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誰のための支援か?~「ひきこもり基本法」を考える


KHJ全国ひきこもり家族会連合会という団体が、ひきこもり基本法(案)への意見を募集してたので、書き送りました。本人や家族だけでなく、「関心のある一般の方」でもOKとのことなので。そんな奇特な人どこにいるの?って話ですけど、ご興味がある方はぜひ。1月20日までです。

この団体はずいぶん熱心に法制化に取り組んでて、“あの“ 下村博文氏など有力な政治家にも働きかけてるみたいですね。

以下に私が書いた意見をのせておきます。


「ひきこもり」の定義があいまいで議論が紛糾している段階で、このような法制化を求めるべきではない。法制化は最終的に、何らかの公的扶助(ひきこもり手当のようなもの)を求めることが狙いだと推測しているが、これにあたっては定義づけが不可欠。だが、「ひきこもり」が病気ではなく「状態像」である以上、明確な線引きは不可能である。

その定義づけを誰が行うのか?という問題もある。規模の大きな支援団体がかようなお墨付きを与える機関となるのであれば、妥当性を欠く。適切な第三者機関が存在するとも思えないのだが。

「ひきこもり」に関してはその名称自体が誤解を招く一因となっているし、定義づけが紛糾する原因ともなっていると、私は考えている。「ひきこもり」の根本的問題は、家から出られないことではなく、社会的に孤立していること、頼れる人がいないことだからだ。「ひきこもり」を「社会的孤立」としてとらえ直し、社会のあり方そのものを問うていく必要があるのではないか。

さらに、「当事者が声を上げられず、支援を求めることができないから、その家族や関係者が代弁・代行する」という発想は危険。当事者の声を歪めたり、封じたりする恐れがある。当事者が声を挙げ、支援を求めるための「手助け」をすることに、軸足を置くのが筋ではないか。このままでは当事者置き去りのまま事が進んでしまう。

「ひきこもり」の人の親や家族に支援が必要なのであれば、「ひきこもり家族支援法」とするのが妥当だと思われる。ひきこもり当事者とその家族の間では、必ずしも利害・関心が一致するわけではない。そこを混同しては、「基本法」が家族の利益になっても当事者を利することにはならない。

法制化の動きを見ていると、「ひきこもり」の当事者がどう生きるか、というよりも、家族の負担を減らし親亡き後の憂いをなくす、ということに焦点が置かれている気がする。それもまた大切な視点ではあるが、当事者のための支援・法案とは分けて考えるべき。

「ひきこもり」の人の社会参加については、近年は積極的に本人の社会参加を後押しする雰囲気はなりをひそめ、一種のあきらめと責任放棄に似たものを感じる。「ひきこもりのままでいい」「居場所からは卒業しなくていい」などというメッセージを、大手支援団体の代表が自ら発信している。

そのような「支援」のあり方が当事者の力を奪い、弱者のレッテルを貼り、狭い枠の中に囲い込んで、飼い殺しにすることにならないかと危惧している。支援とは基本的に、本人が自立する力を引き出すためにある。それを忘れてはならない。


※ひきこもりという語に私がいちいち「」をつけるのは、この表現に問題ありだと考えているからです。そのまま使うにはかなり抵抗があります。詳しくは、「捏造報道と闘う会」noteの過去記事をご覧ください。

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