見出し画像

入澤美時『考えるひとびと』より ー根深誠・白神山地における”正義”

ひさしぶりの考えるひとびと。

自然思想家・根深誠。白神山地の開発反対運動に身を投じ、山に生き、自然に関して思索する人物です。国や自治体が推し進める開発運動に昂然と声をあげ、反対運動を組織し、開発の差し止めを行った人物としても知られています。

しかし、です。いざ守られた白神山地、その後の展開でユネスコの世界自然遺産にも選定・登録されていくが、”保護”という名目で人々をパージしていく保存運動には疑問を呈します。根深さんは、山を人々の生活の場と捉えるのです。材木資源を伐採し、販売することで身をとたてる人、滔々と流れる清流に住まう魚を漁り、生活の糧にする人、山々に芽吹き花を咲かせ実りをもたらす木々草々から資源を得る人。さまざまな人々の生活が山にはあります。当時の保護運動は、こういった山に暮らす人々に対しても、立ち入り禁止を命じ、これを破ったものには罰則を与えるものでした。

根深ー正義をふりかざして、正義の腕章をつけて。フン。
入澤ー正義でヨタっちゃうから、困るよなぁ。目がすわっちゃうからね、正義だって。正義につかれた人って恐ろしいよね。昔、日本は何度も経験しているはずなんだけれどもね。戦前に、太平洋戦争でさあ、銀座の街頭で頭切れ、その袖長すぎるから切れ。いまでいえば、学校の者で待っていて、スカートの裾が何センチ長いとか短いとか、それと同じ。間違っているって、何が間違っているんだよ、オマエの方だろうが。
根深ーえばりたいんだよ。ほかの人と差をつけたい。実力じゃ、差がつかないから。

自分のカリスマ性や、自分の実力を補填するために正義という権威を背負い、そのことよに他と抜きんでた自分を演出する行為は、有志以来ずっと行われてきたことです。しかしそれが、本来は人々の共有と共益の空間であった山の中でも展開することにはやはり違和感があります。初回で網野がいっていたように、本来山がもっていたはずの無縁性・無主性の豊かな人類の叡智が完全に取り払われてしまっていることを意味するのですから。

対談を終えたのち、入澤は次のような根深のエピソードを紹介します。

大分後年になってからだが、根深が『週間宝石』に「ヒマラヤ周遊行」という紀行を断続連載したことがある。ネパール、パキスタン、中国、チベット、そしてインドでダライ・ラマに会うという、ヒマラヤのまわりをめぐる旅である。そのときのチベットでの出来事であるが、根深バスに乗ろうとしたとき、チベット占領者である中国人=漢人に唾をはきかけられたという。漢人は前の方にゆうゆうと座り、チベットは後部でギュウギュウにというバスの状態で、チベット人に間違えられた根深は、唾をペッとやられ、うしろにいけといわれたのだった。根深が根深らしいのは、ここにおいてである。根深hじゃ、自分が日本人であることを主張しなかった。そして、チベット人でギュウギュウの後部へと行ったのだ。ムッとしなかったはずは、ないであろう。しかし、この根深の行動は、優れたこと、正しいことといわねばならない。この逸話を思い出すたびに、このときのチベットの人びとと、白神山地で暮らす人々の姿とが、根深のなかで重なったように、重なって見えて仕方がないのだ。

権力は弱者からの収奪によって維持されます。ここで根深さんが日本人を主張し、彼が中国人と同じ席についた途端、彼は収奪者のほうに回ってしまう。根深の感性は一瞬でそのことを見抜き、弱者の側に自分を位置付けたのです。

入澤は「大衆・民衆・庶民、そこに生きる人々という場から発想しない思想は、すべてダメなのだ」と述懐します。

豊かな山々の自然とその保護。このキーワードを通してすら、収奪するものとそれを強いられるものという普遍的な人間のテーマが見えてきます。愚かなように思えます。これを克服するには、我々ひとりひとりが勇敢な弱者として声を上げ続けなければならないのでしょう。


この記事が参加している募集

#読書感想文

187,064件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?