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コロナウイルス連作短編その128.5「あなたみたいに美しい人々」

2019年10月

 雅孝稲子は恋人である瑳峨野牧とともに、日本橋をフラフラと散策する。
まるで東京の都市中心部を射抜くように通る道を、並びたつ建築群を仰ぎながら歩くのが、稲子は好きだ。ガラスや漆喰、コンクリート、様々な質感の表情を持つ彼らに、逆に見下ろされる感覚は、意外なほど悪くない。
横には愛する恋人の野牧がいて、建築という経験の合間に彼と他愛ない会話を繰り広げる。大学のつまらない授業、最近売れ始めたかが屋というお笑い芸人、原宿で食べた濃厚な明太子パスタ。野牧は稲子のたゆたうような言葉に、緩んだ返事を返してきて、それが不思議と鼓膜に馴染むのを感じる。繊細な膜に細雪さながら触れて、心地よい冷たさとして溶けていく。
 稲子は野牧の姿をチラと横目に見る。
彼は焦げ茶色のチェスターコートを身に纏い、細やかで健やかなシルエットを見せている。稲子が着ているのもチェスターコートだ、黄土色と色は異なるが。
別に指し示した訳ではなく、日本橋丸善の入り口で会った時、服装が何となくお揃いになったことに気づき、2人は笑いあうことになった。コートのなかに、秋の風がサラと吹きこみ、軽やかに揺れるのを感じた。風の粒子にはまろやかな日射しが織りこまれ、涼しく暖かいという心地よさに体を撫でられるような感覚がある。
町を歩く人々を目にしながら、稲子はふと思う、もしかしたら自分たちは本当にお似合いのカップルなんて羨望の的かもしれないと。子供じみた妄想が稲子の心を幸福感で満たしていく。
 銀座に差しかかると、道において車は通行止めとなり、幅のすこぶる広い道路を通行人たちが自由に闊歩するようになる。特に目立つのは観光客の存在だ。小さな旗を持った人物に連れられる集団、大きなスーツケースをゴロゴロと引く家族。あちらこちらから中国語や韓国語といった外国語が聞こえてくる。
だが稲子の瞳を惹きつけるのは、東アジア系の平たい顔面ではない。チラチラと見える白人観光客たちの彫りの深い顔立ちの数々だ。彫刻刀で細心を以て削ったかのような鼻梁、薄いヴェールさながら白皙で覆われた頬骨、筋骨の存在を堂々と誇示する逞しい顎、陽光に美しくたなびく金色の髪、それらを持った美しい人々。
 巨大交差点へと辿りついた時、稲子はある風景を目の当たりにする。1人のモデルが、ファッション誌の撮影を行っていたのだ。鮮烈な赤のセーターが、彼女の柔らかな色彩の赤毛とともに、豊かな濃淡を宙に描きだしている。そして偶然だろう、彼女が身に纏っていたのは黄土色のチェスターコートだった。比べれば少し生地が分厚い、重厚感のあるものだったが、何にしろ2人のチェスターコートは瓜二つに稲子には思えた。
彼女はロバを象った不思議なバッグを持っている、彼女は壁に寄りかかって文庫本を読んでいる、彼女はバス停の傍らで誰かを待っている。万華鏡の移ろいさながら彼女は姿を変え、カメラマンがそれを撮影していくという風景を、稲子はしばらく無言で眺めていた。コートの重みを物ともしない軽やかな動き、白い肌に星々のごとく瞬くそばかす、それらは彼女が好きなベルギー人俳優であるポーリーヌ・エティエンヌを思い出させる。しかし何より見惚れてしまうのは、彼女の短くカットされてフンワリとした赤毛だ。1本1本が輝く妖精のようだった。稲子は“すっごく可愛い”とそんな語彙でしか、彼女の赤毛を形容できない。
「ねえ、あのモデルって」
 野牧が稲子に尋ねる。
「稲子の読んでるファッション誌に載ってる人じゃない?」
 確かにそうだった。遠くからでも、彼女は稲子が憧れるモデルの踏楷アイリスだというのは明らかだった。だが野牧にこれを尋ねられたこと自体に動揺し、思わず自分の髪を右の指で弄ってしまう。そして髪から手を離すと、人差し指に1本の黒々しい毛が絡まっているのに気づく。

 凄まじいまでに純日本人的。
 稲子が自身の風貌に向けるのはそんな言葉だ。
月光すら通さない闇のような黒髪や毛、細く垂れさがった重力への敗北者たる瞳、鈍重なまでに丸まった鼻、脳髄だけいたずらに肥大したかのような頭部と顔面、白いというより青白い全身の皮膚、赤子さながら脂肪ででっぷりした指の数々、大きくも小さくもない徹底的に中途半端な乳房、団子虫さながら肉体に遍在する黶。全てが稲子を嘲笑いながら“日本人(笑)”という烙印を押してくるような気分になる、コンプレックスという軽薄な横文字ではこの劣等感を形容はできないと稲子は確信している。
この嘲笑を煽動する旗手こそが“稲子”という名前それ自体だった。“子”という語尾がそもそも時代遅れなうえに“稲”という日本の伝統的作物の名が置かれていることが全く理解しがたく、吐き気すら催す。同時にこの吐き気が、何故自分がこの名前なのかという理由を両親へ問うのを彼女に躊躇わせる。これを知った時、自分は恥辱によって死に絶えるのではないかという恐怖を拭いされないでいる。
 高校の頃、退屈な国語の授業中、便覧を適当に眺めていたことがあった。そして日本文学史における著名な小説家を扱うページにきた時、ある名前が飛びこんできた。佐多稲子。網膜に焼印を圧されるような衝撃に、稲子は悲鳴をあげ、同級生に笑われた。この時の恐怖が今も頭から離れない。憎悪と言ってもいいかもしれない、ヌラヌラした感情が時折発作のように噴出することを止められないでいる。佐多稲子がどういった著作を執筆したかは全く知る気もない。
 大学に入学しようとする時分、まず最初にやろうとしたのは髪を染めることだった。名前はそう簡単に変えられないし、整形にも莫大な金が要る。未だちっぽけな彼女が行使する勇気をやっと持てたのがこれだった。だが彼女にもたらされたのは悶絶するほどの痒みだった。染料は軍事作戦さながら稲子の頭皮を侵略し、細胞を蹂躙していく。あれほど己の肉体が破壊される感覚を鮮烈に味わったことはついぞない。その顕現が痛みでなく、どこまでも滑稽な痒みとしてだったことが、そのトラウマを忘れがたき恥として細胞に刻みつける。
この事件の後、母であるひろ美が自身の読むファッション誌を見せてきた。そこに掲載された56歳の女性は、あることをきっかけに白髪染めを止め、白髪を生かすヘアスタイルを行うようになったという。以前は生じる痛みを押してでも、白髪であることの恥を塗り潰すため、染めることを続け、老いの否定という経験の蓄積に疲弊を抱いていたという。しかし東日本大震災が起こる。彼女は九州在住で被害はほぼなかったが、地震が起こったのを知った際、もし髪を染めている時に大災害に遭遇したならというのを想像せざるを得なかった。この脳髄を錯乱させる苦痛を抱きながら、生き抜けるのか。しばらく熟考した後、女性は白髪染めを止め、ありのままの髪とどう生きるかに目を向け始めたのだという。
 何が言いたい?
 これを読んだ後、稲子は思わず心でこう吐き捨てた。
 元はといえば、アンタの黒々しい剛毛の遺伝子が知らないうちに受け継がれて、私がこうなったんだろ。
 だが実際にこう言えなかった。部屋に戻り、しばらく枕に顔を埋めて泣いた。怒りはそのうち諦念へと変わっていった。
 その諦念や羨望の隙間に取り入ったのは、外国人モデルで埋め尽くされたファッション誌だった。入学直前、大学の環境を知るために、周囲を散策した時があった。学部生に評判のラーメン屋の前に、稲子は洒落た外装をした本屋を見つける。灰色のコンクリートが剥き出しになった異様な力強さを持つ、こういった独自の美学に裏打ちされたような建築を、自身が住む町では見たことがなかった。引力に導かれるように稲子は中へと入っていく。
驚いたのは冷徹な外観と比して、内部空間は暖かな茶の色彩と木の親密さで満たされていたからだ。ゆっくり、ゆっくりと歩を進めながらその空間を眺める。まるでバラバラになったジグソーパズルのピースさながら、色とりどりの本が置いてあり、気分が否応なしに
高まる。本1つ1つも量販店では見られない独特なデザインをしたものばかりで、無数の色彩が瞳のなかで弾けるのを感じた。
稲子は1冊の本を手に取ってみる。店の外装と同じ灰塵色の表紙、そこに刻まれた黒い文字列はフランス語だと理解できる。だが彼女の生半可な知識では、どういう意味を持っているかまでは分からない。中身は写真集らしい。1つの建築と1人の女性、2つの存在が常にフレーム内で共存している。ある写真のなかで2つは争い、ある写真のなかで2つはまぐわい、ある写真のなかで2つは憎悪しあい、ある写真のなかで2つは愛しあう。そんな関係性の移ろいがゾッとするほど明晰な解像度で切り取られている。
そして写真によって、赤毛の女性の服装は劇的に変わっていた。何を着ているかというのを具体的に、ファッション誌の文体で表現することはできない。ただ詩的な印象だけが頭に思いうかぶ。燃えあがる深紅、沈澱する群青、荘厳な濃紫、甘やかな山吹、麗しき灰塵。女性のどこまでも白い、穢れの一切ない肌を自由なキャンバスとして、色彩が広がっていく。そしてやはり様々な建築、うらさびれた灯台、崩壊の一途を辿る神殿、原始の建築である洞窟、廃墟と化した要塞、天へと躰体を伸ばす摩天楼、それらが女性や纏われる色彩と相互作用を果たす。
中に、明らかに渋谷のスクランブル交差点を舞台とした写真がある。ここで女性が纏うのは黒だった。稲子の頭をも覆う、底知れない黒。これが東京の雑踏とビルの極彩の群れのなかで、しかし些かも埋没することなく、そこに在る。この写真のみ例外的に女性は無数の建築と相対している、だが完全にその無数を圧倒していた。無数であるのは雑踏の日本人たちもそうだが、こちらはそもそも一顧だにされない。絶対的黒。その言葉が脳裏によぎった時、不思議な気分だった。その女性はどこからどう見ても白人だったからだ。
 彼女の幻想が漿液や頭蓋ごと脳髄を抱くのを感じながら、稲子は他の本も見ていった。
女性には敵わずとも、どの本でも美しい人々が大胆不敵な表情でその美を謳歌していた。彼女たちの輝きによって脳の神経が焼ききられ、その度新たに繋がれていく。だがそれは元の素朴さではあり得ず、複雑さを増していく。
その果てに、彼女たちのようになりたい、稲子はそう思う。だが本を持つ自分の指が、何故だか黄色く見えた。今まではただただ青白く見えたのに、今は薄めた胃液のように黄色く見えた。すぐさま彼女たちのようになるのは無理だと悟る。目に映るモデルたちには全く隙がない、“日本人”である自分が付けいる隙など見出だせない。
生まれたばかりの憧れは一瞬にして幻滅へと堕落する。稲子は本屋を出ていき、ただただ力なく歩き続ける。あれほど眩く思えた街並みが、己の網膜を通すことで平凡なものと思える。
ふとした時、稲子はまた本屋を見つけた。先程のような個人経営の店でなく、自分の町にも存在する量産型の本屋だ。何となく入ってみた。今まであまり読む気のなかったファッション雑誌のブースへ赴く。
適当に表紙を眺めていて驚く。Primaveraと書かれたベージュの表紙、そこに先の女性に似た赤毛の女性がいたからだ。だがマジマジと見つめれば、2人は全く異なっていると分かる。先のモデルは雰囲気が作りこまれ緊迫している、だがこのモデルは緩んだ雰囲気を持っており、ある種の“抜け感”がある。
中を確認すると、雑誌はロンドン/パリにおける春のスタイルを特集していた。日本人のモデルは1人もおらず、あらゆる人間が白人だった。それでいて背景は全て日本だ。標識、街並み、看板。行ったことはないのに、確実にここは東京だと言える場所だ。中でも、ヒルナンデスでオードリーの春日がネタを披露していた橋が撮影場所になっていたのには笑ってしまう。
だが雰囲気はまるで異国だ。2人の白人モデルが、親友といった風に誇張した表情で誇張した友情を、どこまでも誇張している。どちらも赤毛だった。片方は先のモデルと似た、引きしまった雰囲気を纏っている。何となく“ヨーロッパ人”と思った。もう1人は表紙にいた、緩さを纏った女性だ。赤毛を含めて彼女の顔立ちは完全に白人なのだが、その印象がどこかまろやかに薄まっている印象も受ける。白人的な先鋭さが日本人的な丸さによって角を失くした風なのだ。何よりも重要なのは、そんな彼女の姿には“日本人”である自分が付けいる隙が確かに存在することだ。モデルとしての巧みな演技・演出と思えたが、稲子にはこれが彼女の生まれもったセンスとも思える。
雑誌を読んでいく中で、彼女の緩さが雑誌それ自体の基調であることが理解される。最初に思った“抜け感”という日本語が、それを十全に形容していた。日本人は白人になれない、だが日本人でも近づける白人性も存在する、こう甘く誘うようだった。稲子はこの時初めて、自分の財産を切り崩してファッション誌を買ったんだった。駅までの薄暗い夜道を歩くなかで、ずっとPrimaveraの表紙を見ていた。
 この子、ハーフなんだろうな。
 稲子はそう思った。家でPrimaveraウェブ版の記事を読んだ時、彼女の名前が踏楷アイリスだと知り、何となく嬉しくなる。ほら、やっぱりね。

 Primaveraを講読するうちに稲子はあることに気づく。ロンドン、パリ、ベルリン、バルセロナ。雑誌においてこの4つの都市がローテーションされ、企画として執拗な反復が行われているということだ。だが既視感を凌駕するほどに“完璧な抜け感”という語義矛盾が毎回完遂されている。芸術的なレベルだ。
稲子はここからスタイルの全てを学びとり知識を生かすことによって、その装いは加速度的に洗練されていく。自信と尊厳という、以前は遥か遠くにあった概念をこの過程で獲得し、心配された大学デビューも華麗に成功させた、少なくとも稲子にはそう思える。何よりも喜ばしかったのは新しくできた友人たちが口々に彼女のスタイルを誉めることだ、多くの場合は自己を卑下する言葉とともに。
「私がこういうの着ると、何か服に着られてロボット感出るんだよねえ」
「手足がクソちんちくりんで悲しくなって着れんわ、稲子の服とか」
「あれって一応全部日本のアパレルブランドなのに、日本人にはすごいハードル高いっていうか。何であの外人モデルとか稲子はこうも着こなせるの?」
 気分は悪くない。同時に、実は自分は恵まれた体格を持っていたのではないかという特権性に思いいたり、優越感に浸る時もある。だが結局はセンスなのだ。Primaveraにおいて提示される服や小物の数々は、どこにでもある定番のものが多い。とはいえ実際には相当値が張る高級品ばかりが扱われているゆえに、ユニクロなどの量販店やもう少しマシな服屋でダウングレード版を見繕う必要がある。それでもセンスを培うことができたなら、ショッピングにおける選出と着こなしで幾らでも個性を出すことができる。短期間における数多の挑戦、失敗、そして調整によって稲子はこれを学び取った。
 しかし男性にモテるのは稲子を誉める女性たちの方だった。モテというものをそもそも全く志向してはいなかったが、事実として興味深く思えた。ギリギリのダサさを隠し味として演出される“完璧な抜け感”というものに若い男性は惹かれない。これとは別種の、“フェミニンな”という形容詞のつく隙を演出する服装にこそ惹かれる。いつしか気づいたのは、それ以上に日本人男性は日本人女性による白人的な装いというものを好まない、時には目障りなものとして唾棄しているということだ。“イキってる”だとか“敷居が高い”といった陰口を聞いたこともある。
驚いたのは“白人男が好きな女”という言葉を聞いたことだ。スタイルを形成する際、常に白人女性を意識していたことは否定しがたいが、そこに白人男性が介在したことは一切ない。このスタイルは完全に女性のみで構成された関係性において培われたものなのだ。だが日本人男性がこうした幼稚な予断で自分を罵るならば、恋愛の選択肢から日本人は消え、自然と白人男性が恋愛対象となることが多くなりはするだろうと稲子には思えた。
 そして友人の1人がBumbleというデーティング・アプリを始めたと聞いた時、興味を持って稲子も参加することになる。大半は下らない会話とデートに終始するさなか、瑳峨野牧と出会った。
提示される4枚の写真において、野牧は誰よりも繊細な微笑を浮かべながら、こちらを見ていた。それに惹かれて右スワイプするとマッチする。ゲーム、映画、建築が好きということとともに、自身が日本人とノルウェー人のミックスであること(ノルウェー語は喋れないとも)が記されていた。それには特に触れず、稲子は彼に映画についての話題を投げ掛ける。彼はメキシコの映画監督、例えばアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、カルロス・レイガダス、ギレルモ・デル・トロといった監督の作品が好きだという。稲子もデル・トロの『シェイプ・オブ・ウォーター』というろう女性と半魚人の奇妙で美しいラブストーリーが好きだったので、それを言うと、相手も好きらしいと分かる。
こうして話が盛りあがり3週間かけて互いを知りあいながら、デートに赴く。2人は日比谷公園で、アプリでしたものと同じような会話をぎこちなく行う。ミシェル・フランコというメキシコ人監督の『或る終焉』と題された作品に受けた衝撃、ルイス・バラガンによる極彩色の建築たち、ゲームキューブやWiiで友人たちと遊んだ思い出。
 その最中に、稲子の目についたのは野牧の指だった。白く、細く、優雅。どの本かは忘れながら、あるフランス文学のなかで登場人物の指が“白アスパラガスのような”という比喩で表現されたのを読んだことがある。どこか滑稽な響きに思わず笑ってしまったことを覚えていた、どんな指だよと。だが野牧の指が視界に入ってくるごとに“白アスパラガスのような”という比喩が自身の感覚に馴染んでいくのが分かった。
だが、その4本のしなやかな指とは裏腹に、親指だけは異様に短かった。4本が白アスパラガスなら、親指は蚯蚓の幼体だ、小さいばかりか薄汚れている。どこか野牧自身、矮小な親指を他の指で隠すような素振りを見せているような気がする。実際、そのしなやかさを見ていると、親指の存在は気にならなくなる。
それでもチラつくのだ、煩わしい羽虫のように。
 野牧が少しばかりトイレへ赴いた時、稲子は近くのベンチで息をつく。柔らかな陽光に微睡むうち、意識にささらなヴェールがかかり、そこにある風景が浮かびあがる。彼女は野牧に触れられていた、彼女の首筋が野牧の指によって撫でられていた。まろやかな冷たさが皮膚に染みこんでいき、細胞から花が開いていく。ひらと落ちる花びらは火花と化して、心地よい撃が更に大きな花を咲かせ、官能が生まれる。
頬が赤らむような感情を、今こんなところで抱いている自分に呆れるが、それでも弱さを抱きしめるように、これに浸っていたいとすら思う。狭間にチラつく薄汚さをも無視できるほど、稲子は気分がよかった。

 家に帰った後、稲子はPrimaveraを取りだして、目を通す。
秋の始まりを祝福するような英国風スタイルがメインで取りあげられている。
トレンチコート、ギャバジン素材、フィッシャーマン・セーター、そういった英国を源とする豊かな服飾の数々が、美しいモデルたちによって着こなされ、生を謳歌している。その中にあの踏楷アイリスを見つけた。だが今日撮影していた写真とは、趣が全く異なっている。アイリスはどこかの砂浜にいた。秋というより冬といった方が似合う、厳寒の空気と荒涼たる潮風を感じさせる場所だ。
アイリスは、しかし幼稚園児がハイキングでやってきたという風に、赤毛を振り乱しながらはしゃぎ回っていた。カメラはそんな彼女の赤らんだ笑顔やそばかすを麗しく切り取る。荒涼を背景とするからこそ、アイリスの可愛さ、美しさが際立っていた。
稲子は頭に、自分がこの砂浜ではしゃぐ姿を思い浮かべようとする。だが幾らやっても現れるのはアイリスの姿だけだ。そして深夜、野牧がPrimaveraを読みながらペニスをしごき続ける夢を見た。まただ。

2020年10月

 コロナ禍以来、久しぶりに開いた大学のカフェTrois contesで、稲子はエスプレッソを飲む。彼女にとっても、同級生にとっても待望の再開だったが、わざわざ予約を入れなければ入店できないという条件付きだ。稲子も再開してすぐに予約を入れたが、他の学生も同じ思いだったようで、実際に行けるまで何日も待たされることになった。以前、稲子はここで読書をしたり、タブレットで映画を観るのが好きだった。
ここのエスプレッソは絶品だ。透明な苦みという詩的な言葉を思わず使いたくなる、複雑微妙な深みを、彼女は愛していた。空間の親密さも好きだった。学生たちがひしめきあいながら、思い思いの会話を繰り広げ、それをコーヒーの芳醇な香りが優しく見守っている。ここにいると、静かな場所にいるよりむしろ落ち着き、凪の海に心がたゆたうような気分になれる。その親密さはコロナによってもはや殲滅されたが。
 入店できたはいいが、滞在時間も厳格に決められている。
それでも稲子は久しぶりにこの空間で映画を観たかった。観るのは『EDEN』というフランス映画だ。90年代パリ、ダフトパンクが世界を席巻する前夜、1人の青年がDJとしてパリのクラブカルチャーを謳歌する青春模様を描きだす作品だ。
稲子は今作を数え切れないほど観ていたが、そこまで惹かれた理由が編集の流れというものだった。映画館で初めて観た時、稲子はその編集に様々な思いを抱いた。主人公はうまく時流に乗り、名声を獲得していくのだが、そこには成りあがるゆえの興奮や高揚は一切存在しない。ただただ事実が淡々と繋げられていき、青春は無味乾燥なものとしか思えない。観ている最中、こんな魅力的な物語をこんな駄作にできるなんてと稲子は怒りすら覚えた。
だが後半から風向きが変わる。主人公はただ時流に運良く乗れたまでで、音楽センスは実際なかったという事実が徐々に露になっていく。ダフトパンクが注目を浴びる一方で、彼は身を持ち崩し、生活もままならなくなり、憂鬱と倦怠の谷間へと転げ落ちていく。こうしてあの淡々とした編集が、時代に取り残され疲弊し、そして老いていく者の悲哀を際立たせるのだ。心中で罵倒を繰り広げていた稲子も、ここに来て言葉を失ってしまった。
諸行無常の感覚。
『EDEN』という作品、特にその後半部にはこの言葉がしっくりくる。そして稲子は、このリズムによって転落の後半部だけでなく、名声の前半部も描きだすことでこそ、人生の流れをも描きだそうとしていたのだと思い至った。この経験が稲子を映像編集という芸術体系に導き、今では編集を含めたメディア研究を大学で学んでいる。実際にYoutuberの友人のため動画編集を行うなど実践も行っており、今作には人生そのものを変えられたとも言えた。ゆえに今作を観るというのは、自身の興味や研究のルーツに立ち戻り、初心に帰るという意味合いをも持っていた。もう1つ付け加えるなら、アイリスに似ていると稲子には思える俳優ポーリーヌ・エティエンヌは今作のヒロインでもあった。
 エスプレッソを飲み終わり、カフェを出ると、偶然アリス・ルシャプトワという女性と鉢合わせる。彼女はフランス語とフランス映画史の授業を担当している人物だ。フランスとその文化に大いに興味がある稲子は、コロナ禍以後にはZoom越しですら熱気が伺えるほどの熱意で授業を受け、それがアリスに気に入られ、個人的にも喜ばしい関係を築きあげていた。
「カフェでコーヒー飲んでたの?」
 そう尋ねるアリスに服装に見惚れる。何より鮮烈なのはセーラーカラードのショートコートだが、色味は網膜を焼くほどに衝撃的なピンクだ。普通なら悪趣味な印象を受けるし、40代に差し掛かった女性が着る類のものではないだろう。だが彼女はそれを颯爽と着こなし、そこにまた鮮烈な赤のネイルが瞬く。
稲子の今日の服装は、深いVネックが特徴の、官能性とフェミニンさを合わせたワンピースに、そばだったクリームのようなネックフリルがポイントのブラウスだ。フェミニンさとガーリーな遊び心をかけあわせての“抜け感”を表現したつもりだが、アリスに比べると悉く無難に思える。自身の好きなぼやけたミントグリーンのネイルもその印象に拍車をかける。
「はい、すっごく久しぶりに」
「私も前はコーヒー飲みにいつも行ってたんだけどねえ」
 この会話はフランス語によって遂行されていた。稲子のフランス語は彼女自身が驚いてしまうほどに流暢だった。語学全般に関するセンスは日本人一般の平均よりも高いという認識を持っており、中学の頃から英語を学ぶことにも苦労はしなかった。
学校の教科において英語は最もパズルに近い構成を持っていると稲子は思っていた。ジグソーパズルのピースを嵌めこんでいくように、文法というルールに沿って英単語を変化させ、並べていく。語学に関するセンスとはつまり、これを苦でなく楽しさとして享受するセンスだった。英会話の授業においては、発音を流暢にこなすと馬鹿にされるという、平凡ながら思春期の心に傷を残すにはうってつけの環境が広がっていた故、発音は日本語訛りをわざと濃厚にした。それでも発される文自体は英文法に則った正しい文章を心掛けた。同級生は口ごもる臆病者を嘲笑うのに必死でそれに気づかなかったが、英会話の教師たちは確かに稲子の才覚を見抜いていたと言ってもいい。
 稲子にとって最も印象に残っている教師は、高1の英会話を担当していたジュリアというフランス系カナダ人のALTだった。くぐもった赤毛を持った彼女は、稲子が初めて英語で会話をした人物と言ってもいい。彼女は稲子が質問に対して正しい英文で答えると、満面の笑みを以て誉めてくれた。他の生徒に対しても笑顔は浮かべながら、稲子の時ほど輝いてはいない。それが自然と分かった時から、ジュリアの質問に答えるのが楽しみになり、彼女もよく稲子を指すようになった。ある時、廊下を歩いていて偶然ジュリアと鉢合わせた。何を話したかは忘れながら、頑張って英語だけで会話しようとしたのを覚えている。
そこから時折職員室に遊びにいき、彼女と喋るようになる。ケベック、アイスホッケー、グザヴィエ・ドラン。彼女にカナダについて英語で尋ね、その答えに英語で反応するうち、みるみる上達するのが耳に聞こえて分かる。そのうちジュリアの話す英語の訛りに意識が向くほどの余裕も出てきた。彼女の言葉はとても丸っこく、坂道を転がっていく雪玉のような快活な響きが宿っていた。そしてこれがフランス語訛りだと教えてもらった。それからジュリアは自身のフランス語を披露する。何を言ってるかなど当然分からない、だが心の底から魅了された。フランス語を学びたいと思った。
 それから英語の勉強の合間に、フランス語をも稲子は学び始める。センスがあるとはいえ英語の習得には時間がかかったが、フランス語が更なる難敵と気づくのに時間はかからない。男性形と女性形という名詞における性の存在とこれに伴う形容詞の変化、主語によって語尾が全く異なる動詞の数々、英語とはまた異なる時制の複雑さ。
それでもジュリアにフランス語の教師となってもらい、一緒に勉学に励むことで、歩くような速さで知識が培われていった。ある時、ジュリアに連れられて東京のミニシアターへ赴いたことがある。ジャック・ドゥミの『シェルブールの雨傘』のリバイバル上映が行われていたのだ。東京のミニシアターというものに初めて来たが、入り口の狭苦しさから一転、奥へと進んでいくと公開中、もしくは上映予定の作品のポスターや宣伝用の飾りが所狭しとひしめき、思わずワクワクしてしまう。ひときわ大きな看板の中心に水槽が据えてあり、映画のイメージカラーで照らされるなかを小さな魚たちが泳いでいたのには驚いた。何もかも初めての経験だった。
そして『シェルブールの雨傘』を、こじんまりとしたスクリーンで、ジュリアの隣に座って観るのは、本当に忘れ難い経験になる。フランス語の歌は、日本語字幕がなければ意味は微塵も分からないのに、不思議と耳に馴染む。最後、愛が絶望的に擦れ違いながら、それぞれの道を歩み始めるという切なさには、涙を流した。ジュリアもそうだった。もっとフランス語を勉強して、あの歌を、あの愛を字幕なしで理解できるようになりたいと思った。しばらく今までにない濃密な集中力でフランス語に励んだ。
 それが絶たれたのは、ジュリアがケベックに帰ってしまったその日のことだ。母の死をきっかけに自身が病身の父を介護せざるを得なくなったのだ。この暴力的なまでに唐突な消失によって、集中力もフランス語への憧憬も撃滅され、ただただ喪失感だけが残された。それでも時折、フランス映画やフランス語のカナダ映画は東京へ観にいった。ヌーヴェルヴァーグ作品のリヴァイバル上映、愚にもつかずだからこそ笑えるフレンチ・コメディ、背伸びをするようにアテネフランセへ日本未公開のフランス映画を観にいったこともあった。1度、近くのシネコンでルイス・ブニュエルの『昼顔』が上映されると聞いて観にいったが、その濃厚なまでに下卑た官能性に生唾を呑みこんだことも未だに覚えている。振り返ると、何故こんなエロティックな映画を高校生が観ることを許したのか、映画館のスタッフの采配が奇妙な疑問として現れる。
フランス語自体を勉強する気分でなかった稲子がそれを再開したのはあの時からだ。剥き出しの建築、そこで読んだ写真集の表紙に書いてあったフランス語を読むことができなかった時からだ。
「また『EDEN』観てたんだ。あなた好きだね、本当」
 アリスは稲子に微笑む。頬骨が断崖さながら切りたち、真珠さながら輝きを放つ。そういえばミア・ハンセン=ラブの『EDEN』を観たのは高校時代だ、名画座で上映されると聞いたので観にきたのだ。
「じゃあ、ハンセン=ラブの新作観た? “L'avenir”の次回作」
 “L'avenir”は『未来よ こんにちは』という邦題で日本でも公開されているが、アリスはそのままフランス語の原題を口にする。
「いや、観てないです。どんなんですか?」
「はは、今まで一番の駄作でビックリしちゃったよ、鼻からクロワッサンまるごと吹き出しそうになった。内容は教えない、だって観てほしいから。後でデータ送るよ」
「データって違法じゃないですか」
「あんなの、お金払って観る方が罪だって」
 アリスは指をクネクネと動かし、おどけてみせる。その指もまた“白アスパラガスのような”という言葉が似合うしなやかさを持っている、ビビッドな赤のネイルも切れ味がある、少し中年の皺が目立つが。
 と、アリスが誰かを見つけ、手を振る。視線の先を見ると、そこには見慣れた不快な顔があった。アプリヤニ・ラハユは稲子と同じ学部に所属するインドネシアからの留学生だった。アプリヤニもまたアリスの受け持つフランス語とフランス映画史の授業を受けており、稲子と同じく彼女に好かれていた。
1年の頃から何かと顔を合わせる時が多いが、いつであっても目を惹くのが常に頭に着けているスカーフだ。インドネシア国民はほぼイスラム教を信仰し、女性はスカーフを着けているというのは聞いたことがあったが、大学の授業中でも構いなくスカーフを着けっぱなしというのには驚いた。何故か洒落でニット帽を被り続ける男子生徒さながら、常に目障りだった。
それでいてアプリヤニにとってスカーフは着こなしの重要なピースであることも伺える。ワインさながら鮮烈な赤、網膜に優しい繊細な黒、アールヌーヴォーを彷彿とさせる滑らかな植物柄、生地に浮かぶ波紋のような襞。その軽やかで自在なテイストは“お洒落”であると認めざるを得ない。コロナ禍が少し収まり、対面授業が再開された際には、マスクを着けたアプリヤニと会うこともあったが、スカーフと布マスクを共鳴させるコーディネート力は図抜けており、友人たちから羨望の眼差しで見られていた。それを稲子は遠くから眺めていた。
今日は黄緑色の優しげなスカーフに、孔雀の開かれた羽根さながら絢爛な布マスクを合わせており、その躍動感に不覚にも気圧され、奥歯を噛みしめる。
 アプリヤニもまた当然のように流暢なフランス語でアリスに話しかける。彼女と話す時、アリスは母国語としての速度やリズムを一切緩めることなく、まるでフランス人に話しかけるように話しているように稲子には思えた。
認めたくはなかったが、アプリヤニは自身を凌駕する語学のセンスを持つ人間だった。インドネシア語を母語とし、英語は当然のごとく母国語さながら堪能、フランス語もフランス人と気軽に会話できるほどには流暢、さらに日本語すら熟達しており、友人や教授たちとは日本語で会話を行う。聞いた話ではマレー語も体得し、現在はドイツ語を学んでいるという。
 彼女がフランス語を軽やかに紡ぐ様を見せつけられるたび、指の関節が呻き声をあげる。アプリヤニは意図的に自分の目の前に現れ、競いあい自身の力を誇示しようとしているのではないか?とすら思われてならない。スカーフの下の浅黒い肌には理由もなく虫酸が走る。武骨で角張った指の数々もそうだ。だが金と水色が爪の先端で寄りそうツートーンネイルは、何か“アート”だった。

 野牧の部屋に行って、一緒に夕御飯を作る。
最近、嵌まっているのは料理研究家ウー・ウェンのレシピを見ながら料理を作ることだ。今回作ろうと思ったのは豚ヒレ肉とねぎ炒めだった。まずヒレ肉と長ネギを繊維に沿って千切りにしていく。レシピには“ヒレ肉は厚切りがよい”と書かれていたが、野牧が買ってきた肉は薄く見えた。それでも2人で笑いながら切っていった。フライパンに粗塩と胡椒、片栗粉、酒を入れた後、肉を投入していく。火が通るまで炒めようと思うのだが、強火すぎたらしく焦げついた匂いが漂ってくる。それを取繕うため、醤油とはちみつ、ゴマ油を分量よりも多く投入した。特に野牧は「甘い方がいいよ」と言いながら、かなりの量を投入していく。そして長ネギも入れた後に、最大限の弱火で炒めあわせる。香りは悪くないと稲子には思えた。実際に食すと甘すぎて、野牧が爆笑した。豚ヒレ肉は焦げて変に固い、長ねぎもしゃっきりした食感が消えて完全にべちゃっとしていた。
「やっぱ親が作る方が美味しいなあ」
 稲子はそう言って、野牧の方を見る。そのニヤニヤは全く同じことを思っていると伝えていた。また笑いあって、幸せだった。
 午前0時、稲子と野牧はセックスを行う。野牧は服を着たままベッドの端に座り、稲子は立ったままでゆっくりと服を脱いでいく。彼の視線に一方的なまでに貫かれながら、全裸になる。月光すら通さない闇のような黒髪や毛、細く垂れさがった重力への敗北者たる瞳、鈍重なまでに丸まった鼻、脳髄だけいたずらに肥大したかのような頭部と顔面、白いというより青白い全身の皮膚、赤子さながら脂肪ででっぷりした指の数々、大きくも小さくもない徹底的に中途半端な乳房、団子虫さながら肉体に遍在する黶。夜のなかでこの鈍重な身体部位を凝視されるのは苦痛だった。
凝視する時、野牧は常にペニスをしごき続ける。股間から濃密な影のように、勃起したペニスが見えるのが不気味だ。せめてそれが夢の中に出てきた彼のペニスよりも大きいことを願った。
「今日はここを殴りたいんだ」
 左手でペニスをしごいたまま、野牧は稲子のへそ、その右側を撫でた。手つきはとても優しく、肉が細胞ごと蕩けそうな気分になる。
「ここを一発だけ。このくらいの力だ、手を出して」
 いつものように恐る恐る稲子は右手をだす。壁のように縦に伸ばすと、震えているのが分かった。3,2,1という言葉の後、拳撃が繰りだされる。後ずさるほどではないが、それでも手のひらで極小の爆弾群が弾けたような刺激を味わう。痛い、痛かった。野牧はペニスをこすりながら、右手の拳を腹部に当てる。
「ここを殴るからね、ここだよ。お腹にちゃんと力入れてね、5数えたら殴るよ」
 カウントダウンが紡がれる、いつも時間が奇妙に引き伸ばされる。まるで数秒後、致死的な交通事故にでも遭遇するかのように。これは自身のセックスやこの現状をメタ認知的に思考するための狭間の時間だった。だがいくら考えても最後には諦念に染まるしかない、全て無駄だ。
 世界が激しく揺れ動く。
眼球も脳髄も震盪を起こしたという風に、稲子は床へと崩れおちる。
息ができないのに、胸郭と肺臓ばかりが急激な膨張と収縮を繰り返す。
嗚咽が止まらない。そして全身巻きこんでの痙攣が始まるが、この後にすべきことを神経が熟知しており、稲子の肉体は自然と床に寝転がって股を広げた。もう精根尽き果てるとばかり、愛おしいまでに荒々しい呼吸をしながら、野牧はしゃがみ、ペニスを稲子のヴァギナに挿入した瞬間、射精する。
 何とか動けるようになった後、稲子はトイレに行った。
トイレットペーパーとウェットティッシュの両方を使いながらヴァギナを清潔にする。ピルは飲んでいるので、妊娠する危険は低いはずだった。だがもはやどうでもいいことだ。手が不随意に動く一方で、稲子の瞳は目前の壁をひたすら見ていた。ハーブなどの植物が描かれた薄い緑の壁紙、だが近くで見るとボコボコと月のクレーターさながら偏平な穴が散在しているのが分かる。顔を遅々と肉薄させて、ある1つの穴を見据える。だが実際に見ているのはそれではない。穴から細い針がいきなり突きだし、両目ともに失明するという実現不可能だろう憧憬だ。ドアを閉めているのに、外から音が聞こえる、啜り泣く声が聞こえる。不思議と耳障りではない。
 いつしか、稲子はベッドへと戻っていく。野牧の横に寝転がり、その顔を見つめる。月の光でさらに白く輝く彼の肌、だが目許だけは血の赤に染まっている。
「好きだよ、稲子」
 そう言いながら稲子の唇に、自身の唇を重ねる。今まで味わった誰よりも柔らかな唇が控えめに、肌に触れていく。静かに熱が込みあげてくるのを感じた。鎖骨を撫でてくれる野牧の右の指を優しく掴んで、下腹部へと導いていく。
彼はいつだって可能な限り優しく快感の源に触ってくれる。乱雑なことは絶対に行うことがない。揺らぎのような動きで快感へと導いて、その隙間へと密やかに入りこむ。あの“白いアスパラガスのような”指の、その先が稲子の肉にキスをするのだ。それに深く、深く乱されて、世界が白く染まっていくなかで、声も出せないままに絶頂へと至る。
動くこともままならなくなり、ベッドに沈みこんでいく。その中でいつも殴られた部分が痛み、吐き気を催す。それを何度も何度も口のなかで味わいたい。

 稲子は最寄り駅の近くにあるファミリーマートに行く。
ここにある小さな休憩場はいわゆる穴場であり、どこのカフェよりもずっと静かで、しかも昼ご飯時の短い時間以外はほとんど誰もいない。ここで独り安いコーヒーを飲みながら、大学の課題をしたり、くつろいだりするのが落ち着くのだ。もちろんコーヒーは美味しい訳もないが、そこまでは高望みというものだろう。
 メディア史のレポートを書き終えた後、稲子は映画を観始める。アリスから送られてきたハンセン=ラブの新作『マヤ』だ。デビュー作の『すべてが許される』含めて、ハンセン=ラブの作品は豊かな傑作ばかり故、アリスの罵倒は信じられなかったが、観続けるうちに最低の形でその意味を理解し始めた。
主人公は戦場ジャーナリストの青年だ。彼はシリア内戦を取材するうちISISの人質となり、長い間拘束される。何とか彼は解放されるのだが、パリに帰還を果たしても心の傷は癒えることがない。そんな主人公が目指す場所はどこか、インドだ。そこに母が住んでいるのだという。インドで彼は母や、名付け親であるインド人の男性と会うが、本当に彼が“出会った”というべき存在は彼の17歳の娘であるマヤだった。
 稲子は目前で繰り広げられる光景が信じられない。何の冗談だろうか、フランス人で白人の30歳男性がインドに赴き、17歳のインド人少女と愛しあい、癒しと救済を見出だす。インドとインド人をダシにした、白人による文化的植民地主義の極みだ。60,70年代のカウンターカルチャー全盛期の映画であるならまだ歴史背景こみで理解できたかもしれないが、今作の製作年数は2018年だ。特権階級たる白人のおふざけでしかない。
更に苛ついたのは、何か裏の意味があるのかもしれないとインタビューを検索した際、監督のこんな発言を見つけた。自分にとって映画製作は、怒りや悲しみ、諦めといった負の感情とともに生きていくため行うセラピーなのだと。いい気なものだと、熱い苛立ちを覚えた。彼女の生け贄にされたこのインド人女優が気の毒に思った。だが彼女の顔を見ていると、アプリヤニの厭味たらしい顔が思い浮かんできて、虫酸が走る。もし彼女が完全にマスクもスカーフも外したなら、こういう感じなのだろう。あの浅黒い肌色も白日のもとに晒される。
 精神的に疲れてしまい、しばらくただガラス張りの壁から外の風景を眺める。
駅の側面部、高架下に位置するスーパーマーケット、何台ものタクシーが周回する円環状の道路、コロナ禍によって経営が破綻して解体されたパチンコ店の跡地、逆にこの状況でも何とか生き残っているパチスロ店。そんな建築群に寄り添うように流れる狭い道を、人々が歩いている。一応は駅前であるのに人数は全く疎らで、今にも消えかかる孤独な影が歩いているようだった。それでもこの物寂しい風景を眺めていると、心が落ち着いていく。
ふと目に入るものがあった。町の侘しさに似合わない目覚めるような赤毛、日本人離れした顔立ち。稲子の視線は彼女を自然と追っていくが、そのままファミリーマート内に入ってくるので驚いた。病的な白色灯に照らされた彼女があの踏楷アイリスだということに気づき、二重に驚愕してしまう。
アイリスはトレンチコートを軽快に揺らしながら、こちら側に歩いてくる。思わず唾を呑みこんだ。だが彼女は雑誌棚の前で止まり、立ち読みを始める。そんな油断している状況でも、背中はピンと張られ、佇まいは凛としている。心臓がドキドキして、口のなかで興奮がパチパチと音を立てている。だが実際身体はほとんど動くことなく、瞳だけがぼうとアイリスだけ見つめている。
 ふとアイリスが後ろを振り向く。目が合った。なのに視線を動かすことができなかった。
「なに、何か私の顔についてます?」
 その怪訝な声が、稲子の感覚を刺激した。
「あ、あの、アイリスさんですよね、Primaveraとかに載ってる!」
 彼女は無表情でしばらく稲子を見つめる。人違いかと急に羞恥心に教われながら、アイリスはマスクを顎にまでずらして、紙でも破ったような笑みを浮かべる。
「そう、そうだよ。嬉しいな、私も有名人?」
「有名人ですよ、わたしいつもアイリスさんから服とかそういうの学んでます!」
「本当に? ありがと」
 そして物事はあっという間に進んでいき、稲子はアイリスにあの安いコーヒーを1杯奢ってもらい、休憩場でしばらく会話することになる。何もかもが信じられない。
「いつも着こなしとか素敵で、赤毛とかも、すごい魅力的で……」
 憧れのモデルを前に、そんな月並みなことしか言えない自分が恥ずかしい。著しく語彙力が落ちており、ネットで自身の感情を表現するためネットミームばかりに頼る人々の気持ちを初めて理解できた。
「いや嬉しいけど、そんな畏まらないでよ。多分、あなたのが年上だし」
 そんなことを言われて少し驚く。アイリスは20歳らしい。稲子も20歳だった。同い年だ、しかし敬語以外を使う気にならないまま、稲子は日本橋で撮影現場に遭遇したことや、自分がアイリスをいかに尊敬しているかを語っていく。唇や舌を熱心に動かすうち、語彙力が少しずつ戻ってくるのを感じる。
「例えばなんですけど、GISELeなんかは隙がないと思ってしまうんです。“大人びた”だとか“知的な”という名の武装といった風で、完全というか完璧というか。白人だからこその完成度であって、白人じゃない自分には付けいる隙がないって感じてしまう。あとこの雑誌ってどちらかといえば黒や灰、濃厚な白だとか、そういう重めのモノトーンを好む印象があるんですが、わたし、見ての通り黒い剛毛じゃないですか、だからこういうコーディネートは明らかに重すぎるんですよ」
 そう言いながら、思わず右手で自身の髪を弄くるのを抑えられない。
「でも、でもですよ、Primaveraなんかも白人のモデルばかりですけど、私みたいな純日本人、まあ純ジャパみたいな、そういう子にも“あなたでもこんな風に綺麗に、美しくなれる”っていう希望をもたらしてくれるっていうか。それは隙が存在する……いや、言葉が悪いですね、余白、余白が存在するんですよ。こういう黒でも軽やかになれるっていうか……」
「ふうん」
 アイリスはコーヒーを一口飲む。
「でも、私はあなたの黒髪、重いというか重厚で、とても存在感を感じる。力強い個性だと思うんだよね。軽やかにするよりも、この重みを活かすっていうのもアリじゃない? その髪、すごく羨ましいよ」
 稲子は耳を疑い、少し、ほんの少しだけムッとする。
 あなたは、でも剛毛で苦労したことないですよね? わたしが欲しいのはその軽やかな赤毛なんですよ。
 だが勿論、そんなこと言えるはずもなかった。モヤモヤを他の話題でうやむやにしようとする。ロンドンにおける現時点でのトレンド、バルセロナでブームとなっている音楽、ベルリンのクラブカルチャーの再生過程……
「アイリスさんって、何だかジャック・ドゥミのミュージカルにも出てきそうな雰囲気ですよね。ああ、ジャック・ドゥミって知ってますか?」
「名前は聞いたことあるかな。どこの映画監督だっけ」
「フランスですね。彼の作品、本当にすごく楽しくて切なくてオススメですよ」
「ふうん、でも多分観ないかなあ」
「えぇ、何でですか?」
「だってフランス映画でしょ、私、フランスきらいなんだよね」
 そう言ってアイリスはケラケラ笑った。
「というか実は、欧米とか全部ね」
その時、ファミリーマートに若い男性が入ってくる。甲冑のような黒髪を頭に嵌めこんだ、陰気な眼差しの青年だった。不思議と一目で嫌悪感を抱きながら、アイリスが彼を認めると、親しげに手を振るのを見て驚いてしまう。
「じゃね、また今度話そうよ。あなたと話すの楽しいしね」
 LINEで連絡先を交換した後、アイリスは青年と一緒にファミリーマートを去っていく。姿などすぐに見えなくなったのに、稲子はしばらく入り口を見続けていた。

2021年10月

 稲子は地下鉄に乗り、帰宅の途につく。席でじっと眺めていたのはインドネシア語のテキストだった。
今日、図書館に寄った際、新刊コーナーの横に幾つかの本がランダムに置かれていたのだが、中にこの本があったのだ。表紙を目にした瞬間、自然とアプリヤニを思いだし不愉快になり、喉に痰が詰まる。
同時に、様々な考えが脳裏をよぎっていく。こんな目立つ場所に置いてあるということは、人気のある書籍ということか。日本人がそんなにインドネシアに注目したことがあるのか。しかし何にしろ、誰かに借りられて、インドネシア語が学ばれるという風景を頭に浮かべると、胃がキリキリと痛む。そうして結局稲子自身がこの本を借りていた。自身の行動を頗る愚かなことと思う、それでいいとも思った。
 稲子は最寄り駅に着くまで、書籍に目を通す。
語学テキストに関し、まず稲子は始めから最後まで本として目を通すことを常としている。こうして概観を何となく頭に入れた後、語学テキストとして読み始め、学んでいくという過程を稲子は取っている。この方法によって、今はイタリア語を何冊ものテキストを通じ着実に学習する途上にあった。
最初の20分、稲子はアプリヤニへのものと同じ類の反感をインドネシア語そのものに抱きながら、徐々に語学を愛する者として純粋にこの言語へ惹かれていく。
驚いたのは文法のそのシンプルさだ。名詞や動詞の変化がほぼ存在せず、単語同士の繋げ方にも煩雑なルールが存在しない。時制もかなり簡略化されており、未来形すら存在しないのには驚愕する。しかし現在形の文章に未来を示す副詞などを置けば、わざわざ未来形を示す必要なくそれが未来の出来事だと分かるという説明には、身も蓋もないとはいえその合理性は首肯せざるを得ない。
そうして気づいたのはインドネシア語の凄まじいまでの機能主義ぶりだ。全く無駄がない。フランス語や英語、そして日本語とは比べ物にならない洗練を、この言語は持ち合わせている。驚愕のうちで思いだすのは、ル・コルビュジエというスイスから帰化したフランス人建築家だ。彼は“建築は人の住める機械である”という言葉を以て、工業製品をモデルとした徹底的な合理性を建築という領域において突き詰めていく。その最初期の顕現がサヴォア邸という個人住居だった。ル・コルビュジエはピロティという柱によって邸宅を浮かせることによって、家という概念へ機能美を劇的なまでに導入した。
この邸宅=機械は、古代ギリシャ建築を手本とした、地中海に輝ける陽光さながらの全き白に包まれている。稲子はサヴォア邸を雑誌か何かで初めて観た時、その無駄というものから解放された純白の存在に衝撃を受けた。後に、実際は住居として使い物にならなかったと野牧から聞きながら、そんなことどうでもいいとすら思えた。その機能美は“建築”という一ジャンルでなく、“芸術”という巨大概念そのものでしか評価できないと彼女は一瞬に確信していたからだ。
 のめりこむようにテキストを読んでいた稲子は、インドネシア語にサヴォア邸と同じ崇高な機能美を見いだした。そしてこの言語が他でもないアプリヤニの母国語であることを呪う。
 同時に思い出すのはノルウェー語だ。野牧と恋人になった後、ノルウェーと日本のミックスというのを思い出して、この言語を一時期勉強していたことがある。既にフランス語を体得していた稲子は、勉強を始めてすぐにこの言語の文法がそこまで難しくはないことに気づいた。動詞の形が主語によって変わるということはほぼないし、語順なども基本事項を押さえれば特に困難はない。
だがインドネシア語と比するなら、いわば中途半端な形で複雑だ。例えば名詞の未知形と既知形、それに伴った形容詞の面倒臭い変化の数々。それらは、しかし美しくない。ただむやみやたらに複雑なだけのものと思える。インドネシア語の洗練の機能美にも至ることがない。
発音については最も奇妙で音楽的であり、魅力あるものとは認めるが、彼女が語学において興味を抱いているのは文法だ。発音ひいては喋るという行為は、文法という底知れない迷宮に比較すると退屈なものだ、二次的産物でしかない。であるが故にノルウェー語に魅了されるということはついぞなかった。
だが勉強を止めた理由はもう1つある。コロナ禍前、大学のカフェを待ち合わせ場所として、エスプレッソを飲みながらノルウェー語の語学テキストを読んでいる際、野牧が現れた。彼に何気なくテキストを見せると、野牧は不愉快な表情を隠さなかった。
「そんなん、別にいいだろ。余計なことするなよ」
 この酷薄な言葉が、勉学の終わりの合図だった。

 ファミリーマートでアイリスと会う。
初めての出会いの後に稲子が知ったのは、自分とアイリスの最寄り駅が同じであり、その近くにあるファミリーマートには日頃から頻繁に足を運んでいたことだった。こうなると逆にあの時まで1度も会わなかったことが奇妙に思われる。
「ま、ここ何もないし、私はほとんど大学とか東京の中心部で色々やってるからね」
 アイリスが事も無げにそう言ったことがある。
 だがこの繋がりをきっかけに稲子はアイリスと何度も会い、時間を過ごすことになる。
憧れの人物と空気を、空間を共有できる時はいつであっても夢見心地の気分になる。赤毛から漂う火花のような香りのなかで、ファミリーマートのガラス張りの壁から伺えるくすんだ光景が華やいで見える。
彼女たちはこの町について様々なことについて話した。アイリスの実家は東京に程近い埼玉県にあること、このコンビニから2分ほど歩いた場所にある肉バルの料理が絶品であること、そして肉バルの隣の高架線を挟んだ場所にもう1軒のファミリーマートがあること、稲子は両親と住んでおり実家は深い紺色に覆われていること、工場地帯と住宅街がせめぎあい“マンション建設絶対反対!”という看板が張られていること。
 今日も町についてに加え、アイリスのモデル業や先ほど勉強していたインドネシア語についても喋っていたが、ふとアイリスが呟く。
「あそこのケバブ屋でケバブ買ったことある?」
 彼女の視線の先、普段はタクシーが周回している道路脇に小さな屋台トラックが止まっている。時々ここにトルコ人の店主がやってきて、ケバブを売っているのだ。道路の利用許可などを、近くの交番に取っているかなどは全く知らない。大学からの帰り、稲子もこのくすんだ白のトラックをよく見かけたことがあったが、実際にケバブを買ったことはない。
「じゃあ行ってみようよ。実は私も買ったことないから」
 そう言うとアイリスは立ちあがり、たったかと外へ出ていく。稲子も急いで外へと出ていき、黄昏の乾いた風に晒される。
「こんばんはあ、ケバブ2つください」
 アイリスが横でそう言うのを、稲子は少しオドオドとしながら聞いていた。
店主は中年男性で、頗るマスキュリンな風貌をしている。肌は赤銅色に輝き、マスク越しにもその肌を鬱蒼たる黒髭が覆い尽くしているのが分かった。服装はトルコのムスリム装束だろうか、少なくとも日本の日常においては異質な赤を、彼は身に纏っている。片言の日本語とともに、男性は人好きのする、しかし脂ぎった笑顔をこちらに向けていた、今にもマスクが吹き飛びそうなほどの蠢きだ。器用にケバブを作った後、片言が不可避的に内包する“かわいらしさ”を伴いながら、彼は「可愛い女たち、どうぞどうぞ~」と2人にケバブを手渡した。アイリスは目を細めながら礼を言うが、稲子は心が毛羽立ち、ただ会釈だけをする。
 代金は全てアイリスが払った。その優しさを申し訳なく思うが「まあ、白人特権で金稼がせてもらってるから、少しは還元させてよ」と冗談を言いながら、支払いを終える。
ケバブは重かった。美味しいや不味いという感覚よりもまず先に重いという感覚が、アイリスの肉体にのしかかった、臓器全体を誇張された重力によって蹂躙されるような気分だった。
「美味しいこれ、たまにこういうの食べると何か楽しいっていうか新鮮」
「そうですね」
 その言葉とは裏腹に、自分は“新鮮”とは真逆の感覚を味わっていると思った。これをアイリスの前で告白するなど、稲子にはできない。
夜、野牧に腹部の左側を殴られた稲子は、我慢できなくなりトイレに吐瀉物をブチ撒けた。もはや内容物が何か判別できないほど、物体は泥々に蕩けており、その匂いに包まれながら、稲子は更に嘔吐を続けた。
ドアの向こう側から、絞り出すような謝罪の声が聞こえてくる。返事はできないが、吐瀉物ももはや口から現れない。そのまま稲子は疲れはてるまで餌付き、最後には便座のうえに頭を横たえる。

 数日後、駅に隣接する図書館近くで稲子はアイリスを偶然見かける。
彼女は道路を挟んで向こう側の歩道にいた。嘔吐の記憶が甦り、すえた悪臭とともに罪悪感がこみあげながら、アイリスはそれを知る由もなく、横にいる男性と会話を繰り広げている。最初に彼女と会った時、自分たちの親密な時間を切り捨てた青年だった。あの後に彼の名前が勝田仰木というのをアイリスに教えてもらったが、洒落た布マスクの奥でその名を紡ぐ唇の動きが忘れられない。
今、アイリスはマスクを顎にずらしたまま彼と話していた。自分の前でそうしていたことは今までない。とても楽しそうだった、彼に深く気を許しているのが傍目からでも分かる。だがそれがいかに素敵なことか分かっていないとでもいう風に、仰木はその陰鬱な視線を隠さない。黒髪は常にボサボサで、ボロボロの甲冑にしか見えない。
彼らは本当にゆっくりと歩いていた。稲子も向こう側の道をゆっくりと歩いた。自分はアイリスと仰木を追跡しているという意識が全身に漲り、筋肉が過度に緊張しているのが分かった。この苦痛から思考を離すため、視線は彼らから外さないまま、何か別のことを考えようとする。頭に現れるのは、ある午後の風景だ。
「本当、野牧くんってフェミニストだね」
 稲子の友人である粋縞阿莉が言った。野牧は稲子の横で苦笑する。
「いやいや、そういうのはないよ」
「いやいやいやいや、自分でそう思わん? すごい立派だよ。フェミニスト名乗ってる男が実際は左翼のおふざけで女性差別かましてたり、トランス差別に与してたりするなかで、野牧くんはマジでフェミニストって言ってもいいと思う、立派だよ」
 稲子の口に粘った唾が溢れる。
「まあ有り難いけど、自分では別に思わないっていうか……いや、フェミニストがいやって訳じゃないよ、説明させて」
 野牧が左の脇腹を掻く。
「自分をフェミニストと思わなかったり、フェミニストを自称しないっていうのは……僕はまあシスヘテロ男性っていうマジョリティど真ん中な訳だけども、そんな自分がこれを名乗るのはフェミニズムっていう学問を発展させてきた人々に失礼な気がするんだ。女性、トランスジェンダー、黒人、障害者、アセクシャルとかそういう周縁に置かれたクィアな人々、彼らが積み重ねてきた歴史を簒奪するような行為に思えるんだよ、一種のタダ乗りみたいなものかな。だから罪悪感がある。もちろん他人から呼ばれるのは構わないよ、粋縞さんがそう言ってくれるのは光栄だよ。でもこういう理由で自分では名乗るべきではないと思ってる、とはいえフェミニストじゃなくてヒューマニストみたいなのも、フェミニズムを侮ってる感じがあるから自称することはないけど。まあこういうのは、全部他称であるべきと思ってる、僕みたいなマジョリティは特にね」
 そんな言葉に阿莉は目を見開きます。
「おい、おい、おいおい、本当いい恋人持ってんなあ、稲子は!」
 わざとらしい口調で喋りながら、阿莉は稲子と肩を組んでくる。
 その時浮かべた曖昧な笑みが、2人を追う稲子の頭から離れない。耐えられなくなり、彼女は走ってアイリスたちを追い越す。

 自分の部屋に籠り、全てを忘れるため映画を観ようとする。
観るのはミア・ハンセン=ラブの新作である『ベルイマンの島』だ。映画作家である主人公夫妻が、イングマール・ベルイマンというスウェーデン人映画監督が過ごした島へと赴く。ここは映画史に燦然と輝く人物を祝福する聖地、もしくはある種のアトラクション・パークと化している。夫は世界的に有名な映画作家であり、妻もそうだが彼の知名度の影に隠れていると言わざるを得ない。彼女はこの状況や夫婦関係に関してモヤモヤを抱えながら、新作映画の脚本を執筆しようとする。ある女性が初恋の男性と再会し、恋愛関係に陥る。そんな2人が赴くのはとある静かで自然豊かな島だ。
 こうして入れ子構造的に2つの物語が紡がれていくという、ハンセン=ラブ映画として異色の野心的作品を観ながら、稲子は深い幻滅を抱いた。作品自体がベルイマンという映画作家へのオマージュというのは題名からして露骨なまでに明らかだが、舞台が彼に所縁のある地なら、夫婦関係のゴタゴタという設定まで、何から何までベルイマン的で、オマージュ元を明らかにしている以外はもはや剽窃と見分けがつかない。まるで偉大な作家の尻穴を嬉々として舐めるようで、1人の芸術家としての矜持など微塵も感じられなかった。
1年ほど前に観た『マヤ』がハンセン=ラブにとって最大の駄作と感じられた故、これ以下はないとたかをくくっていたが、現実は稲子の斜め上をいった。これはもう白人のおふざけでしかない。今、ハンセン=ラブ作品を研究していること自体を恥だと感じられる程にうちひしがれた。
 不安、幻滅、焦燥。
淀んだ感情が自身の肉のうちをのたうつような気分を味わう。稲子は全てを洗い流すために風呂場へ駆けこむ。シャワーの激しい熱湯へ肉体を曝しながら、精神的な滓までもが一掃されるイメージを思い浮かべる。
全身が赤くなるほどに熱湯を喰らった後、身体を洗おうとして鏡に目がいく。己の顔がそこにある。凄まじいまでに純日本人的。嫌悪感を否応なく抱きながら、皮膚に浮かんだ赤、その更に奥底からまた新たな色彩が浮かぶのを感じる。黄色だ。
 小学校の頃は“おかめ納豆”というニックネームだった。スーパーでも売っているあの納豆のパッケージに記載される仮面に、顔がそっくりだったからだ。膨らんだ頬、極小の瞳や唇、分けられた黒髪。そういった断片が浮かんでは消える。意識して大分その面を見まいとしてきた故、記憶が曖昧模糊となっているからだ。だがその断片ですらも完璧に醜かった。
この耐え難いニックネームを前に、稲子は道化を演じることを自身に強いた。自分からわざと“おかめ納豆”の顔面を真似していき、そこに幼稚な誇張を付け加えることで、同級生たちを笑わせようと試みた。長い髪を掴んでグルグル回し、奇妙な怪物のような真似すらした。幼稚であれば幼稚であるほど彼らから笑いを拐い、仲間として受け入れやすくなった。このニックネームが生まれたことで、自分が容易にいじめられっ子の地位に堕ちる可能性があると意識せざるを得なかった。だからこそ必死に道化としての才覚を磨き、笑いによって可能性を殲滅せんとした。その必死な努力により、彼女はついぞいじめられることはなかったと自分では思っている、ただネタキャラとして弄られただけで済んだと。
 だが彼女の代わりに虐められる者が確かに存在した。最も記憶に残っている存在は、小4の頃にいた少女だ。彼女は両親がインド人であり、見た目が同級生とは全く異なっていた。肌のあの浅黒さという彩りを、その顔の印象以上に覚えている。生まれたのは日本ゆえに日本語には全く支障がなかったが、周囲の人間は彼女が何かを言うたびに、聞いた者の頭にカタカナが浮かぶ類の片言を演出しながら、その言葉を復唱したんだった。
国語の授業は、おそらく彼女にとっての地獄だった。少女が文を朗読すると、ひそひそと片言で言葉が復唱される。彼女と教師以外の頭はカタカナで埋め尽くされ、運動会や合唱コンクールの時期以上に一体感を味わった。教師がいない時を見計らって、いじめっ子が堂々たる発声を以て、少女の言葉を高らかに復唱し皆が笑った。稲子も笑った。そして誇張した“おかめ納豆”の表情を浮かべながら、当時の彼女の思う“平安時代っぽい優雅さ”を演出しながら言葉を復唱した。
皆が笑ったし、稲子も笑った。少女は泣かなかったし、国語の授業で朗読を指示されても黙ることはなかった。小学4年の途中で転校した。
 今、自身の顔を鏡で見つめる。あの少女のような茶色い皮膚とは似ても似つかない色だ。熱の赤や室内灯の橙をも塗りかえるような黄だ。完全なまでに日本人だ。
ふとアイリスと初めて会った時、自分を“純ジャパ”と呼称したことを思いだす。その言葉は前々から知っていたが、自己を形容するために実際に使ったのはその時が初めてだった。だがこの言葉は影のごとく彼女を追跡する。
元々知っていた意味は“帰国子女ではない”というものだ。ゆえに“帰国子女ではないのに英語がペラペラ”という内容を“純ジャパなのに英語がペラペラ”と言い換えることが可能だ。稲子に関しては、語学力を称えるという文脈で“純ジャパなのに英語もフランス語もペラペラ”という表現を友人たちが使うことがあった。当初はこの語をそういった意義のもと理解していたが、その後、より本質的な“純粋な日本人”という意味で使われることがあるのを稲子は発見した。
「稲子って純ジャパだけど、英国モードもすごい似合うよね」
 1人の友人がこう言ったのを稲子は覚えている。他の友人は「純ジャパで“しかも”」という言葉を使い、同じ風に稲子を誉めた。前者は“純粋な日本人”という意味で使われる一方、後者は、その友人の説明に準拠するなら、上記の意が更に発展した形の“大和撫子”という意味で使われていた。つまり“大和撫子でありながら、更に英国モードまでも似合う”という認識を表現するために、彼女はこの言葉を使用したのだ。
短期間に使用法のここまで著しい相違を耳にし、“純ジャパ”という言葉に興味を抱いた。そしてアイリスの前で、自己を形容する語彙として“純ジャパ”を使った。その時、彼女はどういう顔をしていたか、これを思い出したくなった。稲子が陥っている状況を何も知らないで「その黒髪、羨ましいよ」と言う、その少し前のアイリスの表情を。
 でも、稲子は目を固く閉じる、わたしが本当に、本当に欲しいのはあなたの赤毛なのに。あの綺麗な目に、あのかわいいそばかすに、あの夕日みたいに輝いてる赤毛なのに。わたしには絶対に手に入らないその赤毛なのに、なんで、そんなこと言うんですか?

「ははは」
 突然、そんな笑い声が聞こえてきて、稲子は我に帰る。目前でアイリスが無邪気な笑顔を浮かべていた。マスクを着けていない、あの写真に写っている愛くるしい唇が自分の瞳に晒されている。様々な感情に襲われながら、まず何よりも嬉しかった。
「この赤毛だって、別に憧れの対象になるもんじゃないよ。毛並みがすごく弱々しくて、ケアも大変なんだからね」
 アイリスは自身の毛を右の親指と中指で掴み、静かに撫でる。
「このせいで色々、まあ差別っていうか、いやな目にも遭ったし」
 彼女は唇をすぼめて、息を吐き散らかす。
「典型的な“ハーフ”の人生だよ。白人みたいな面で日本人の集団に投げ込まれたら当然そうなる。昔“異人さん”なんて言葉あったけどさ、それだよ、わたしみたいな存在は同じ人として扱われないんだよ。赤毛を馬鹿にされて、高い鼻を馬鹿にされて、青い目を馬鹿にされて。屈辱以外の何物でもなかった。全部の根源は母親だね。母親は英国人、父さんは日本人だけどね。でもアイツを母親とは思ってないよ、実際。男遊びにかまけて、わたしを完全に捨て去って、今はもう消息すら知らない。育てたのは父さんと祖母。父さんはわたしを育てるために必死に働いてくれたから、実際に“育てた”のは祖母だけど、アイツもクソだったね。毎日、お風呂場で赤毛をミチミチ引っ張られたの覚えてるよ、呪いかけられるみたいに悪口も言われた。内容は思い出したくもないけど、その合間にブチブチって毛が抜けまくる音は今でも思い出すね。それ聞いてると、わたしはあのクソアマの腹から生まれたんだなって厭でも味わう羽目になった」
 アイリスはコーヒーを飲む。ほのかに赤らんだ首筋が微かに蠢く。
「学校でもクソ虐められたよ。わたし、日本生まれ日本育ちで日本語も全然完璧に喋れんのに、みんなカタコトで嗤ってくんだよ。教師とかがいくら注意しても裏で馬鹿にしてくる。あと、机に赤い絵の具とかブチ撒けられることもたくさんあった。何か、ホラー映画でお腹ブッ刺されて、血とか腸とかめっちゃ出てきて地面真っ赤みたいな場面あるでしょ、本当そういう感じになってた。図画工作の成績が酷くて、今でも絵心ないのそのせいかもね、はは。あと、あれだよ、地毛証明書とかさ、提出しろって圧力かけられたよね。黒以外の色の髪は何か、非国民みたいな感じで扱われた。自分では意地でも出そうとしなかったけど、父さんがこういうの知って、謝罪しながら抱きしめてくれた時に、もう何もかもがいやになったな。わたしの人生、一体何なんだろうって」
 アイリスは目を細めながら、稲子の黒髪を見てくる。少なくとも稲子にはそう感じた。
「何か衝動的に自殺しようと思って、でも最後に渋谷行ってみたいなあって思って電車乗って行ったよ。いや、住んでるとこは東京に近かったけど、でも埼玉から東京へ、境界みたいなのを越えるって、すごい一大事に思えて勇気なかったんだよ、今振り返ると下らないかもだけど。それでも勇気だして渋谷に行ってみて、ビル群とか人混みとか眩暈を起こすくらいだったな。物理的に圧迫感もあったけど、それ以上に空気の粒子1粒1粒にさ、圧倒されたんだよ。独りで渋谷に立ってて、すごい経験だった。それから、運が良かったよ、わたしは」
 彼女は首筋を掻く、白アスパラガスのような指で。
「スカウト、まあ、スカウトされて。写真撮って、なし崩しにモデルになって、わたしの外見への評価が何か、真逆になったんだよ。編集の人とかカメラマンの人とか、わたしのことめっちゃ誉めてくれたね。瞳も、鼻も、肌も、赤毛も。運が良かったんだよね。もう自殺考えてたのは何だったんだっていう。これで同級生の態度も露骨に変わったよね。この白人のナリを逆に羨ましがってくるんだよ、今までは自分たちとは違うからって差別して、いじめてきたのに。今度は自分たちとは違うから美しいってさ。現金なクソども、現金なクソども」
 その言葉を2回繰り返してから、アイリスは晴れやかに笑う。
 アイリスは過去を語るなかで軽薄を装おうとしながら、その奥底にある激烈な憎しみを隠しきれていないと、稲子は思った。今は、ただ俯くしかできなかった。“現金なクソども”という言葉の射程には明らかに稲子自身も含まれている。問いただすなら“あなたは別だよ”と軽くいなされるだろう、もしくは冗談を披露する風に“もちろんあなたも現金なクソアマだよ”と笑うだろう。だからこそアイリスの顔を見ることができない。
一方で、彼女によりいっそう魅入られていた。この憎しみを踏み台として、誰にも頼ることなく己の足を以て、己の美を以て生きていく果てに今、アイリスはPrimaveraひいてはモデル界でも際立った存在感を誇っていた。態度を露骨に表明することはないが、密やかに彼女へ心臓をも捧げたいと思っている若い女性は少なくない筈だ、稲子をも含めて。
 翻って自分はどうかを考えるなら、暗澹とした気分になる。アイリスのスタイルに惚れこみ、そのスタイルを模倣し始めた頃は、ただシンプルに自分もあんな風にお洒落になりたいという一心で進んでいた。男性や彼らに“モテる”ということなど考えたこともなく、自分は自立した人間だと信じていた。
野牧と出会い、その幻想は脆くも崩れ去った。あの暴力から、あの優しさから逃れられない。その理由が自分でも分からずに、途方に暮れる。身体に痛烈な一撃を喰らうたびに、心がひび割れていく。まだ大丈夫、まだ大丈夫だ、そう自分に言い聞かせる。しかしこんな状態がいつまで続くのか考えると恐ろしくなる。アイリスの強さが眩しい。「恋人は要らない、セフレで十分」とあっけらかんと言ってしまえる強さが欲しい。自分はもうこの泥沼に呑みこまれもう逃げることはできないと、そう思った。
稲子は泣き始めた。止められなかった。鼻水が唇に入ってきて、塩辛い。驚きながらも、アイリスが彼女を抱きしめる。稲子は抱きしめられる、だが本心を何も言えなかった。

 家に帰ると、母のひろ美と一緒に野牧が料理をしていた。彼と母親は初めて会った時から妙に気が合っていた。時々、稲子の家にやってきては、ひろ美の実の息子といった面をして、空間そのものに馴染んでいる。その自然さに稲子の知覚すらも騙されそうになるが、誘惑に屈しそうになる瞬間我に返り、文字通り頭を振り乱して虚妄を振り払う。
「わたしも調味料の分量適当に入れるけど、それにしてもあなたは多くいれすぎだからね」
「いや、ぼくは味が濃い方が好きでついつい。そういえば前にハチミツを炒めた肉に入れまくった挙げ句、めっちゃ甘くなりすぎたこともありましたね。稲子と一緒に作ったんだよな、確か。そうだよね?」
 稲子は「うん」とだけ言う。
 3人は夕食をともにする。そこに稲子の父親はいない、いつものことだ。
「やっぱひろ美さんのご飯は美味しい」
「そう言ってもらうと嬉しい。うちの家族はもう全部当然と思って、感謝の言葉すらないから。野牧くんが来るたび、気合い入っちゃうわ」
 ひろ美は力こぶを作るような素振りをし、野牧が馬鹿に大袈裟な笑いを響かせる。稲子はただそれを見ている。
「いやもう、あなたが稲子の恋人だなんていつになっても信じられない」
 ひろ美がそう言った。
「野牧くんって本当……わたしが昔、読んでた少女漫画に出てくる男の子たちそっくり。大きな瞳に、艶やかな髪に、それに“白皙”ね。この意味分かる?」
「いや、分かりませんね」
「難しい漢字なんだけどね、息を飲むほど美しい白い肌っていう意味よ。わたしなんか難しい漢字の熟語なんか全然知らないけど、この“白皙”って言葉はずっとね、あの少女漫画の男の子たちのイメージと一緒にずっと覚えてるの」
 ひろ美は遠い目をする。不愉快な光景だった。
 夜、服を脱ぎ、ベッドに横たわる。
 羽で紙に文字でも描きだすように、野牧はそのほそやかな左の指先で頬を優しく撫でる。月光に祝福されるような気分だった。
「白皙だってさ、俺の皮膚」
彼は手の全体で唇の全てを覆い、稲子の顔を握りしめる。右の手が拳を形作り、剥き出しの腹部にゆっくりと置かれる。野牧は稲子の耳に囁きかけて、言葉と息によって細胞を愛撫する。
ゆっくりと拳を宙に浮かべていき彼は、雷撃さながら打ちおろす。
衝撃で身体が光の屈折さながら折り曲がり、いつものように呼吸が困難になる一方、ぶごお、ぶぼごぼお、という音が他ならぬ自分の口許で響いてくるのに気づいた。
 意識だけは不思議と痛みと苦痛から隔たり、至極冷静に肉体の挙動と環境への作用を観察している。視界の暴力的なぼやけ、ベッドの軋み、足指の痙攣、膝の裏側に浮かぶ汗、青みを増していく月光、膨張と縮小を繰り返す胸郭。
 野牧は稲子の唇を肉体ごと押さえたまま、ぺニスを擦りつづけ、最終的に彼女の腹部に射精する。熱い粘液が痛みへと染みこんでいき、彼女を腐らせていく。

 アイリスに誘われ、学生映画祭というものに初めて参加することになる。
ある喫茶店を貸し切りにして、その小さな空間にすら、満杯にならない程度の客を招いて、大学生が製作した映画を上映するという催しだ。そんな少数の会場に招いてもらっていいのか恐縮しながら、友人の作品が上映されるらしいアイリスに何度も誘われて、赴くことになる。
東急東横線の祐天寺駅で降りて、改札にまで行くと、いつものように赤毛を輝かせながら、アイリスがこちらへ手を振っている。
「ここ、降りるの初めてです」
「結構いい場所だよ。建物がギチギチに詰まってて窮屈ではあるけど、だからこそ多様っていうか何というか。まあわたしたちの町とは真逆の場所だよ」
 歩いている途中に“昔ながら”という言葉が似合う肉屋があり、アイリスはそこで大きなコロッケを2つ買って、稲子に渡す。食べてみると熱いじゃがいもと衣が、舌のうえで軽快に転がっていく感触が楽しい。美味しかった。
 カフェはWebサイトの写真の印象よりは大きく見えたが、それでも相当こじんまりとしている。手首で体温を測り、手を消毒して、2人で隣合わせで席に座る。最初は受付の人以外は誰もいなかったが、時間が近づくにつれ少しずつ客が増えていく。その中にはアイリスの友人もおり、そちらを向いてしばらくお喋りを繰り広げる。
稲子は独りになって、最近買ったドゥニ・カンプシュネルの『デカルトはそんなこと言ってない』というデカルト哲学の入門書を読み始めるが、内容は入ってこない。ここに来たことを既に少し後悔している、自分は完全な部外者のように思えたからだ。
 数分後に受付の女性が前口上を行った後に、映画の上映が始まる。映画を観る際にはなるべく期待などの余計なものは排除したい(ミア・ハンセン=ラブの近作を観てつとにそう思うようになった)ので、情報は“数本の短編が上映”ということ以外は知らない。
まず最初の作品は、量子力学の中でもインフレーション効果に着目しながら、難解さを極力避けたようなSFコメディだったが、セリフの練りが甘く乗り切れない。2作目は、2020年代にもなってブレヒトの異化効果のようなものを盲信しているような前衛演劇的作品であり、気楽なものだと呆れるしかない。3作目の時に、アイリスが「友達のやつだよ」と耳打ちしてくれた。内容は平凡な青春ものと言えたが、言葉に頼らずに映像で語るという基本的な語りをしっかりと積み重ねる作品で悪くはなかった、良くもないが。
 そして4作目が上映される。まず主人公の顔のクロースアップから始まるが、驚いたのは顔の主があのアプリヤニ・ラハユだったからだ。浅黒い肌と、田舎臭い顔面のパーツは間違いないと稲子は吐き気のような確信を得る。
主人公は日本とインドネシアのミックスである大学生であり、留学のため東京へと移住してくる。今まで日本へは毎年の旅行で数日滞在する程度であり、実際に住むのは初めてらしい。これは自分のルーツをめぐる旅でもあったが、日本人とは違う見た目やたどたどしい日本語が、主人公が日本社会へ深く入っていくのを邪魔する。そんな中で彼女は、日本とインドネシアのミックスながら、逆に日本に住んでいる大学生と出会い、恋に落ちていく。
 演出はリアリズム寄りで、細かくカットを割らない、ゆったりとした長回し演出が特徴的だったが、その余裕ある眼差しによって俳優陣の演技が繊細に捉えられ、特に主人公2人の感情が豊かに立ちあがっていく。基本的なスタンスは映像で語るというものだが、時おり何気ない言葉がふと響き、映像の質感が響きの前と後で変わるような驚くべき瞬間がある。明らかに学生離れした演出力があり、思わず見入ってしまう。
だが不愉快だ。アプリヤニがかなり微妙な立場にある人物を、巧みに演じれば演じるほど頭に血がのぼる。特に日本語を喋る場面には虫酸が走る。その設定上、彼女の日本語はかなりたどたどしいが、実際に大学で聞いた彼女の日本語はすこぶる流暢で、わざと下手くそなインドネシア訛りで喋っているのが伺える。だが真に不愉快なのはその根本として“純インドネシア人が日本とインドネシアのミックスを演じている”という事実だった。相手役はどうか知らないが、少なくともアプリヤニが実際に日本とのミックスであるかは聞いたことがない。なのに日本人の血が入っているというフリをしているのが死ぬほど不愉快だった。
 映画を鑑賞している間、アプリヤニの顔に、小学校の頃のあの虐められていた少女の顔がダブる。見れば見るほど、もしアプリヤニがスカーフを剥いだならもはや同じだという思いが強まる。だが何か違和感があり、それがまち針のように脳髄を突き刺すなか、突然気づく。インドはヒンドゥー教の国で、インドネシアはイスラム教の国だということだ。何となく同じ類の人種かと思っていたが、似ているのは国の名前だけで宗教も違うではないか。頭のなかで相当に下らない間違えを犯していたことを悟り、稲子は心のなかで思わず笑った。
 そしてスクリーンにある本の表紙が映る。擦りきれた文庫本には間違いなく“佐多稲子”と書かれていた。間抜けさながら笑っていた口に拳を捻り入れられ、その勢いのまま後頭部を地面へと叩きつけられる、そんな未曾有の衝撃を受けた。心臓が爆裂を繰り返し、そのまま全身の血管も破裂するのではと思える。高校の頃に見たあの名前が、彼女の許に恐るべき吐き気とともに戻ってきた。稲子、稲子、稲子。
彼女は助けを求めるように横を見る。そこではアイリスが泣いていた。スクリーンからやってくる光に照らされながら泣いていた。瞳から涙が溢れるのを、稲子は確かに目の当たりにした。
もはや逃げ場はなかった。
 上映後、アイリスと二言三言だけ話すと、そそくさと家路に着く。背中から汗が吹きだして、服を不快に濡らしていく感覚が今の稲子にとってリアルだ。アプリヤニという人間への憎しみだけがリアルだ。
電車が地下を抜けだして、ゴキブリの群れのような闇に包まれた夜が現れる。橋を渡る際には、不穏な轟音がいつだって車内に鳴り響くが、それによって稲子の鼓膜が踏みにじられる。どうすればいいのかもうわからない。
電車を降りて、走ってコンビニへ行く。酒を飲んで酔う、安易だがこれが最善の策のように思えた。だが自分がいつもいる休憩所に、見知った影が座っている。勝田仰木という、あの気味の悪い男だ。今日はそこまで寒くないのに、重たいダウンを着込んでカップラーメンを啜っていた。厭なのに、目が離せない。そして仰木の方が稲子を見た。黒い甲冑の奥の淀んだ視線、肺を貫かれて毒に満たされる。
「何見てんだよ、アンタ」
 仰木の声はヌラヌラして、鼓膜や耳の肉壁を舐められるような気分になった。仰木がこちらにやってくるのに、逃げることができない。彼の膨張する菌のような存在感が、自分に迫ってくる。
「アンタ、よくアイリスと一緒にいるよな」
 仰木がそう吐き捨てる。
「何か幻想だか憧れだか抱いているかもしれないが、あいつはクソ女だよ、ズルい人間だ。白人がきらいだ、欧米の文化はクソだなんだってベラベラ喋ってるが、アイツこそその恩恵を得て金稼いでるんだよ。日本人の白人コンプレックス利用して、有名になってやがる。アンタみたいな日本人を搾取してんだよ、仲間みたいなフリして実際頂点にいるのは、いつもアイツなんだ。気づけよ、それくらい。お前、馬鹿か?」
 彼の瞳には純粋な軽蔑だけがある。
「あさっての午後4時くらいに駅に来いよ。最近できたフィッシュ&チップスの店のあたりだ」
 そう言って仰木はファミリーマートを出ていく。ラーメンの容器はゴミ箱でなく、テーブルにそのまま乗っかっている。

 部屋のなか、稲子の手元には1冊の文庫本がある。
 淀んだ呼気を静かにブチ撒けながら、彼女は表紙を見ている。
そこには『灰色の午後』という題名と、その作者である佐多稲子の名が並んでいる。この本は、大学図書館にあった。当然のように存在していた。心臓の動悸とともに本を掴み、そのまま借りていた。
 これが映画に一瞬だけ映ったのと同じ種類のものだというのは間違いない。もしかするなら、アプリヤニか監督が実際にこの本を借りて、作品に登場させたという可能性すら存在する。稲子はつぶさに本を観察する。
かなり年期の入った文庫本で、全体が錆のような茶の色彩に侵食されている。“灰色の”という言葉が大いなる皮肉に思えた。だがそれは多くの大学生に読まれてきた証拠でもあるのだろう。佐多稲子という作家がそこまで有名な人間だというのを、真の意味で実感せざるを得ない。虫酸が走る。
 裏のあらすじはこのようなものだ。
 “何と云われようと、知らないことは知らないんだから、僕はそう云うしかないんですよ」とあくまで居直る惣吉。突然に出現した女の存在に崩解し出した作家夫婦の危機。反動化し戦争に向う因難な時代に、共に立ち向うはずの折江の夫が、逆に女で家を出ようとする。取り乱し、媚び、たじろぐ女としての自己の崩れを見据る作家佐多稲子の文学世界の最高の達成点”
 女、女、女。そんな文章に深く苛立つ。
 その感情をくべるべき薪として、一気呵成この本を読もうと思う。そこで初めて自分の指が震えているのに気づいた。まるで指を構成する極細の粒子群が揺らいでいるようで、存在そのものが震えている根本的な戦慄を抱く。躊躇いという言葉はぬるすぎる。
 稲子はリビングへ行く。そこではひろ美が、録画していたらしいバラエティ番組を見ている。今回のテーマは最先端の遺伝子技術だ。そこでCrisprという技術が紹介される。今までにも遺伝子操作の技術は存在していた。例えば食品にも使われる遺伝子組み換え、だがこの技術は特定の遺伝子だけを操作することができず、驚くほど大雑把な組み換えだけが可能だった。それに対してCrisprは思い通りの遺伝子を組み換えていくことが可能となるそうだ。例えば筋ジストロフィーを患った犬の遺伝子を変え、その疾患を治すこともできる。治療後、減少した筋力は元通りになり、犬はまた外を思うままに走ることができるようになったのだという。そして受精卵などの生殖細胞の段階で遺伝子を組み換えることができたなら、遺伝的な疾患をも克服することが可能と、解説者は説明する。
「そういうこと出来んなら、俺のまな板みたいな鼻も遺伝子操作でアメリカ人みたいに高くできるんすか!?」
 1人のお笑い芸人が大声でそう問いかけ、場は爆笑に包まれる。
 稲子は、だが笑わずにテレビ画面を見据えていた。もしかするならCrisprで自分が持っているこの黒い剛毛も、全く異なるものになる時が来るかもしれない。染めるでもなく、ウィッグを被るでもなく、地毛自体があのサラサラした、美しい赤毛になるかもしれない。
 とはいえもう既にここまで発達した毛髪を根本から変貌させるというのは現実味がないと稲子も分かっている。それでも将来自分が産むかもしれない子供について考える。そんな存在から自分や母親に刻まれた忌まわしい黒髪の遺伝子を除去し、赤毛の遺伝子を組みこむことが、もしできるとしたら。
 何で、稲子って名前つけたの?
 突然、いつだか抱いた問いが頭に浮かび、気圧される。稲子の瞳は自然と横にいるひろ美に注がれていく。流棘鉄線さながらの酷薄で硬直した黒髪、だが彼女はそれを一切苦にせずのほほんとテレビを観ている。
 そして稲子はこの問いすらひろ美に、自分の母親に言えなかった。
 居たたまれなくなり、部屋に逃げる。
枕に顔を埋めながら、もはや涙すら出ない。

 午後4時、躊躇いはあったが稲子は駅へと向かう。
悪趣味な黄色が建築全体を包みこむようなチェーンの美容室、ただだだっ広いだけでほとんど車の存在がない駐車場、肉バルやダーツ場が入った小さなビル、入り口が地獄の釜が開いた風な様相を呈する地下駐輪場、稲子が生まれる前から存在する古びたクリーニング店。
様々な建築が浮かんでは消えた後に、あのフィッシュ&チップス店が現れる。
真っ先に見えるテラス席、そこに座るアイリスの後ろ姿、風に揺れる赤毛が稲子の心臓をざわつかせる。その奥にいる仰木が稲子を確認すると、立ちあがる。しばらく視界から消えていたかと思うと、2人は向こう側へと歩いていく。仰木が少し振り向いて、ついてこいと瞳の色で促すようだった。
十分に距離は取っているのに、息を殺しながら2人を追跡する。
腹部が痛んでくる、内部から肉が腐っていくような痛みだ。お腹を擦りながら、なおも追跡を続けていくが、そうして辿り着いたのは公園だった。スーパーマーケットの隣、幼稚園児たちが帰ってくる際にここで遊んでおり、その傍らで母親たちが会話に耽る姿をよく見かける。
マーケットに一番近い入り口、その付近に東屋があり、読書したり休憩したりする人々が時々いるが、その横には小さな公衆トイレがある。人気を気にしながら、アイリスと仰木はその中へ入っていた。
 夕暮れ、世界が少しずつ昏くなっていく頃、その濃橙に公衆トイレが不気味に際立つ。
白い漆喰は何十年もの歳月のなかで黄ばんでいき、質感自体が朽ちていきながら、物体として異様な存在感を誇っている。質素ながら剛健な要塞を小さく凝縮したような、厳かな雰囲気を常に湛えている。それを満たすのはすえた闇だ。入り口には昼夜を問わず消毒液と糞の狭間な奇妙な匂いを持った闇が蟠り、瘴気さながらそこに在り続ける。
ここに入ったことなど一度たりともなかった。図書館かコンビニのトイレに行けば十分だからだ。入りたいと思うこともなかった。何故こんな陰気な建物がここにあるのか不思議でしょうがなかった。
 見間違えようもなく、アイリスと仰木はその中へ入っていた、まるで底無しの森へと入っていくように。生唾を飲みこみ、肉のうちをその粘液が這いずる感覚を味わう。しばらく外で眺めているしかなかった。
体が動かなかった。
遠くから選挙カーのがなりたてるような声が聞こえてくる。
 それでも行くしかなかった。
 入るしかなかった。理屈でなくそんな状況に心が追いこまれていた。
 ゆっくり、ゆっくり、自分の歩幅を確認するように稲子は建物へ入っていく。不快な匂いが空間に満ち、そのせいで壁も床も鏡も何かもが腐食していっているように思える。だが稲子はそれを見るより、音を聞いていた。
 布が擦れる音、息遣い、無数の砂利の耳障りな触れあい、息遣い、息遣い、息遣い、息遣い。
 そしてある個室の壁がドンと騒音を立てた途端、ぬめった喘ぎ声が聞こえ始める。アイリスの声だった。音量は抑えながら、聞いたこともないほど媚びるような響きをしている。中で何かぶつぶつと喋る合間に、愉しげに喘いでいた。そして肉と肉がうちつけあう音がどんどん大きくなるなかで、ある1つの音が響き始めた。
 ぶごぼぼぼ、ぶぉぉおおお。
 最初、何の音か分からなかった。それが途切れるとともに、飛沫が弾けるような音、そして激しく呼吸をする音。
「もっと、もっとやって!」
 アイリスの叫び、そしてまたあの音が響く。
 ぼごごご、ぶぼぞぉおぶぼぼ。
 稲子は逃げた。走ってトイレから出て、公園からも出て、しかしそこで転んだ。
足の痛み以上に吐き気が込みあげてきて、我慢できずに吐瀉物をブチまけた。
眩暈のなかで、そのまま吐瀉物へと稲子の頭が倒れこみ、沈んでいく。視界が曖昧になっていき、体も熱くなっていく。コロナだったらいいのにと、稲子は何となくそう思う。
意識が遠退いていき、世界が完全に色を失う。

 誰かが誰かを苛めている。
消しゴムのカスや石を投げている。
そして自分も一緒になってペットボトルの水を誰かにブチ撒けているのに、稲子は気づいた。顔の辺りがグワグワと動いているような感触もあり、最初は何故だか分からないが、そのうち変顔をして誰かを馬鹿にしているんだと悟る。
ああ、こうやって自分もあのインドの子のこと苛めてたんだな。そう他人事のように思いだした。
なのにそのうち虐められてる誰かでなく、自分と一緒に石を投げている子供が、そのインド人の少女だと分かった。ぼんやりした視界にあの浅黒さが水彩さながら現れる。だがもしかするとインドネシアの子かもしれないとも思えた。どっちでも良かった。
じゃあ、あの子誰かな。
そう思うとまた新しい色彩が視界に現れる。赤くて綺麗だった。
誰かはすぐに分かった。
なので稲子は前に進んで、その誰かの傍らに立つと、彼女の腹部を凄まじい勢いで蹴り飛ばす。

 目覚めると、見知らぬ天井が見えたと思うが、すぐにそれが野牧の部屋の天井だと分かる。ひまわりの花に似た幾何学模様が二重の円に囲まれているような柄は、忘れ難い。
「ああ、起きた? 心配したんだよ、もう」
 横からそう野牧が声をかけてくれる。涙声だった。何故自分がここにいるか、全く定かではないのに、心は安堵していた。
「稲子のためにスープ作ったんだ。飲んで。体あったまると思う」
 ベッドから少し身を起こして、器を受けとる。
透明のスープの中には、たくさんのとうろもろこしと椎茸が入っている。
「レシピ見ながら作ったよ。今度は分量キチンと守ったから、少なくとも不味くはないと思う」
 そう言って野牧は薄く笑う。
 試しに少しだけ飲んでみた。控えめな塩味のスープに、こしょうや胡麻油の風味がほんのり漂ってくる。それらが熱に絡まりあいながら、稲子の心をそっと撫でていく。今度はとうもろこしや椎茸も口にしてみる。とうもろこしの粒には水分を含んでもシャキシャキした食感が残り、椎茸は逆に水分を吸ったことでボリュームある感触が味わえる。2つの歯触り舌触りは真逆ながら、それらが寄りそいあうことによってこそ豊穣さが生まれる。美味しかった。勢いよくスープを飲もうとすると、口から少し溢れてしまうのだが、野牧が笑いながらティッシュで滴を拭いてくれる。彼に見守られながら、すぐにスープを飲み干してしまった。
「どうだった?」
 野牧がそう尋ねる。
「すごく美味しかったよ」
 そう言うと、彼は嬉しげに稲子の頬を撫でてくる。
少しだけ冷たくて、気持ちがいい。
そして短い親指で唇を撫でられた後、それが口のなかへと入っていくのを感じた。その先で自分の舌をかすかに撫でられる。
とても幸せだった。
そして稲子は、野牧の親指をそのまま噛み砕く。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。