美術史家風Ver.:オフィスという<場>におけるデスクを解釈する視座についての一考察:消費資本主義に対する多様なアンチテーゼ

 (注)これは、『H氏のカオスなデスクに惹かれる理由』を”もしも美術史家が書いたなら”というパロディです。私は美術史専攻で、美術史の本が大好きです。誇張もありますが、遊びだと思って許してください。

 デスクを批評する際に留意すべき点として、まずデスクを静態の表象として捉えるか、あるいは動的な過程(プロセス)として捉えるかによって、取るべき方法論にも変化が生じ、またその解釈の叙述の在り方にも当然ながら相違が起こりうるということが挙げられる。しかしながら、写真という記録媒体の持つ条件の制約により、我々が受け取れるのは、静態としてのイメージにすぎないという点には異論はなかろう。いかにデスクが、日々変化していようとも、我々はこの写真の示す像(加工技術がなかった時代には、それがフォトショップによる改ざんが行われている可能性が疑われる日がこようとは、誰も予期しなかった媒体でもある)を通して、推測する他はないのである。

(特徴1:一文が長い、もしかすると1ページ以上改行がない)

(特徴2:小見出しは10ページ以上に渡ってない、もしくは全くない)


 ポスト構造主義以降、特に90年代以降その傾向が強く見られるが、作品を文脈から自律した存在として論じることが可能だとは思われていない。いかに写真の上ではこれ以上の変化を見せない存在として、その姿を表象しているかのように思われる―事実、そのように受け止めることを無批判に行ってきた歴史もあるのではあるが―これはデスクであり、当然ながらこの写真が撮られた次の瞬間には、別の様態を示している、あるいは、“いた”、であろうことは想像に難くない。いささか冗長だと思われるかもしれないが、この点は見逃されがちであり、また芸術の作品そのものより、その制作プロセスの呈示に重点が置かれ始めて以降、結果としての作品と同等、あるいはそれ以上に「対象」として据える必要がある。

(特徴3:ポスト構造主義とか、ポストという単語が必ず出てくる)

 近年の、H氏のデスクへの評価の高まりを、美術史の文脈の上でどうとらえるべきかについては、様々な立場からそれぞれの理論に基づいて、多様な解釈が示された。合理主義者の立場からは、「3Sを実行しないのか」「使いづらそう」という批判が上がった。これは、オフィスという場を機能性の面からのみ評価するという規範意識に立脚している。本来の機能から外れることへの批判といえるのだが、そこにはもう一つの隠れた前提がある。秩序、すなわち規範を乱すものに対する潜在的な「恐怖」である。

 (特徴4:ちなみに、絵とか写真とかほぼない)

 バブル崩壊以降、ミニマリズムや片付けブームなどの隆盛、そこから発展した「秩序を常態とすべきである」という思想の拡大が見られた。そこにあるのは、大量消費資本主義に対するアンチテーゼでもあり、オルタナティブとしてのムーブメントといえる。21世紀に入り、この思想は一種の規範的性格を帯び始め、体制批判的な出発点を持っていたものの、社会における抑圧的な働きを帯び始めるという皮肉な転回を見せているのも事実だ。先の意見も、その表れの一つと言えよう。

 こういった背景を反映してか、「こちらの方が人間らしい」と、H氏のデスクを「片付けブームに対するアンチテーゼ」とする解釈も出てくるに至った。H氏が企図したかどうかに関わらず、いわば、体制批判として受け止めたといえる。ここにおいて、H氏のデスクは体制批判の記号的性質を二次的に背負うことになった。

 一方、「落ち着く」という肯定的な見方も多く見られた。つまり、ポスト・片付けブームは、アンチお片付けという、片付けブームへの対抗として自らを位置づける勢力と、片付けブームへの態度は明確にしないまま「散らかったものをありのまま」受け止めようする勢力とに分かれたと言える。後者においては、規範意識に対して反動的な性質はおびていない。では、この勢力のお片付けブームに対する態度はどうかといえば、肯定的であるケースさえ見られる。H氏のデスクを評価する層が、片付けブーム側、つまり体制派であるが、H氏のデスクを体制批判として受け止めなかったのだ。事実、H氏もそのような、反動的な理由から、この作品を制作したのではないことが、作者の言説からもうかがえる(注1:作者のツイッター参照)。

(特徴5:前置きが長いので本題が何だったか忘れてしまう)

 次に問題となるのが、体制側からのH氏のデスクへの評価の基準はどこに求められるのかである。まず、このデスクを見る多くの人が「自分のデスクじゃないからいいや」という、客体化を前提としているということが言える。また、オフィスという<場>である文脈からいったん切り離し、この空間を一種のユートピア像として見ることで、合理性問題を解体したといえる。

 ここで忘れてはならないのが、H氏のデスクを評価する人々の中に、片付いた状態のデスクという規範の意識が前提としてあるということだ。この点については、ヴェルフリンが、盛期ルネサンスの様式とバロック様式の差異を論ずる際に、前提としてルネサンスを規範として扱っていることに類似する(注2:ハインリヒ・ヴェルフリン『美術史の基礎概念』1915年))。つまり、規範意識の今後の変遷によっては、H氏のデスクへの評価も連動して変化することが想定できる。

 以上、H氏のデスクをめぐる様々な解釈の視座について考察を述べた。場の特異性については軽く触れるにとどまったが、この概観を通し、H氏のデスクの解釈には今後、ジェンダーの観点、サイト・スペシフィシティを踏まえた解釈、「物」との関係性をめぐってポスト・マルキシズム視点からの再評価が必要となることが示唆できたのではないだろうか。今後の研究が待たれる。

(特徴6:今後に託しがち)

 


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