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一枚の自分史:おいでやすにごめんやすで蔵は建つ

1935年(昭和10~13年)おそらく初夏の候だと思う。船場のメリヤス問屋の前で写しているのであろう父の丁稚時代の写真である。店の人たちと写っているのだろうか、おそらく歳の感じからいくと父が15にも満たない一番若いだろう、ということはつまり下っ端の丁稚どんだろうと思う。真ん中の洋装の人がやけに爽やかで垢ぬけているので、向かって右の父のがしんたれぶりが目立っている。

丁稚どんはこういった着流し姿で仕事をしていたらしい。あまり上等やないな~。粗末な着物に見える。
写っている家も大正から昭和初期にかけてのこの船場あたりの虫籠窓(むしこまど)の商家らしい姿である。実はこういった町屋は今も船場界隈には残っていることを発見、つい数か月前に写してきている。

私が学生時代にアルバイトをしていた昭和40年代のネクタイ問屋もこういう作りだった。意外に奥行きが深くて、中は広く、倉庫も、作業場も事務所もあった。懐かしい。
ただ、もう数年もしたら取り壊されていずれはビルになるのだろと思われる。その時代の風景として貴重な写真のような気がする。父の丁稚時代の写真はこれ一枚である。

日中戦争に突入する少し手前の時代。よく昭和歌謡とかの番組で必ず紹介される「二人は若い」確か、こうだった。「あなたと呼べば、あなたと答える山のこだまの楽しさよ」その後二人が掛け合いをするという曲、それが流行ったのがこのころ、歌や音楽好きの父も歌ったのだろうか、どうなんだろう。時代はひたひたと昭和不況のただ中へ、戦争へと傾倒していた。
そんなどころじゃなかったのかもしれない。何しろ奉公人の身では。

父が丁稚奉公をしていたメリヤス問屋を探すために中之島図書館を訪ねた。誰も屋号を聞いていなくて、大阪商工会議所の昭和10年の名鑑を探して該当しそうなメリヤス問屋を15店ぐらいに絞ることができた。その後の15年の名鑑や電話帳を調べたところ、15店のうち残っていたのは数店だった。いったいこの町のこの頃に何があったのだろうか。 
結局、店の屋号もわからずじまい。写真に写り込んでいる商家の規模からしても大きな問屋ではなさそうである。
アメリカから端を発した世界恐慌で日本も不景気になっている。まず生糸の輸出が激減した。つまり繊維業界は1930年代は深刻な不景気に見舞われることになる。 
繊維業界では原料不足、生産統制などで、小さな繊維問屋、綿を扱うメリヤス問屋などにとっては厳しい時代だったのだろう。父が奉公をした問屋がどうなったか、そういった歴史を虫の目で遡るすべはきっとあるのだろうが、私には未だ見つけられていない。よって想像の域からは脱することはできないけれど、今の状態から言えることだけを書いておこうと思う。

昭和恐慌と呼ばれた不況の中、打開策として日本が打ち出したのが「満州は日本の生命線」というスローガン、満州支配を進めることになる。やがて父は満蒙開拓義勇軍に志願をして満州に渡ることになる。

父は丁稚奉公と言っていた。給金はなく、衣食住だけが与えられる。そのうえ仕事を教えてもらえるのだから、寒村の子だくさんの家から口減らしでやってきたのだからそれだけで有難い。
そして、丁稚の時の呼び名は「*松」で、本名で呼ばれることはない。まるで千と千尋の物語である。
それについては、小学校に入学の際に、養子先の名字で呼ばれることに抵抗したきかんぼうのこと、アイデンティティ不在の日常をどのように送っていたのだろうか。

その頃の父にも、その時代を生きる青年としてのそれなりの矜持があったように思う。自筆の 一枚の写真のキャプション「実業家ヲ志ス頃、小生17才」が物語っている。丁稚を辞めて、満州にわたる前に郷里の写真館で写している。

丁稚汁におこうこうでご飯をかきこむ姿や、船場の町をお使いに走っている姿が目に浮かぶ。「おいでやす」と大きな声でお客さんにあいさつする声が響き渡る。

そういえば、言うてたな「おいでやすにごめんやすで蔵が立つ」たった3年ほどだけど大阪商人の作法は叩き込まれたようである。そんな姿を私たちは端々に見て育った。

そやけど、父さんは商売あんまり上手やなかったよな・・・。

※がしんたれ:餓死してもしょうのないもんという船場言葉、菊田一夫のテレビドラマで一世風靡した。
※おいでやすにごめんやすで蔵が立つ:「おいでやす」は「いらっしゃいませ」、「ごめんやす」は「ごめんください」を意味する。 つまり、客が「ごめんやす」という前に、店員が「おいでやす」と声をかけるような店は、蔵が建つほど繁昌するという意味の船場言葉。


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