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行うべきは「人生会議」より日常会話。まずはこれを大切にしたい

2/7 タイトルを少し変え、追記をしました

タイトルが結論ですので、これ以上書くことはあまりなさそうです。ちなみにこの note の元ネタとなった新聞の記事はこちらになります

この中で注目したいのは、以下の二つの回答です

・同居、別居を問わず月数回以上、直接の会話や電話、メールなどで親と連絡を取っている人は71・5%に上った
・話し合ったことがある人にタイミングを尋ねると(複数回答)、「日常会話の中で」が半数を占め「家族・親族が亡くなった時」も多かった
(記事本文より)

つまり、月に複数回は親とは会話をしているけれど。日常会話という形で行っているかというと、実はそうでもない

少々間をすっ飛ばしての推測ですが、そんなことなのかな?と感じました。つまり電話やメールで話をしているのは用件とその伝達のみ。中身として日常会話になっていないっぽいよね、ということです

みなさん、自分のことを思い出してみてどうですか。用件以外の会話をしていますか?実は出来ていなかったりしませんか

高齢の親と良く会話をしていると、誰それさんが病気になった。近所の○○さんが亡くなった、という話が結構あります。当然ですね、これだけの高齢、多死社会なのですから。人生会議的には、そうした会話は老親の将来を一緒に考えていく上で大きなチャンスなんですね。で、自分だったらどうして欲しい?、そういうことが起きた時に。なにか備えはあるの?。そういう時に僕ら(子ども)にはどうして欲しい?とさりげなく会話の流れで訊ねることが出来ます

わたしもこの手は活用しています

その時に聞けること、知ることの出来る情報はほんのちょっとかもしれません。でもそのちょっとしたことの積み重ねが、ゆくゆく、人生会議の情報として役立っていくはずです。仮に本当に重要な情報は得られないとしても

そういえば前に、病気になったらこんなふうにして欲しいって言ってたよね?。それって具体的にぼくらには、こういうことをして欲しいっていうことなのかな…

という話に繋げていくことが出来ます。これを何の前情報も無しに

倒れたらどうすんの?
なにかあったらどうして欲しいの?
事前に言ってくんなきゃ分かんないよっ

なんて言い方になったら、聞く方も。話す方も身構えてしまいます。これでは、人生会議にならないと思うんですよね。だからこそ、日常会話の積み重ねってすごく大切だと思うんです

ただ正直言いますと、かくいうわたしもそんな満足いくように日常会話が出来ているわけではありません。まだまだ試行錯誤です。やっぱり、目の前の親がいなくなることを前提とした話なんて、とてもじゃないですが出来ないです

それでも、日常会話を増やす努力だけはしています。それぐらいなら、なんとか頑張れるし。続けていけるので

まずはそこからなのかなと、自分に言い聞かせています。。

2/7 追記

こちらとほぼ同じ内容を呟いたツィッターへいくつかリプ(返事やコメント)をいただきました。日常的に話が出来ている方から。聞いたはよいもののそれらをどう叶えるかも大変というお話まで、どれも考えさせられるものでした

わたしがその中でちょっと気になったのが、親子仲や家族間の関係が良くない場合のことです。わたしはそうした方にまで、日常会話が大切です。増やしましょうよと言うつもりはありません。ただいずれ迫る老親のこと、これって相続や家財の処分などにも影響をするのですよね…

こうしたケースをどうサポートしていくのか。行政や第三者の介入に拠った方がよいのかなど、課題があることを感じました

ただどんな関係性でも、話せるうちに出来るだけ話をしておく

が基本になるのだろうと思っています。そんな言うほど簡単ではありませんけどね。。

デス・カフェ@東京主催。ヒトやペットの区別をしない、死別・喪失のサポート、グリーフケアのお話をしています