サイコキラーの気持ち

 私がまだ20代だった頃(1990年代)、ディアゴスティーニ社からマーダーケースブックというシリーズが発売された。毎週ひとりのサイコキラーを取り上げて、犯行から逮捕までの経緯とか犯人像と逮捕後の様子などをまとめた写真多めの読み物だった。
 ある日、私がそれを実家で読んでいると父がやってきた。父は私が読んでいるのがどういう雑誌なのかを知ると顔を歪めてこう言った。
「なんでそんなものを読みたがるんだ。おまえはやっぱり異常だな」
 おまえは異常だというのは父の口癖だったので気にはしなかったが、犯罪に関心を持つことに対する彼のあからさまな嫌悪の態度のほうには少々驚いた。


 犯罪というものは誰でも今すぐできてしまうものだ。犯罪行為を物理的に阻む障害というのはないも同然なので、放火ならライター1個、殺人なら包丁1本あれば事足りる。私たちと犯罪行為の間にあるのは心理的な抵抗という壁1枚だけだ。だからこそ、犯罪に関してよりよく知っておくことが必要なのだというのが私の持論だった。
 犯罪についての理解が深いほど自分が犯罪者になってしまうのを回避することはより容易になるだろうから、犯罪なんて自分には無縁なことだと考えて頑なに知ろうとしない人たちのほうがむしろ危険な存在なのではないのかと私は考えていたし、そういった考え方には他の大人たちもみな普通に共感してくれるものだと思っていたのだ。
 だが父と同様な反応を示す人は少なくなかった。心理学部時代、ゼミでの研究発表のテーマに私は何を血迷ったか快楽殺人犯の心理などというものを選んでしまったのだが、友人たちの反応はドン引きだった。

 多くの人にとって、人を殺して喜びを感じるような者は人ではないのだ。ホラーやサスペンスで描かれるサイコキラーは実に楽しそうに人を害する。なんの罪もない人の血や臓腑を見るのが好きで、相手の苦痛でテンションが上がる。けして理解できない怪物そのものだ。
 自分たちと「それ」はまったく別の生き物であり、理解不能でできればあまり考えたくもない対象なのだと多くの人は考えている。そうした、「とりあえず遠ざけておけば安心」という態度は珍しくない。しかし、人を殺すことに喜びを感じる傾向自体は、実は誰でも持っているのではないかとずっと私は思っていたし、今でもそれは変わっていない。

 たとえば自分の恋人や伴侶や子どもを陵辱し惨殺した犯人を捕まえて切り刻んだら。自分を監禁して拷問した相手に反撃して殺したら。そんな状況でも自分は人を殺して喜びを感じたりは絶対しないと言えるだろうか。そんな極端な例でなくてもアクション映画なんかで、極悪なラスボスが主人公の手で葬られたらスカッとするものだろう。それも似たようなものではないのか。
 こいつだけは絶対に許せないと思う相手を殺すときには、誰でも少なからず喜びを感じてしまうものなのではないか。世を騒がせ非難の的になったサイコキラーたちも、実はそうだったのだとは考えられないか。

「いやそれはおかしい、サイコキラーが標的に選ぶのはたいがい何も悪いことなんてしていない普通の人たちで、それも多くは誰からも憎まれていなさそうな弱い女性や子どもたちじゃないか」と思うかもしれない。
 ならばこう考えてみてはどうか。
 サイコキラーは、何も悪いことなんてしていない普通の人たち、とくに誰からも憎まれていなさそうな弱い女性や子どもたちのことが殺したいほど憎くて許せないのだと。


 以前このあたりの記事(差別との戦い その5 https://note.com/grin/n/na9bc4d7752a5 )でも書いたが、数年ほど前まで私はどう考えてもやべーやつだった。女と子どもがとにかく嫌いで近くに来られるだけでも激しくイラついていたサイコキラー予備軍おじさんだった。
 その後なんやかやとあってだいぶ落ち着き、今ではすっかり子ども好きおじさんに変貌したのだが女嫌いは変わらなかった。なので女嫌いのほうは元々の性格のせいなのだということにして、ここでは子どもに対する数年前の自分の感情について、少し整理してみようと思う。

 私は公共の場で叫んだり走り回ったり泣いたりしているような子どもが嫌いだったが、そうではない、ごくおとなしい子どもに対してもよくイライラしていた。とくに嫌いだったのは、見知らぬおじさんである私に対しても笑顔を向けてくるような子どもだった。
 これは、元来の子ども好きだという人にはまったく理解できない感情だと思う。明るくて人懐っこい良い子じゃないかと感じるのが普通だろう。でも私は笑顔で接してくる子どもが、その笑顔の理由が、癪に障って仕方なかった。

 誰にでも恐気なく笑顔を向けられる子の周囲にはきっと、笑顔には笑顔で返してくれるような大人しかいないのだ。愛され、大切に守られ、そんな扱われ方を当たり前に思い、満ち足りて安心している子どもが私は嫌いだった。許せないとすら感じていた。

 人は世界について何も知らない状態で生まれてくる。そして周囲の限られた人間関係を通してこの世のありさまを学習していく。だからそれぞれの目に見えている世界はまったく違うし、自分が見ている世界こそがこの世の本当の姿なのだと信じている。

 たとえばこんな子ども時代もある。
 不用意に笑えばバカにするなと言われて殴られ、笑わないように我慢していると陰気なガキだと殴られる。今晩のご飯は何がいいかと訊かれて大喜びで答えると、子どもが大人に指図するなとなじられて夕食を抜かれる。

 情緒が不安定で一貫した態度に欠ける大人に育てられると子どもは混乱する。それはけして収まることのない、常態化した混乱だ。自分がとれるふるまいのうち何が正解なのかはほとんど運しだいに思える。自分の素直な気持ちを表出するなどというのは最悪の危険行為で、まずは相手をよく見てその感情と期待されているものを正確に察知するよう努め、そのうえで自分の行動を慎重に選ばなくてはならない。

 他の家の子が読み書きを習い道徳や優しさや前向きに生きる姿勢を育んでいるその頃、標的にされないための立ち回り方や上手に寝たふりをする技術や感情をカットオフして苦痛をやりすごすコツなどを必死で習得している子たちがいる。
 そのような子どもの心の中にできあがってしまった歪んだ世界は、大人になっても変わらない。歪んだ世界においては常識もまた同じく歪んでしまっている。たとえば私にとって「弱者は強者に恭順すべきだ」というのは根本的な常識であり、大前提で真理だった。

 大人に対して無邪気に笑いかけたり、公共の場で騒がしくしたり、おもちゃやお菓子を買ってほしいとねだったり、親の言う通りにしなかったり、何かを要求したり不平不満を口にしたり。私の常識からすればそれらはすべてとんでもなく無礼で危険な行動だった。そんなことをすれば必ずひどい目に合わされるはずだった。ひどい目に合わされて当然だと思った。ひどい目に合わされるべきだとも思った。
 しかし私の目の前で子どもへの罰が執行されることはほぼなかった。私が有罪と裁定した子どもたちはたいがい許された。それはそのまま私の世界に対する冒涜であり、軽視であり、否定であり、嘲りでもあった。ひたすら納得できなくて、やりどころのない怒りを溜め込みすぎて、頭がおかしくなりそうだった。


 子どもが子どもらしくふるまっても罰せられない世界。子どもが大人に守られている世界。それがいわゆる普通の世界だ。歪んだ世界観を持って生きてきた私でもどちらがスタンダートかぐらいわかる。しかしわかったところでそう簡単に宗旨替えはできないのだ。
 これは単なる固執とは違う。人はありのままの世界に適応しているのではなく、自分だけの目に見えている個人的な世界に適応しそこで生きているのだ。自分の世界の常識がいかに歪んでいて自分がどれだけ少数派であるかなんてことは本人も薄々わかっている。が、だからといって幼少期に形作られた世界を放棄するなんてそう簡単にできることではない。
 主人公のキャラクターメイキングはすでに終わっているのだ。自分に対して否定的になることはあっても否定しきることはたいへん難しい。だからある者は、絶対に自分は正しいのだと盲信し、自分の常識の正当性を示そうとする。彼らにとってそれは自分の存在を守るための大義ある闘争なのだ。


「間違っているのはおまえたちのほうだ」
 これがサイコキラーの気持ちだ。そしてまた、私自身もかつてそう思っていた。

 弱い者は強い者に従わなくてはならない。弱い者はいつでも強い者に怯えているべきだ。弱いくせに笑うな。弱いくせに目立つな。弱いくせに権利を主張するな。この世界を安全なところだと思っているなら大間違いだ。この世界は危険で恐ろしいところだ。しかも助けてくれる人なんか1人もいない。忘れているなら思い出させてやる。知らないなら教えてやる。身の程知らずの不心得者がどうなるかをおまえらみんなに思い知らせてやる。
 そう思っている部分は私の中には確かにあった。その部分が実際に暴れだして誰かを傷つけるようなことにならなくて本当に良かったと今は思っている。

 悪意ある人間の下で生きていくなら、その悪意に染まり同類になるのが最も楽な方法で、これは親子間だけでなく上司と部下の間などにも見られる。虐待されて育った子が大人になってからは我が子を虐待するようになるという虐待の連鎖もこうして起きる。
 苦しみの中から自分を助けてくれる存在を待ち続けているうちにとうとう失望し、それならばと、同じ苦しみに満ちた世界で生きる存在を増やそうとし始める。当人はそんな自分の寂しさを認めようとはしないだろうが、そういうことなのではないかと私は思う。


 人はそれぞれの世界を持っていて、その世界は他者の世界とたびたび衝突している。そしてときにはその衝突がおぞましい凶行の出発点にもなりうる。
 凶悪な殺人事件が報道されると、動機は何かということがまず注目される。交際を断られたからだとか、酒の席での口論の末だとか、いじめがエスカレートしていった結果だとか。それを聞いて報道の受け手側はなるほどなぁとわかった気になる。しかし動機というのはきっかけにすぎない。動機ではなく原因についてもっと考えられるべきだと思う。

 今も歪んだ常識で生きている者はたくさんいる。殺人を犯して世間から怪物扱いされることになるのはそのうちのごく一部だ。
 彼らに対してもっと優しくしてやってくれとは言わない。大して効果はないからだ。それよりも、どことなく感じの悪い人がいるなと思ったらその人の印象に残るようなふるまいは慎むことだ。何が相手の怒りを呼び起こすかなんてわからない。目立たないのが一番だ。そして警戒してほしい。可能な限り、肉体的に弱い存在が1人きりにならないように、近親者でなくても注意を払ってほしい。サイコキラー予備軍は人々が思っているよりもずっと多くて、そこら中にいるのだから。

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