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『オスマン帝国500年の平和』林佳世子著 読了

<概要>

強大な軍事力と中央主権とイスラーム法に基づき、500年もの間継続したバルカン・アナトリア・中東・北アフリカを統治した最後のイスラーム国家の興亡の詳細を紹介した書籍。

イスタンブール トプカプ宮殿。2010年撮影。以下同様

<コメント>

来月2023年7月、ギリシア哲学のルーツ探訪をメインに、トルコ・ギリシア(トロイ→レスボス島→サモス島→ミレトス→イスタンブール→アンカラ→ロードス島)を旅行するにあたって、13年前に通読した本書再読。

書き手の上手さもあって、400頁近くの大著にもかかわらず、要点をかみしめながら一気に読むことができました。

トプカプ宮殿からボスポラス海峡を望む

⒈「オスマン帝国はトルコではない」という事実

わたしたちは、過去にオスマン帝国を「オスマン・トルコ」と称していたように、ついついオスマン帝国はトルコだと勘違いしてしまっていますが、オスマン帝国は著者曰く「何人の国でもなかった国」であり、トルコとイコールではありません。

今の近代国家の枠組みでいえば、旧ユーゴ、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、トルコ、エジプト、シリア、ヨルダン、イスラエル、レバノン、イラクなどのルーツがオスマン帝国であり、オスマン・トルコというのであれば、オスマン・ギリシアでもあり、オスマン・エジプトでもあるのです。

たとえば今のギリシア人は、もともとオスマン人であり、古代ギリシア人とは全く違う人たちです。これはルーマニア人もブルガリア人も同じ。トルコ人自身「オスマンはトルコ人の国」というアイデンティティがなかったために、頻繁に反乱を起こしています。

またイスラーム教の世界では「国民」という概念はありません。「血縁で分ける」「民族で分ける」「文化で分ける」「言語で分ける」「人種で分ける」などの考え方もないのです。

あるのは唯一「イスラーム教徒か、イスラーム以外の一神教徒(ユダヤ教・キリスト教)か、その他か」というイスラームを基準にした宗教的区分のみ。

オスマン帝国のスルタン=皇帝であっても、アッラーのもとの一人の人間にすぎない。もちろんスルタンは、イスラームがムハンマドの血統を重視したように、特別な存在として血縁は重視されましたが、あくまで実力重視なので優秀な血縁のみが重視される。

しかし、人間の性で、このイスラームの理想もどんどん崩れ、とくにスレイマン一世(在位1520~1566年)崩御後は、官僚と後宮が権力を支配して、他の文化圏同様、徐々に地縁・血縁重視に陥ってしまいます。

スルタン・アフメト・モスク(グルーモスク)

⒉オスマン帝国の時代区分

オスマン帝国500年の歴史は、スルタン独裁の時代から官僚中心の集団指導体制に変遷し、最後に近代化を取り入れた近代オスマンの時代に大きく分かれます。

⑴スルタン独裁の時代(1300年前後-1566年)

西アナトリアの複数のトルコ系武装集団の一派が勢力を伸ばしてバルカンに進出するとともに一大帝国化。絶対権力者としてのスルタンが直接統治した時代にオスマン帝国も、その版図が最大化しつつ、オスマン帝国としての体裁が整備された時代。一般にイメージされるオスマン帝国がこの時代の帝国。

傑出したスルタンのもと、ドラマや小説の舞台に登場するのも、特異な軍隊「イェニチェリ軍」が活躍するのもこの時代で、スルタン自身が軍の司令官となって各地を転戦し、領土を拡大するとともに周辺国を属国化。

なかでもメフムト2世によるコンスタンチノープル陥落(1453年:古代ローマ帝国の最終的な滅亡と同意)や、

スレイマン1世の聖ヨハネ騎士団(=イスラームにとってのキリスト教徒の海賊)が占拠していたロードス島の攻略(1522年)は、塩野七生の著作にもなっています。

そしてスレイマン1世とその妃「ヒュッレム」が主人公のテレビドラマ『オスマン帝国 外伝』もそこそこ史実に忠実なので歴史がイメージできてちょうどよい。

スルタンの代替わりには、最も優秀な皇子が後継に選ばれ、皇太子がスルタンになった際、残された兄弟は禍根を残さぬよう全員処刑されるなど、優秀な血統を維持するための制度も、西欧や中国にはない独特なしくみ(=兄弟殺し)。

⑵オスマン官人が支配した時代(1566年-1789年)

スレイマン1世が1566年に崩御してのち、その子セリム1世より近代オスマンまで、スルタンが政治に直接かかわることは、殆どなくなりました。

セリム1世が即位してからは、オスマン官人が権力を巧みに操ったというよりも、セリム自身が政治に興味がなくなってしまいます。

スレイマン1世までは、皇太子の時代に自分の家臣団を育て、即位とともに彼らを要職につけるのがオスマンの慣習だったのに、スレイマンの時代があまりにも長く続き、組織が固定化してしまったとともに、後継争いが激化してセリムの資産は枯渇し、恩賞を要求したイェリチェリ軍(※)を抑えることに四苦八苦して、結局先代の官僚組織に頼らざるを得なかったのです。

※イェニチェリ軍(スルタン直轄の歩兵軍隊)
14世紀前後に誕生した常備歩兵。15-16世紀には火器で武装しスルタンの周囲を固める少数精鋭のスルタン直轄の軍隊を構成した。その構成員は異教徒(主にキリスト教徒)の子どもたちを集めて(デヴシルメという)、スルタンの配下で育て上げた「スルタンの奴隷」。一部、侵略によって支配した地域の支配層の子弟をスルタンの奴隷として徴収する場合もあった。こうした人質の慣習はオスマン以前からバルカンやアナトリアで続いていた風習で、オスマン固有の風習ではない。17-18世紀には地方都市への駐屯が始まり、身分の世襲化・在地化が進んだ。1826年廃止。

この結果、スルタンはトプカプ宮殿奥深くに閉じこもって政治にほとんど関与しない時代が続くのですが、逆に官人による集団指導体制は、政治に安定をもたらし、その後のオスマンの平和を続けさせる大きな要因ともなったのです。

国家は、税の徴収によって成立するわけだから、最も重要な政策は「いかに徴税するか」ですが、スルタン直属の官僚による徴税から、この時代は徴税を外部委託するしくみに徐々に変わります。地方の有力者にたいして終身で徴税を委託する制度を導入したのです(終身徴税請負制)。

委託したからといって請負者の自由にさせていたのではなく、財務長官府がその請負権の状況をしっかり把握していたので「有力者による既成秩序の蚕食」ではなく「中央政府により管理された徴税の分担の進展」だったと著者が紹介。

これら終身徴税権を受託したのは、地方の有力者で主に「アーヤーン」と呼ばれていた都市や農村の不動産業や金融業なども営んでいた血縁一族。最後には独自の軍隊まで保持し、中央政府がアーヤーンの反乱には別のアーヤーンの軍隊を差し向けるなどの対策も。

デヴシルメも16世紀以降減少し、有力者の地縁血縁で官僚や軍人が組織化されていくのですが、これもスルタン独裁制から官人による集団指導体制に代わった象徴かもしれません。

⑶近代オスマン帝国の時代(1789-1922)

天皇を復権させ、天皇中心の近代国家をめざした明治維新からさかのぼること100年。西欧近代化の潮流に最初に影響された西欧以外の国家がオスマン帝国でした。

度重なるロシアとの戦争(露土戦争)によって疲弊したオスマン帝国は、官僚出身の政治家たちの起案により、近代化に向けた変革がスタート。この改革を主導したのがセリム三世とマフムト二世。

特に変革させたのは中央集権体制で、特にイスタンブルで隠然たる力を持っていたイェニチェリ軍と、地方に割拠し政府の統制に従わないアーヤーンたちの力の弱体化とスルタンの復権。

今風に例えると、帝国が長年継続することで既得権益が固定化し、その既得権益を保持していた保守派(=イェニチェリとアーヤーン)の既得権益をいかに奪うか、が改革のキモだったのです。

そして統治力を強化するには、まずは軍事力を手中に収めることが第一。砲兵隊を強化するとともに「ニザーム・ジェディード軍(1793年)」という新歩兵部隊を創設。一度イェニチェリ軍との争いで敗退・解散したもののマフムト二世の代になって復活。

1820年以降、アーヤーンとイェニチェリ軍が中央政府から排除されて、ウラマー除く全官僚の服装が洋装に切り替え(トルコ帽はこの時できた)。新たに人口調査してムフタールという地方官僚を整備。アーヤーンへの委託を廃止して中央直轄型の統治機構に戻したのです。

最終的にはマフムト二世の後を継いだアブドゥルメジド一世のもとで1839年に発表されたギュルハネ勅令で近代オスマンの理念が制度化。

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⒊オスマン帝国はなぜ500年の平和を維持できたのか?

オスマン帝国は、以下の三つの政策によって維持されたと著者はいいます。

直接支配域を属国や辺境諸州で囲み、戦争によって外からの干渉を排し、内側の平和を維持する。
⑵イスラムとその法に基づき、正当制を主張する。
⑶中央集権的な官職体制と軍制に基づき、効率的に全土を支配する。

つまり軍事力イスラーム教中央集権体制です。

中でもイスラーム教に関しては、もともと創始者のムハンマドが、唯一神アッラーのもと、アラブの慣習から脱却してどの部族でも対応可能になる、という目的にもとづいて「神の預言」として創造された世界宗教なので、どんな共同体でも受け入れられる寛容なそのイスラームの性格が、これだけ大きな領土を長期間統治できた理由ではないか、と思います。

基本、イスラーム国家は異教徒統治については地区ごとにモザイク状の形で棲み分けし、キリスト教徒やユダヤ教徒など、それぞれの地域ごとの宗教集団を一つの単位として受け入れ、異教徒のみに適応されるジズヤ(人頭税)をその代表者に徴収させて、中央政府に納付させることで共存を図ったのです。

一方で、イスラーム教徒には、異教徒よりも税が軽い代わりにジハードを義務化し、戦争の際にはイスラーム教徒のみが徴兵され、キリスト教徒やユダヤ教徒は戦争には駆り出されませんでした(デヴシルメで集めた異教徒の子供たちは除く)。

イスラーム教徒にとって、ジハードによって戦死すれば最後の審判を待たず「天国直結」なので、戦争とは可及的速やかに天国に行ける近道だったのです。

このように強力な軍事力とスルタンの権威を裏付けにしたイスラームによる寛容な政策が、オスマン帝国を500年間生きながらせさせたのです。

とはいえ、オスマン帝国は、過去のイスラーム帝国とはその性格を異にします。というのも、オスマンの仕掛けた戦争の目的は「イスラーム世界拡大のため」というよりも「俗的な現世利益拡大」、つまり領土獲得による権益の拡大にあったからです。

過去のイスラーム国家(アッバース朝、ウマイヤ朝など)はイスラームの理念に基づく宗教国家ですが、オスマン帝国はむしろ「イスラームの理念を活用した俗的イスラーム国家」といってもいいかもしれません。

▪️宗教の時代から民族の時代へ:オスマンの解体

このように、日本と似たような王権復活を伴う近代化によって一時はその体制が強化されたオスマン帝国ですが、近代化に伴う宗教意識から民族意識への移行によって、領土内のそれぞれで民族意識が勃興し、エジプトやセルビア、ルーマニアなどの地域が分離独立。オスマン自身も20世紀に入ってその流れに抗うことはできず「トルコ化」していきます。

そしてオスマン解体のこの時代の流れとともに、欧米列強&ロシア、特にイギリス・フランス・ロシアの利害が錯綜した結果、今に至る国際政治の悲劇が起きるのです。

具体的にはパレスチナ問題、イスラエル中東戦争、クルド問題、シリア内戦、イラク解体、旧ユーゴ紛争など、これら国際政治の悲劇は、ほとんどがオスマン解体に伴って、オスマン旧領土が西欧列強の食い物になった結果。

人工的な国境線が生まれ、わざと仲違いさせるような統治体制が作られ(シリアやイラク)、イスラエルがパレスチナに強引に建国され(バルフォア宣言)、などなどの中東の悲劇(詳細は以下参照)。

アナトリア地方では、ムスタファ・ケマル(アタトゥルク=トルコの父)という強力なリーダーのもと、宗教国家=オスマン帝国を否定することによって民族国家=トルコ共和国を建国しようとする動きが生まれ、それが今のトルコ共和国となったわけで、なぜトルコがあそこまで政教分離にこだわっていたのか、がよく理解できます(エルドアン体制長期化によって最近はその揺り戻しが起きている)。

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このようにオスマンの歴史は、国際政治を語る上では必須の知識。イスラーム教と合わせて学ぶと世界情勢が、手に取るようにわかるので、歴史はもちろん政治に興味ある方にとっては、決して時間の無駄にはならない著作だと思います。

写真:トルコ コンヤ メヴラーナ博物館

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