"手間暇とクオリティー"論
「クオリティー」ということについて考えることがあって
まず最初に浮かぶのは
このことはよくあちこちで話もするし常に言ってるんだけど
ボクらの仕事は緑の量を増やすことももちろん大切だけど
庭というものを通じて緑の質をあげていくのが役目だと思ってる。
また逆のことなのかどうなのかわからないけど
最近よく思うことで
職人として技術を向上させていくということと
いい庭をつくるということが決してイコールではないなということ。
剪定にしても石を加工するにしても樹木を選ぶにしても
どんどん一つの仕事をやっていくとおのずと技術はついてくる。
そしていいといわれる職人はそこからさらに研鑽し技術の向上を目指す。
とても素晴らしいことだと思うんだけど
根っからの職人にはなれないボクのような少し離れたところからみると
やっぱりその作業の慣れだったり
ある程度終わりをみながら仕事を進めてる感じ
つまり予定調和な印象を受けてしまうことがある。
そしてなにより
うますぎるとなんていうか余白みたいなものがなくなってしまう気がする。
また少し話は変わるけど
「手間と暇」ということについて
最近、興味があってよく考えたり
ジローともよくそのことについて話をしている。
それは若林恵さんのPodcastで聞いた話なんだけど
人がなにかをつくるには「手間」と「暇」をかける。
「手間」はもちろんじぶんが動いた労力。
おもしろいのは「暇」という時間のあり方。
そのPodcastではホウキ職人が材料の竹を取ってきて(手間)
ある程度の時間を乾かす。その間その職人は時代劇をみてるらしい(暇)→重要なのはそれも仕事だということ(笑)
そして材料が乾いたらホウキをつくる(手間)。
料理でいうグツグツ煮込んでる時間や味噌とかパンでいう発酵の時間もまた
「暇」の時間なのかも。
つまりなにかを手間暇をかけてつくるというのはそういうことで
すべてをじぶんの力でどうにかしてやろうってことだけではなくて、なにかもっとおおきなものにゆだねてみるって感じ。
その話を聞いたときはこれがじぶんが考えてることに近くて
そのことを伝えたくてもうまく伝えれてなかったことだなと思った。
庭もまた
ボクらが形をつくり施主様が日々お手入れしてくださるという「手間」の部分と
その庭というものができてから経過していく時間という「暇」の部分でできていると思う。
「暇」の部分は太陽、水、空気、土の中の菌などなどがしっかり働いてくれて
庭の環境に合わせて植物が成長したり、ときには枯れたり、石が苔むしたりと
その庭に小さな生態系みたいなものをつくってくれる。
その時間の経過に対して僕らができることは
肥料をあげたり、大量発生の虫の被害をできるだけ最小にとどめたり、大きな方向性をつくっていく剪定をしたり、つまり「暇」の部分に「手間」の部分を少しだけ足していくくらいだ。
そんなふうなイメージで庭が庭になっていくんじゃないかなと思う。
で、「クオリティー」のことと「手間暇」の話をあわせて考えてみると
庭というものは
僕らが完成しましたという部分のクオリティーももちろん大切だけど、そのあとに時間という軸が加わったときが重要で
悪くいえば完成時のクオリティーなんてあとの関わりや環境次第でいくらでも変わってしまうってことでもあるんだなとも思う。
技術の研鑽の部分はもちろんとても大事だけど
「暇」の部分にゆだねられる空間の余白や
「暇」な部分の予想外の出来事などに抗わずにゆだねてプラスに変えてしまうくらいの庭師としての器みたいなもの。
「手間」の部分は重要だけど
「暇」の部分とどう付き合えるのかが
いい庭をつくるにはすごく重要なことなのではないかなって。
そこらへんをもう少しうまくおもしろく伝えていきたいですね(汗)
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