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宇宙一の幸せを感じた日

キラキラと輝いていたあの頃。若く美しく、これ以上ない程に愛されていたあの日。もう一度だけ、あの日に帰れたらと、何度思った事だろう。

30数年前、私は何もかも振り切り、日本を飛び立った。若かったから自分の夢を追いかけることで誰かを傷つけることを考えられなかった。夜行列車に乗って一人東京に向かい、飛行機のシートに座った時は興奮だけが私の心を満たしていた。

生涯を共にしようと誓った人を残酷にも一人残して、手に入れた夢とは何だったのだろうか?言葉の壁や人種差別と闘いながら、毎日を過ごし少しず図太く生きていけるようになった。就職、リストラ、大学進学、就職、リストラと何度も繰り返しているうちに、私は残してきた大切な物を忘れて行ったの。

何度つまずいても、一人で起き上がり、異国の地で頼る人もいない。それでも私はその地にしがみ付き、帰国を嫌がった。なぜ?あれほど帰国を嫌がったのだろう?私はあの人を忘れたかったのかもしれないし、憎んでいたのかもしれない。毎日不機嫌な顔で仕事から戻るあの人を、見るのが怖かったから。私が「海外に行きたい」と言った事が原因なのか、それとも他に理由があるのか?思い出しても辛いだけだった。

あの頃は、怖くて聞くことが出来なかった。ただ、自分はもう必要とされていないんだなという事だけがわかった。一緒に居ても寂しいだけだった。私は逃げたかった。現実から逃げたかった。長い月日の間に、強い感情は薄れていったけれど、何かの拍子にふっと思い出して、懐かしいのに胸に突き刺さる感情。それさえも、いつかは愛おしいと思えるようになれるのだろうか。

あの日から、30年以上が過ぎ、私は帰国した。ある日、私は「帰りたい」と思う様になった。嫌になったとか、十分だと思ったとかではなく、ただただ「帰りたい」と思った。帰国してから、何度も二人で住んだあの街を思い浮かべたけれど、自分が嫌われた事であの人に忘れ去られているんだろうと思うと、怖くて訪れることも出来なかった。それでも、私は忘れた事は無かった。嫌われるよりも忘れ去られる方が、恐ろしかった。

もし、あの人が普通に幸せなら、私が壊してはいけないんだ!と強く自分に言い聞かせた。帰国してからは、帰国子女がぶち当たる様々な問題と中年女性に課せられた差別に直面し、へとへとに疲れてしまっていた。その疲れと怒りを労働運動にぶちまけた。あっという間に私は、会社や組合員から怖がられる存在になっていた。会社や警備員、警察、市役所に対し、公共の場所で自分の主張を押し通し、目立つ存在となり、世界中のメディアにも取り上げられた。

そんなある日、私のSNSのアカウントに「おかえり」と一言書き込んでいる人がいた。ん?なんだこれ?私が自分のアカウントに書き込む内容は、労働問題と労働運動に特化していた。美味しいお店や旅行の写真などは一度も載せたことがなかった。というか、そんなものとは無縁の生活をしていたからだ。何だか気持ち悪いなと思い、無視していた。大方、右翼や労働組合を良く思わない人の嫌味な書き込みだろうなと、思ったから。

その二日後に、また同じアカウントから書き込みがあった。「おかえり。。。この車覚えていますか?」よく見ると、そのアカウントの写真は水色の玩具の車だった。それは30年以上前、私があの人にプレゼントした車だった。懐かしい思い出と一緒に、蘇る痛いような心の思い。「まさかね」私は声に出して、そういっていた。

私は躊躇した。騙されてるのかな?なりすましなのかな?もし本当にあの人なら、なんで今頃?どうやって私を見つけたのかな?頭の中で色んな言葉が巡りだした。嬉しいような、辛いような、懐かしいような、でも、認めたくないような。思い切ってDMするのに、少し時間がかかった。誰かに騙されているのだろうか?

迷いに迷った末に「今、幸せですか?それなら嬉しい」とDMを送った。直ぐに返事が来た、それは長い間私を探していたという内容だった。混乱した私は、何故私があの人に探されているのか理解できなかった。探すわけがないじゃないの?あれほど私を嫌っていたのに。日に日に、帰宅時間が遅くなり、起きて待っている私を見て不機嫌そうだった、あの人。クリスマスイブも夜中近くまで帰ってこず、プレゼントもくれなかったあの人が、なんで今頃、私を探すの?

まだ、信じられず、誰かに騙されているのかと疑っていた。でも、何で知ってるの?私達はDMを毎日何度も送り合った。私は嬉しくて、会いたくて、嫌われていなかったことに感動していた。それだけで十分だと思った。本当は会いたくて堪らないのに「私達は会わない方がいいね」と書いた。そして、子供の頃からひねくれている自分を呪った。きっと、誰かと幸せに家庭を築いていて、仕事も順調で幸せだけど、懐かしいだけなんだろうなと考えた。事実を知るのが酷く怖かったから。

あの人が不幸だなんて、私は信じたくない。一人で寂しいなんて信じたくなかった。あの頃と変わってしまっている自分が恥ずかしくて、見せられないとも思った。化粧やお洒落もせず、髪はバサバサで、街頭宣伝とデモに明け暮れる日々。一人でいるのが嫌で組合員達や市民運動家達と毎日のように酒を飲み、議論をぶちかましては、「社会を変えるんだ」と息巻いている私を理解してくれるなどとも思えず、あの人はきっと昔の私を求めていて、会えばがっかりするだろうなと思い、自分で自分を笑った。

あの人が、私がこの世界で一番愛したあの人が、起こしてくれた小さな奇跡に感謝しながら、昔話ばかり思い出しては、布団の中で一人で泣いた。私は韓国のドキュメンタリーに取材された事がある。その中で大阪市役所で私は、大阪市長に直訴し、野宿者の人達と一緒に市役所で職員達相手に10万円の給付金を巡って何度も衝突した。

そのドキュメンタリーの中には、私が手にしたチラシを一人の市の職員の顔に投げつけるシーンや、病院の前の警備員に怒鳴り散らすシーンがあった。ああ、こんなの見たら活動家や組合員以外の人は、逃げ出すよなーと私は苦笑いした。他の人達も、もし、あの人があのシーンを見たら、怖がるよと言って笑っていた。そうだよな、その通りだと私も笑った。

そうだよ、もうあの頃には戻れないんだ。あの若くて、自由で何も考えず自分の夢だけを語っては、何でも手に入ると思い込んでいた日には。私は本当に大事な物を手放してしまった。二人で笑って、抱き合って、それが永遠に続くと勘違いしていたあの頃。あの頃に帰れたら、私はあの人に何を言うだろうか?私を宝物の様に大切にして、ずっと一緒にいると信じていたあの人を抱きしめて「ありがとう」というだろうか?

一度でも、あれほど誰かを、これ以上好きになれない程、好きになれた私は幸せなんだな、そして、あれほど愛された私はこの世界で一番幸せだとわかったよ。もうこの先、二度と起こらない奇跡でも、起こったことだけに感謝して、起こしてくれたあの人に心から「ありがとう」と言いたい。私は本当に、世界一いや、宇宙一幸せだと感じたから。







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