見出し画像

noteやっぱり、おもしろい…

本を出版したことある方はわかると思うのですが、出版された本にはどうしたって編集者の介入があり、出版社の売り上げというものがあり、マーケティングというフィルターがかかっている。

売れるため。

より多くの購買層にウケるため。

話題になるため。

時代の潮流を読んで。

そんなものに、作者のほとばしる「書きたい」が削られたものが出来上がる。

それを商業の世界では「完成度」と呼ぶのだろうけれど、私たちが求めている「完成度」とそれは、本当にマッチしているのだろうか?

久しぶりにあちこちいろんな方のnoteを読んでいて、ふとそんなことを考えました。



実はしばらく、noteの更新が出来なくなっていたんです。

書こうかなと思うことがあっても、下書き書きかけて夜になって頭の中で推敲を始めると、激しく全消去したくなる衝動が襲ってくる。

でもこの前、カウンセリングに行きまして。

そこで、「完璧なものを仕上げなければいけない、と自分に課してしまうのも心の傷ですよ」と言われました。

ああ、なるほど。

心と向き合うといういことは、心に気がつかないまま科せられた鎖を、一つ一つ見つけ、検め、外していく作業。

完璧でなければいけないというロックを外したら、書きたいことがゆっくりふつふつ、浮かんでくるようになりました。

画像2

調子が出てきたついでに、久しぶりに開いたnoteの中身を整理しようと、どうしてフォローしたのか忘れてしまったような方のフォローを外して、本当に今の自分の興味に合う方だけをフォローした方がいいなと、整理を始めたのです。

今までフォローしてた方の記事を、久しぶりに読む。

そこから派生した、今まで気がつかなかった方のも、読んでみる。

そしたらやっぱり、面白いんですね。

本を読むのとは全く違う感覚。

個性が爆裂した世界。

こんな趣向を凝らしてるのか、という気づき。

まったりのんびりの私にはないバイタリティーで、複数の仕事をこなしている方の世界観は、明らかに私とは1分の密度が違う。

尊敬するけど、もし自分がこんな生活だったら自分はどう感じるのか。

充実感があり、反省点があり、達成感があり、でもその充足感を失いそうな焦燥感があったり。

書きたいことを書きたいままに。自由にわがままに。

今の自分の趣向に合った人の記事だけ、自分の好きなものだけで固めよう、と思ったのですが、自分の全く知らなかった世界がくれる刺激は半端ない。


画像1

ヨガには、「屍のポーズ」というのがあります。

シャバアーサナ。

頑張ったあとはこれで最後にクールダウンして終える。

なに、ただ寝てるだけじゃん、と思った方。

「死体のポーズ」 とかではなく、「屍」という言い方に、このポーズの本気を感じてください。


暗い部屋でじっと、自分の鼓動に耳をすませ、自分の中心を感じる静寂の時間。

このポーズをするたびに、人って、頑張る時間も必要だけれど、何も考えずいったん屍になって空っぽになる、そんな時間も人生の中には必要なんだな、と思います。

何かをした時間や、しゃかりきに頑張った時間にだけフォーカスしない。

そんな自分だけを評価しない。

何もしなかった自分。そんな時間をとる勇気を持った、あるいは余裕を持てた自分。

その時間にも充足を覚えるという贅沢。

画像4


考えてみれば、逆上がりが急に出来るようになったあの日も、

自転車に乗れるようになったあの日も、

あったのは、とにかく頑張って頑張って頑張った、神様に提出するための重たく分厚い努力証明書の束とかではなくて、

その向こうに、パッと広がる、

ふと、あれ、なんか自分できそうかも?今日、なんかいけるかも?

という瞬間の閃き。

頑張らなかったらあの瞬間は確かにやってこなかったのかもしれない。

だけど、努力したら全ての人におとずれるわけでもないあの瞬間、あれ?私、できるかも?という瞬間を、私たちはずっと追い求めている。

それが次の、自分って自分が思っていたほど、悪くないじゃない、というシフトにつながっていくと思うのです。


全回復!とは程遠いけれど、少しだけ風を感じた瞬間。

note、ありがと。

画像3

ニャンコのシャバアーサナ。

可愛すぎる💕

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?