う場面を描いた。Aメロで描かれる「男」「女」は全て別の人物のスケッチ。サビの「若い女」は魅力的に描こうと思った。成功しているとうれしいのだが。

3. 夜の太陽
 セックスを動的に描きたかった。そして楽しいものとして描きたかった。この詞を書く前から、はじめの二行のイマージュ、海に沈んだ夜の太陽が海の中で暮らす死者たちの朝を照らすというイマージュが頭から離れなかった。この曲では、とにかくあらゆるものの境界を曖昧にし、ごちゃまぜにしてしまいたかった。

4. セックス
 セックスを静的に描きたかった。この詞で私は、淫蕩なものと死とを結び付けようとした。詞の中で二人は、ランボーの詩で詠われた永遠の中に溺れてゆくこととなる。

5. 機械
 機械というものは同じ動きを永遠に繰り返すもので、動かなくなったり、本来の動きとは別な動きをしはじめると、この機械は壊れている、ということになる。しかし、恋人の、「肋骨をなぞるだけの」機械になったこの主人公は、すでに壊れている。人間は、人間として壊れていくことで、機械として完成されていく。
 他者とのかかわりの中でこそ、人間は人間らしくいられると、一般に信じられている。しかし、人間が壊れてゆくのもまた他者とのかかわりの中でこそなのだ。このようなことは、横光利一の同名の短編小説『機械』の中に既に描かれている。

 私はもう私が分からなくなって来た。私はただ近づいて来る機械の鋭い先尖がじりじり私を狙っているのを感じるだけだ。誰かもう私に代って私を裁いてくれ。私が何をして来たかそんなことを私に聞いたって私の知っていよう筈がないのだから。

 このアルバムの主人公は、「永遠」を探していた。機械になるということが、永遠であるわけはない。そんなことは誰だってわかっている。しかし主人公はわかっていない。壊れているからだ。そして人間が壊れるのは、他者との関係が壊れた時だけだ。

6. ヒモ
 単純な詞。「ひとりぼっちになったって ヒモの聖地パリへ行く」。ひとりぼっちのヒモなどいない。「これはジャン・ジュネだ」という人がいるだろう。私はそれに、もちろん、と答えることもできるが、違う、と答えることもできる。
 違う、『ヒモ』の主人公はパリにはいない、と。

7. パリ、フランス
詞は無い。このインタールードで主人公はパリに辿り着く。もっとも、本当に辿り着いたのかはわからないが、少なくとも主人公はそうおもっている。

8. よろこびのうた
 倒錯的なよろこびについて書いた。主人公が本当にパリに辿り着いたのかどうかという問いに対する答えはまだ保留されている。

9. パリ、兵庫
 兵庫県での自堕落な生活についての描写からこの曲は始まる。主人公は存在しないパリを探して彷徨う。夕焼けが、人工物である電線に切り刻まれて血を流すのはいうまでもなく社会と芸術との間に生じる齟齬にまつわるメタファとして機能しているが、その光景それ自体をコンポジション=芸術作品として描くということは、このアルバム全体のメタファになっているということもできる。
 いうまでもなく、『パリ、テキサス』へのオマージュである。

10. イッツ・オンリー・ア・ジョーク
 シュトルム『みずうみ』の主人公ラインハルトと、トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』の主人公トニオ・クレーゲルは、(『トニオ・クレーゲル』が芸術家と市民を対比的に描いているのに対して、『みずうみ』のラインハルトはあくまで市民であるという違いはあるにせよ)いずれも社会規範に苦しんでいる。
 このアルバムの主人公も、ここまでの曲の詞の中で社会規範に悩んでいることが描かれてきたが、このタイトルトラックの詞で、そのことは極めて具体的に、実直に描かれることとなる。このあと主人公(たち)はどうなるのか? 知らない。『明日に向って撃て!』のブッチ・キャシディとサンダンス・キッドの末路は、『竜骨の上で』で書いたように「お決まりのアレ」だったわけだが、この主人公たちには「まだ猶予はある」らしいから、はたして。
 社会規範からの逸脱の可能性について、私にはわからない。私にいえることは、可能事などは好きな奴にくれてやれ、ということだけだ。

11. ギリシャより愛をこめて
 ボーナストラックのようなものだと思っている。ボードレール『パリの憂鬱』のうちの一篇『この世の外ならどこへでも』からの半ば直接の引用と、いうまでもないが『007 ロシアより愛をこめて』のパロディがある。<了>



 いかがでしたか? なかなか面白かった、興味深かった、というひとはどうもありがとう。つまんねーよ、というひとにはより一層の感謝を! つまらなかったら、ぼくならすぐ読むのをやめちゃう。だからつまらないとおもいながらここまで読んだひとを、ぼくはほんとうに尊敬しますよ。皮肉でなく。

 それではみなさん、よいお年を。




『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』:https://www.amazon.co.jp/dp/B01MUDZM26/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_vXqkAb2KXFTRN

「機械」MV:https://youtu.be/CISE-fD67lg

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