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一枚の自分史:誰かをあたためることができたのかもしれない

長男の出産後、体質が変わったのか病気がちになってしまった。夫は月のうち20日以上出張していた。体調の優れないままでの初めての育児は不安で孤独だった。
二人目も三人目も続けて切迫流産した。三人目は出血がひどくてしばらく起き上がられなかった。
 
長男の小児喘息の発作はいつも深夜に始まった。朝になって収まると、二人して死んだように寝ていた。雨戸は閉めたままだった。陽が高くなってから雨戸を開けるのは近所の目が気になってそのまま夜を迎えた。息をひそめるように引きこもっていた。
そんな時に、ラジオから流れてきたのが中島みゆきの初期の作品の『ひとり上手』だった。声に恵まれているわけでもなく、今ほどの声量もなく、さほどに上手いわけでもなかった。けれど、哀愁を帯びた歌声と歌い方に引き寄せられた。
 
音がないと寂しいのでラジカセはいつもつけたままだった。ラジオから流れてくる中島みゆきの歌を録音して擦り切れるほど繰り返した。余計に暗くなるような歌ばかり聴いていた。
母親は太陽のようにいつも笑ってないといけないと言われてもね、そうもいかないよねと承認されているようだった。
 
3年後、4人目の子を宿した。出血していると夫に訴えたが、頷いただけで何も言わずに出張に出て行ってしまった。
病院では「今夜のうちに流れますよ、念のために入院してください」と言われた。病室は八人部屋しか空いていなかった。出産の喜びに沸く病室で、カーテンをひいて、ひとり声を殺して朝まで泣いた。
朝、つわりが始まった。先生の診断は外れて4人目の子はどっこいしぶとかった。それから一か月、長男は母に預けて、寝返りも打たず上だけを見て過ごした。長男が三歳になった日は病院でお祝いをした。
 
やがて妊娠安定期を迎えた頃、テレビの「3年B組金八先生」の腐ったミカンの方程式の回で流れる画面と共に『世情』が流れる。歌詞の【 シュプレヒコールの波通り過ぎてゆく 】と言うくだりに学生時代をいやでも思い出した。
もはや中島みゆきは失恋の歌だけを歌う歌手ではなかった。メッセージを伝える同じ世代の旗手だった。
 
そして長女があっけないぐらい無事に生まれた。とんでもなく元気な赤ちゃんだった。それまで静かだった家がいきなり騒々しくなった。
相変わらずラジカセからは中島みゆきの曲が流れていた。
 
長女を三歳児で保育所に預けて働き始めた。私は毎日忙しくても、格段に元気になった。
ある日保育所に迎えに行くと、 保母さん達が口々に言ってきた。
「今日はりえちゃんに『アザミ嬢のララバイ』を聞かせてもらいました。すごく上手でびっくりしました」
いつ覚えたのだろうか。得意気にアンニュイを気取って歌っている娘の顔が想像できて笑えた。同時に、三歳児が歌うような内容の歌詞ではない。ちょっと恥ずかしかった。
 
その次、中島みゆきの歌に出会ったのは長女の中学校のPTAコーラス隊の合唱曲としてだった。『旅人の歌』や『時代』といったメッセージソングだった。スケールの大きな歌を、みんなで発声練習から繰り返して豊かな声量で歌い上げた。声をそろえてメッセージで一つになることは快感だった。
 
出席した結婚式で何回か歌われていた『糸』、人と人の出会いを歌いあげた優しい歌だ。今やブライダルソングとして認識されているようだ。

だが私には哀しみに繋がる歌となっている。
定年退職まで10年を切る頃、勤めていた会社は糸偏の中堅の繊維メーカーとして創立百年を目の前にしていたが、大掛かりなリストラを行った。人事担当者としてその片棒を担ぐことになり、天職だった採用と新人教育から退職の支援へと仕事は一変した。そして200人とお別れをした。私にしたら出会いの歌どころか切ない別れ歌となった。

【縦の糸はあなた、横の糸は私、織りなす布は、いつか誰かを、暖めうるかもしれない】このフレーズを聴くたびにフラッシュバックする情景がある。
阪神大震災のあの日、会社ではその日のうちに救援物資を運ぶために、出社できた社員だけで工場中にある毛布をかき集めて4トントラックをいっぱいにした。
テレビ報道は刻々と現場の悲惨さを伝えた。瓦礫の中から、多くの人が運び出された。その最期をくるんでいたのは私たちや同業者がつくった毛布だった。

この歌のおかげで、ともに働いた人たちに出逢えたことを逢うべき糸に出逢えたと思う。歌詞の中にあるように仕合せだと思うことができた
中島みゆきという叙情詩人のおかげで、上手くいかないことばかりだったように思えた働いた日々を愛おしく思うことができている。
 
定年退職してからのセカンドキャリアにキャリアカウンセラーを選んだ。リストラをする側に立ったことへの贖罪のためだった。
再就職支援、障がい者就労支援、学生への就職支援でこの十二年間は文字通り東奔西走した。そんな時にいつも脳内に流れていたのが『ファイト!』だった。
特に、灼熱の中を黒いスーツに馴れないパンプスで足を引きずっている女子学生を見たり、不自由な体と心で無心に作業する背中を見ていると必ず心の中で口ずさみたくなる応援歌だった。
そして、支援する私の覚悟を促し、自らを鼓舞する歌となった。決して高らかに歌い上げることはないが、いつも脳内BGMとして流れていた。
 
私の人生ではいつも中島みゆきのあの声が脳内BGMとなって時代に寄り添うように鳴り響き続けていた。
これからも、ともに老いていく。来し方を回顧しするたびに流れ、これからもどんな歌で彩ってくれるのだろう。とっておきの老いへの応援ソングを期待している。



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