いま、noteの「難しさ」に直面しているという告白
先日、コチラの記事をnote運営さんに見付けていただき、「今日の注目記事」にて紹介していただきました。
最近は新たにフォローしていただけることも増え、拙文を読んでいただけることに感謝する毎日を送っています。
ただ同時に、
これまで「楽しい」だけの感情で更新してきたnoteに対して、初めて「難しさ」を感じてもいます。
今日はそんな自分の心情をここに残しつつ、皆さんに一つだけ「謝罪」をしておこうと思います。
noteの世界を楽しむ
私は「noteの世界を楽しむ」ことを活動の軸に置いています。
「noteの世界」とはnote株式会社創業者の加藤貞顕氏によれば
ということで、
「様々な価値観に触れ、人々と交流すること」が「街」の良さです。
ですのでなるべく他の人の記事を読んだり、感銘を受けたものにはコメントをしたりしています。
(ただ子どもが寝付いてから活動を始めるので、どうしても交流できる人の数が限られるのは心苦しいところではあります)
そんな「顔の見える」関係性を築くことによって得られた連帯感や充実感とは裏腹に、私が何を「難しい」と感じたのか。
それは「顔が見えるようになったからこそ、書けない」という問題でした。
「数字」が「人」になった瞬間
振り返ると2023年8月、私がnoteに殴り書きを始めたとき、そこに「人」はいなかったように思います。
「ビュー」や「スキ」は何となく「数字」としか認識していませんでした。
しかしそのうち、繰り返しスキをしてくださる方がいることに気が付きます。
「あ、◯◯さん、また読んでくれている」
自分の中でその人は「数字」から「名前」になりました。
やがて私も相手の発信を見に行くようになり、複数の記事を読んでいるうちに、その人が大事にしている考え方の軸や好きなモノ、そして嫌いなモノが分かってきます。
ここで私は、その人が自分の中で「名前」から「人」になったことに気が付きます。
それは「noteの世界を楽しむ」を信条とする私にとって、一番喜ばしいことの一つです。
しかしあるとき記事を書いていると、ふと気が付きます。
「あ、この文章を書いたら、◯◯さんが嫌がるかもしれない…」
と。
顔が見えるようになったからこそ、自分の文章が受け容れられないであろうことが予想できるようになってしまったのですね。
そして顔が見える人が多ければ多いほど、文章を自由に書くことができなくなってくる。
これが私が初めてnoteを「難しい」と感じた出来事でした。
一度だけ謝罪させてください
私は昔から「考えすぎだよ」と友人に言われるタイプです。
でも性分なのか、考え始めるとどうにもダメで、筆が止まります。
だから今後、自分の発信をブレずに続けていくために、
この場を借りて一度だけ、皆さんに向けて最初で最後の謝罪をします。
私はきっと、あなたの嫌いな記事も書くことになります。
耳ざわりの悪い文章を書くこともあると思います。
そのときは、ごめんなさい!
不器用な性格でお恥ずかしい限りではありますが、
皆さま今後ともどうぞよろしくお願いします。
さあ、気を取り直していくぞ!
それでは、また。
いつもサポートしていただきありがとうございます。 頂いたサポートは全て、近隣の本屋さんで書籍の購入に使わせて頂いております。