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一枚の自分史:冠が欲しい…何者かになりたかった。

私はつくづく人との出逢い、たくさんの恩人にこれまで作っていただいてきたなと思う。この方はその恩人の中のお一人である。

 二〇〇一年、五十一歳の時の夏に、教育関係のボランティアのリーダーをしていて講演会を企画することになった。この方に来ていただいて、父兄の前でお話をしていただいた。その時の広報用に写真を下さいとお願いしていただいた写真である。ご自宅の居間で奥様と一緒にくつろいでいらっしゃる。とても穏やかでいいお顔をなさっている。そうそうこの方はこんな笑顔の方だった。

二〇〇一年といえば、9.11無差別テロがあった年、どれだけ時がたったことだろう。驚くばかり。

訃報を聞いて、もう10年にもなるだろうか。いまだ、FBではそこにおられる。久しぶりに辿ってみた。
2011年8月、残暑の折、お元気にお過ごしでしょうか?
近々、ご相談したいこともあり、ときめき塾やフォーラムなどに参加させていただきたいと思ってはいるのですが・・・。相変わらずのワーキングプアーでして、数をこなす日々で、ご無沙汰ばかりです。
その分、講習の時間数が増えて、確実に手が上がっていると実感しています。
師匠さま、やはり、実践に勝るものなしですね!
とコメントに書き込んだところ、師からは
講師業に完成は無しですね。共に頑張りましよう、研鑽継続あるのみです。
とお返事があった。

まだ、40代のころ、その頃、通産省のキャリアの方が主催している異業種交流会があった。東京での開催だったが、 大阪でもやるからということで参加した。異業種交流会初体験だった。
そこで出会った女性に「 あなたにはここよりももっとぴったりの交流会があるから紹介する」と言われた。

その交流会の主催者がこの方だった。家電メーカーの人事部長をなさっていたという経歴で、とんでもなく幅広い人脈をお持ちだった。
毎回、 次から次へと素晴らしいご縁につないでいただけた。その人たちは事業の成功者というよりご自身の人生を彩って生きている人たちだった。
色々な人に合わせてもらったり、美味しいものを食べに行ったり、山や海に行ったり、奥さまもご一緒にみんなでお泊りしたりした。
仕事と家と地域社会の中でだけ生きていた私にとっては大きな窓だった。
エイプリルフールでうまく嵌められたことを喜ぶようなウエットとユーモアの人だった。

当時、会社で仕事をしていて上司に恵まれていないと思っていた。そんな私にとって厳しくも優しい理想の上司像がそこにあった。厳しく叱られたことのほうがよく覚えている。
交流会のメンバーでありながらも、同じ人事畑の現役であることで、時々部下の姿がかぶったのだろうか。
そのころリストラの片棒を担がざるを得なかった私に、「全部終わったら辞めなさいよ」と厳しく言われた。私は、それが責任の取り方だと理解した。
ところが、会社に残って歯を食いしばって生き残りに務めることで、辞めざるを得なかった人たちへの責任を取ることにした。
今思うと、後ろめたくてなんとなく気持ちに距離をとってしまっていた。

しかし、そのことは私への優しさだったと今なら思う。あなたは、組織に縛られずあなたの世界で生きなさい。「責任を取れ」ではなかった。君はきっと罪悪感を抱えてしまって辛い生き方を選ぶだろう、そんな私のことを理解しての忠告だったのだ。ご自身がそうだったからだと思う。果たして、そのとおりとなった。

あの方は私のことを誰かに紹介する時いつも、満面の笑顔で「この人は、元気印の藤原さん!でね」と必ず冠がついていた。
「この人の人との 繋がり方には驚く。このままで行けば天文学的な数字になっていくよ」というリップサービスはいらんわと思っている私だった。

その度に思うのは、私には元気印の他には冠はないんやなということだった。「 この人は〇〇の藤原さん!」と紹介してもらえるような冠が欲しいと思っていた。定年退職後は知らず知らずに冠を探していたように思う。

もう、「〇〇の 藤原さん」と呼んでもらえる機会はなくなってしまったけれど、60代でやっとの自分を探す旅に出るきっかけはあの言葉にあった。

あれから私は何者になったんだろうか。あれからは、その時その時の冠を精一杯戴だいて生きてきた。
そして、おかげで今なら迷わず言える「自分史の藤原です」と。

そのうちに「ときめき塾」はそちらの方がまたにぎやかになりますね。
そちらに行った時にこう紹介してもらえたら嬉しいです。
「この人は自分史の藤原さん、一枚の自分史のMAGAZINEを100号まで出したすごい人!しかもそれを70代からスタートした人ですよ」と。
そうなるように健康でいるし、まだまだ精進もしますから。

恩人の植谷さんへの感謝を込めて


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