JacLou_DLによるPixabayからの画像_

Mission3 : その手を握りかえせ!


新しい友達ができる。
幸せな言葉ですね。
子供の頃には簡単なことだった気がするのに、大人になり失敗を重ねると、どんどんこれが怖くなります。


数年前に、人間関係のトラブルを経験しました。
あれよあれよと事態は悪化し、オセロをひっくり返すように周囲の人間が変わっていくのを絶望的な気持ちで見ていました。
相手を責めたい気持ちはあるのに、周囲から、突き刺さるほどの真っ白な視線が降ってくる。
”ああ、コイツ、ダメなやつだ。”
深夜の地下鉄の駅に吐瀉された汚物を避けるように、人が私を避けていきます。
これが身体の中に沁み積もっていくと、内側から心は簡単に蝕まれます。

あれ、もしかして全部、私が悪いんだろうか?

どうしたらここを抜けられるのか、ひたすら耐えるのが正解なのか、それとも悲鳴をあげればいいのか。
今、この人の目を見ても許されるだろうか?
言葉を発しても迷惑にならないだろうか?
私、この社会に、この地球に、存在していて大丈夫なんだろうか?
前に一歩 歩くのも、息をするのも怖くなります。

それならもういっそ、友達を作らない、だれにも心を開かない、と決めてしまったほうがずっとスッキリします。
「ただいま一人の時間を満喫中です」と自分を納得させれば、だれからも脅かされないし、犯されないし、心の中は平和です。

DreamyArtによるPixabayからの画像


私は今、このnoteに、心理療法士の先生のところに通いながらメンタルケアにチャレンジしている経過を綴っています。
ずっと、一人で自分のメンタルと向き合ってきました。
もちろん書籍やネットを通じて色々な方の言葉に助けられましたが、心のあり様って言葉で説明するのは難しいのです。
その人が言ってることと、自分のこれが同じなのか、わからない。
そして何より、合っているのならどうして私は、「これでいいんだ」と楽になることができないのか。


世の中には、いろんな先生がいます。
私のように、自分の求める方向に行くためにどんなやり方が適しているのか、知識もない、何もわからないけどとにかくタスケテ、という人間は、前に進むために、直感に頼るしか術がありません。
何人かの先生のお書きになったものを読みました。
資格の多さに驚く方もいましたし、症例数の多さに圧倒される方もいます。
しかしその時私を動かしていたのは、何を基準に自分はその人を”先生”と呼ぶのかということでした。

その言葉は、どのくらいの水深に潜って拾ってきた言葉なのか。

何かの歌を聴いて、すんごい歌詞を書く人だな!と感動する時に似ているかもしれません。
クリエイトとは、本当に神聖で奇跡的な行為だと感じます。そこで創り手と受け手の間に生み出される共感は、人間にとって最大の癒しであり、救いです。
ああ、私はこの人の言葉になら癒される、という先生のブログにたどり着いた時、スッと一本筋が通ったような、どうしても譲れない直感が芽生えました。

Susanne Jutzeler, suju-fotoによるPixabayからの画像


私の選んだ先生は、自主性をとても尊重される方です。
私が階段の常に3段くらい先を歩いて、先生はゆっくりとその後ろを滑落しないようについてくる。
不安になって振り返ると、大丈夫、というようにゆっくり笑いかけてくれますが、もっと先に行け、もう一段登ってみろ、とは決していいません。
実は、最初にセッションに行った時には、メンタルケアをするためには時間もかかるし、何度も先生のところに通わなくてはいけないということすら、教えてもらえませんでした。
もし本人が必要だとわかれば、何も伝えずとも必ず、もう一度自分で訊ねて来るはずだと知っているからです。
流石にそこは教えてよ〜、と、正直思いましたが、それを教えてもらったのは二度目に先生を訪ねた時でした。
「本当に必要ならもう一度自分でくるはず」は事実だったと自分で体現してしまったわけです。


もう一度、差し伸べられた誰かの手を握りかえす、というのはとても勇気のいる行為です。
それでも連絡して、会いに行って、セッションを受けてみる。
そこには、どうしてもかき消すことの出来ない、こんな自分でもやっぱり誰かとつながりたい、という気持ち、こんな自分でもまだ自分を諦めたくない、という切実な思いがあります。
昔、どこかでこんな話を聞いたことがあります。
ある村はずれの木の上に、男が一人、住んでいました。
男は村人と関わろうとしない変わり者で、いつも村とは距離を置いて一人で生活していました。
ところがある日、とある事情で村人はその土地に住めなくなってしまいます。村は一大決心をし、村ごと別の土地に移住することになったのですが、集落が大移動を終えふと、あの変わり者の男はどうなったのかと見てみますと、なんと新しい土地の村はずれの木の上に、男も無事に引越しを終えていましたという話。。。
自分を完全に諦める、誰かとつながるのを完全に諦める、というのはとても難しいことなのでしょう。

Frauke RietherによるPixabayからの画像


先日、久しぶりに優しく手を差し伸べてくれた友人の一人に、ちょびっと心を開いてしまいました。
完璧ではない、自分の薄汚い本音を話す。
まだ、錆びついて動かなくなった窓を、そーっと開けた、ぐらいの開き具合です。
でも、大きな一歩だし、大きなチャレンジです。
これは、noteを始めた影響かもしれない、と感じています。

「一人で抱え込まなくていいよ」
その人が私にかけてくれた言葉です。
ぽーんと何かが心の中に心地よく放り込まれていって、一番奥でかすかに跳ねかえる。
その音を、私はじっと聞いています。

もう一度信じてみようか。でもこの人も豹変してしまうのかも。

正直、怖いです。でも今なら、前より少しだけ、わかっていることがあります。
昔は、ともだちを作るという行為を、自分にぴったりの人間を探し出すことだと誤解していました。
しかし、人と関わることの本質は、 隣を歩いている相手を見極めて「ダメだ、コイツ」という人間に関わらないように気をつけることではないと思うのです。
なぜなら、「ダメだ、コイツ」にカテゴライズされない人間なんて、この世に存在してないから。
もちろん、私を含めて。


差し出されたその手を握りかえす。
大切なことは、私が相手にとって、自立した、本当の私であること。
ひとを信用するというのはきっと、誰かとうまくやっていかれる自分を信じることです。

ということで、misson3はおしまいといたします。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

またお会いしましょう。

grenleeed



Inspired by


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?