人間らしく生きてはいけない(自信を高める方法・裏技?編)

「自信に満ち溢れた自分でありたい」
「いつでも自分らしく堂々としていたい」
「人の言葉や態度に振り回されるのはもう嫌だ」
「やたらと自信満々な人が苦手だ」
「不安ばかりの毎日を終わらせたい」
「限られた人生の時間を、自信を持って自由に幸せに生きていきたい」
 そう思う人は多い。多いというか、そういう人が実は大多数なのではないかとすら感じる。

 それなら、ということで「自信」「自信とは」などのワードで検索をかければ、自己啓発系のブログや記事はたくさんひっかかる。そこで言われている自信を高める方法というのは、だいたい似たりよったりだ。「まずは行動しましょう」「小さな成功を積み重ねましょう」「他人に流されない確固とした自分を確立しましょう」「自分を肯定してあげましょう」「自分を好きになりましょう」「友人や味方を増やしましょう」等々。

 そんなことを言われて、なるほどそうなのか、と納得してすぐさま実践できる人も少なからずいるのだろう。そしてそういう人にとって有益なものとなりそうな知恵は、もうすでに十分蓄積されているようだ。
 なので後発組である私はもう少し違った角度からこの記事を書いてみようかと思っている。


 こうすれば自信は高められますよというメソッドは、先述したとおりこの世にはふんだんにある。だが、そうしたものに触れたときに「そんなこと言われてもなぁ」「そういうことじゃないんだけどなぁ」と思ってしまう人はたぶん少なくない。

 そうした人はおそらく、自信を高めるということ自体を目的としている。彼ら彼女らが思い描いている自信に満ち溢れた自分というものは、例えるならばRPGにおけるレベルMAXの状態だ。だが本来、ゲーム内において自分を強化する理由とは何であるか。それは強大な敵に勝利するためだ。そしてハッピーエンドを迎えるためだ。
 だが自分の人生にはハッピーエンドなんてありえないのだと最初から確信している人もいる。そんな彼らや彼女たちが、レベル上げに勤しむ意欲を維持できるだろうか。その先にはなんの目的も理由もないのに。

 あらゆる意志も努力も幸運も知恵も実績も繋がりも無意味なもののように思わせてしまう、虚無的な思考、あるいは指向、そしてどんなときにも心の中に存在し続ける深い深い穴のような虚しい気持ちと自罰的な傾向。それらに取り憑かれている限り、明るい未来は見えてこない。


 頑張らなきゃいけない。
(でも頑張ったからといって何が変わるというんだ?)

 つらくても負けちゃいけない。とにかく進むんだ。
(けど進んでいった先に何がある? どうせ何もない。未来は塞がっている、ゴールはない、行き止まりが待ってるだけだ。急いでも急がなくても結末は同じ。ならどうしてこんな辛い道のりを歩き続けなきゃならないのか……)


 根本的な生きづらさ。「普通」との間に常に感じている隔絶感。劣等感。罪悪感。違和感。絶望的な距離感。孤独感。
 「人間として」足りない部分。「人間として」欠損した心の部位。
 そんな自分の「権利」について、「資格」について、いちいち考えずにはいられない。そしていつも最後には否定しないではいられない。誰が許してくれても関係ない。なぜなら自分はそもそも「人間」として間違っているのだから。

「お前は人間として間違っている」
 他人から言われるだけではなく自分自身でもそう繰り返す。その思考が極まれば行き着くところは自死だ。


 私はこう思う。
 だったら人間なんかやめてしまえばいい。


 自分を知るということは、欠けたり膨らんだりした歪な己のフォルムを自覚することだ。そこまではいい。
 しかしその「自分の形」を、「人間」と比べることはもうやめたほうがいい。意味がないから。
 私はそう言いたい。

 だいいち、「人間」とはなんだ。そんな、理想化と平均化の集大成みたいなデタラメな人物がどこにいる。
 「普通」とはなんだ。完璧に普通な人生や社会の実例を見せてみろ。
 そんな2重に非現実的な「普通の人間」だけが有しているらしい明確な「人間らしさ」とはなんだ。
 そんなものはどこにもない。


 わかっている。こんなことを言われたところでハイそうですねとはなるまい。
 そして明日からもまた2つのうちのどちらかの様式で生きていくのだろう。

1.自分を出来損ないの人間と定義して苦しむか。
2.自分以外を出来損ないの人間と定義して嫌悪するか。

 だがもう一つの道もある。それは、
3.自分のことを人間として定義するのをやめることだ。


 たぶん中学生ぐらいだったときのことだ。道徳(と今でも呼ぶのかは知らないが)の時間に、「私は(    )です。」とだけ書かれたプリントが配られた。

 多種多様な自分語りを教師は期待していたのだろう。長男ですとか国語が好きですとか体育が嫌いですとか医者になりたいですとか長生きしたいですとか最低ですとか私が嫌いですとか。
 だが私はこう書いた。「私は人間です。」
 それが一番無難だと思ったのは間違いない。しかし他には何も思いつかなかったから、というのも事実だ。

 もしも今の私の精神が当時の自分に宿っても、同じ回答をするだろう。教師に向けて誤解されそうな本心を打ち明けても面倒なことになる気しかしない。それに本当のことは自分だけが知っていればいい。

 実際には、私は自分のことを人間だとは思ってない。本心を書くとしたらこうだ。


「私はバケモノです。」


 バケモノ。モンスター。人間のようで人間ではないもの。人間に化けて社会に混じっている異物。
 そうした者たちについての口伝や物語は全世界に無数にある。狼男もそうだし吸血鬼もそうだ。小人や魔女や妖精や鬼や天狗もそうかもしれない。

 そうしたモンスターの原型は(分類学的な意味では)ただの人間だったのだろうと思う。
 人付き合いが苦手で山奥にこもった老人。めったに姿を見せない、青っ白い顔色をした領主の子息。先祖伝来の地所が僻地にあるからそこに住んでいるというだけの一族。独特な感情特性や倫理観を持つ個人。

 分からない部分は想像で埋めるしかないという脳の機能とその限界、常に不安と怖れを抱きそのやりどころを必要としている社会の事情、「こちら側」は善で「むこう側」は悪という簡便だが浅はかな線引き。
 結果、得体のしれないやつらはよくないもの、邪悪で危険なものなのだという発想に落ちつく。そうした傾向は、知らず識らずのうちに私たちみんなに染み付いている。(ちなみに「ヴィラン」という語は現代語訳では「悪者」を主に意味するが、もともとは「(都市生活者から見た)農民」というだけの意味しかなかった。)

 それもあって、多くの人は自分は普通の人間なのだと思いたがる。「人間」と「自分」との間にどれだけたくさんの違いや矛盾を見つけてもそれを自他の目から必死で隠そうとし、なお「人間」であり続けることに固執する。「ただの人間」なんてどこにもいないのに。


 モンスターやバケモノと人間とがいるのではない。自分はモンスターやバケモノであるという自覚を得た者とまだ得ていない大多数の自称人間とがいるだけだ。
 モンスター=悪という単純な図式も、そのほうが都合が良いため流用されているだけのただの思いこみだ。多種多様なモンスターがこの世に現れ数的なバランスに大きな変化が起きればあっけなく瓦解する程度のヤワなものだ。
 現に例外はいくらでもある。とくにエンタメの世界では、人間に優しいモンスターは(そこに若干の歪さは感じられるものの)だいたい受けがいいではないか。たとえば日本発の、毛むくじゃらででっかいけれど子どもと木の実と昼寝が大好きで優しいモンスターは世界中で愛されている。

 そんなふうでいいではないか、と思う。
 たとえば私は、文章と思考とくだらない妄想と同性のパートナーと酒とタバコとなんにもない人生を愛する外見的には目立った特徴もないモンスターだ。
 そんな自分は人間としてどうなんだろうとは、もう二度と考える気にもならない。私はバケモノで、バケモノは何にも縛られないのだ。「人間らしさ」という大層なようでいて実は掴みどころのない基準などにはもう惑わされたりしない。
 人間らしくは生きない。私は自分らしく生きる。

 何か目につく点を自分の中に見つけたら、それはそのまま私というバケモノの特徴としてリスト入りするだけだ。評価などしない。認めるか否か、許されるか否かという面倒な検討もしない。そうやって私の自己像は日々少しずつ更新される。しかし私はバケモノであるという認識の部分はたぶんもう変わらない。

 「私は今とても正しい自認を得て自足している」というこの安定した感覚は、じつに良いものだ。そしてこのような自分に対する揺るぎない手応えのことを、一般的には自信と呼ぶのではなかろうか。

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