ベジタリアンについての私見

宮沢賢治の「ビジタリアン大祭」という作品の感想フォーラムに書こうとしていた文なのだが、書き終わった後にもうそのフォーラムが事実上の廃墟になっていたことに気づき、もったいないのでnoteに供養しようという,そういう文である。

一見しましたところ、
1.栄養の話
2.植物も生きている話
3.どうしても虫や酵母、バクテリアがついているため動物を殺してしまっている話
4.畑を作るときに結局動物を殺してしまうことになる話
5.心の話
6.動物の命のために多くの植物が犠牲になっている話
大体がこういったものでした。

動物を可哀そうと思うから動物を殺さず生きる、これについて話しているので1に関しては何も言わなくてよいでしょう。現に生きていられるのですし、長生きすればいいかという話にもなりますし、そもそも強制をしていないわけですから。

2は中々難しい話です。どこから「いのち」と考えるべきかにもよります。一部分を切り取ったらそれはそこの「いのち」がなくなったと考えるべきなのか、それとも一個体が維持できない状態になったら「いのち」がなくなったと考えるのかです。一部しか切り取らない栽培方法をしていて、後者の考えならばそれは「殺していない」となるわけです。ではその切り取った一部分はどんな物体と考えるべきなんでしょうか。切り取る前のその物体は確かに「いのち」があったはずなのに、切り取ったら「いのち」の考慮から外れるわけです。

3は宮沢賢治も悩んだのではないでしょうか。濾すにしても限界はあり、虫だって大きな動物だって同じ一つの命ですから、動物の苦しみを感じていた宮沢からしたら本当に辛い問題だったと思います。これの反論は中々できませんし、反論があったとしても多分納得できないでしょう。
4もですね。畑に動物が荒らして来たら?畑を作るときの森林伐採はいいのか?かりに平野に作ったとしても虫が犠牲になるのでは?キリがありません。しかし賢治はベジタリアンであり続けたんですね。これは最後に書きます。

5はあまり好きではありません。人間にとって「そう見える」から評価できる、なんともエゴを感じます。感情があると断言できますか?なぜ断言できるのですか?科学が証明したからでしょうか?でも科学は完璧ではない人間が作ったものです。話がずれるので詳しくは書きませんが科学も思い込みも変わりません。また、植物に心はないのでしょうか?

6.犠牲になる数が問題なのでしょうか?殺している数が少なければ罪は減るのでしょうか?わたしはそこが疑問に思えて仕方がありません。

このように、ベジタリアンが完全に正しいとは言えないのは誰の目から見ても真実です。しかしながら宮沢賢治をはじめ、大正以降、現代でもベジタリアンがいることもまた真実です。これは正しさの問題ではなくやはり「主義」だからなのでしょう。植物より動物の方が心が「見えやすい」です。これは多数の人が賛成するはずです。本当に見えているかは別の問題です。見えやすいか否かの問題です。

そして見えやすいが故に、殺すことが自分にできるかどうかを考えてしまうわけです。考えはやめることができません。考えようとして考えているわけではなく自然に考えてしまったわけです。そして殺せなかった。そんな人達が同情派ベジタリアンになるわけです。現代だからこそ出てくる動機(資本主義的生産方法に対する幻滅等)もありますね。

簡単にまとめますと、これは正しい正しくないの問題ではないというのを宮沢は言いたかったのではないでしょうか。すごく簡単に言ってしまうとこういうことになります。主義だから自分はベジタリアンを止めることができませんし、逆に言えばベジタリアンが子供や知り合いに強制しようとするというのもおかしな話なように思われます。いつも通り、結論は「考えは自由だが押し付けることはできない」ということになります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?