読書感想文(KK著『ケアとしてのクイズ』)

https://note.com/nowasan/n/n869b2805008c

・KK先生の(当時の)最新作。ありがたやありがたや。果然、文章の丁寧さが段チである。浮かんでくる疑問や反論を逃がさず、しらみ潰すように、うねうねしている。そして、脇も後ろも抜かりない。
・先生ならではの渾身の一作を、楽しく拝読させて頂きました。読み終えて、ただただ人間のエナジーは凄いなと感慨にふけっております。
・興奮状態のまま書き付けた生の感想文が、あまりに長くなってしまったので、先ず手短にまとめておきます。

・色々と細かな所感はありますが、素晴らしい!と思った点について、主に次の3点を挙げたいと思います。

その1.概念構築がちゃんとしてて素晴らしい!
その2.文章が巧みで素晴らしい!
その3.キャッチーな新概念で素晴らしい!

・順に触れていきましょう。

その1.概念構築がちゃんとしてて素晴らしい!

・1つ目の素晴らしポイントは、「クイズの定義」や「競技の定義」といったうやむやにされがちな諸概念について、ちゃんと地に足が付いた形で言及されている点です。これは、今までちゃんと言及した人は見たことがなかったので、読んでいて実にちゃんとしてるなと思いました。
・先生は「クイズの定義」の節で、こう述べています。

クイズとは「問い」と「答え」をめぐるやりとりの総体である

・これはクイズを広く捉え、クイズの本質的な特性に迫っていける、クイズ研究の初手として、よい定義だなと思います。
・加えて、次のようにも述べています。

「問い」と「答え」との偏差をめぐって、出題者はある意味では「この問いにたいしてこの答えを出す回答者はどんな人なんだろう」という答えを探す立場になっているし、解答者はある意味ではそのような問いを提示する立場になっている。問いと答えを介して出題者と解答者がたがいに想像する、こうしたややこしいプロセス全体をクイズと名づけたいのです。

・Quizologyでいうところの「作問と解答の双対性」ならぬ「出題と回答の双対性(ABCプロセスの双対性)」にも触れており、はじめからこれを織り込んで論を進めていこうとするあたりが、東洋的アプローチを得意とする先生ならではのスタイルだなと思いました。

  ◇  ◇  ◇

・ところで、Quizologyの世界線では、何人かキーパーソンと呼べる人がいます。考古学の教授でもあるArthur.Lee(アーサー・リー)という人物も、その一人です。
・彼は、次の言葉を残しています。

"クイズ行為"とは"クイズ問題"を使ったRBCプロセスである。

・あわせて、もう一人。アーサー教授の友人であった、日本のルドロジー研究者の野間音次郎は、更にこう付け加えています。

"クイズ問題"とはOFPmネットワーク、それ以上でもあり、それ以下でもある。

・Quizologyにおける「クイズの定義」を、クイズ行為としてのRBCプロセス、そしてクイズ問題としてのOFPmネットワークにより定める、という総ての基礎となる考え方。クイズを、行為と問題とに綺麗に腑分けし、全体マップにおいて個々のクイズがどこに位置するのか俯瞰できるようにした、可能性の追究の礎となるクイズの捉え方です。
・一見するとシンプルすぎて当然のことを言っているだけで味気なくも見えますが、持論を主張するに誂えた狭く独善的な定義ではなく、形式的に対象を表現するこのクイズ観に、ちゃんと言及した人は見たことがありませんでした。(数年前のユリイカでの山本さんの文章が、ようやく入り口に立ったぐらいぜよ。)

・今回のKK先生の文章では、このようなクイズ行為として定義されるクイズ観に近しいものを示しており、先ず、最広義のクイズ観を示した上で、そこから制約要件としてコミュニケーションを加えている点が素晴らしく、今後の展開可能性を感じました。

・また、この他にも、クイズ行為の性質のひとつである「ABCプロセスの双対性」に言及し問題解決へと応用していた点も素晴らしいと思いました。「ABCプロセスの双対性」は、クイズそれ自体の特性を探求するクイズ基礎論において、概念として用意だけはされていましたが、それを具体の問題状況の分析・記述や、問題解決まで繋げることまで手を伸ばせていなかったので、自分としても新しい知見を得ることができ、久し振りに興奮しました。
・その他、競技クイズを「能力をはかるクイズ」と捉えており、より抽象的で、企画者論の基礎概念である「ゲーム決定素分析」への繋がりを感じさせていた点で、素晴らしいと思いました。

その2.文章が巧みで素晴らしい!

・2つ目の素晴らしポイントは、文章が見据えている目的の素晴らしさそれ自体もさることながら、それに至る手法の巧みさを挙げたいです。これには感激しました。
・先生の文章では、ケアとクイズの関係を数々の事例を通して紐解いていく中で、既存のクイズ観が有する健康さと不健康さとを見事に看破し、既存のクイズ観を更新するために、どのようなクイズ観を示せるかを模索し、元々そこにありながらも注目されて来なかったクイズ領域の可能性に肉迫しています。
・「分かち合うクイズ」という結論に至るまでに、一見関係が薄そうな新たなトピックに触れながらも、時に引き締め、しかし、忘れかけた頃にまた持ってくる。外側から内側へ、内側から外側へとじんわりと理解していく。深さキョリ2がもたらす効果を巧みに使っている文章でした。
・読みながら、次はどこに行くのだろう?これをどう繋げていくんだ?と何度も不安になりかける頃合に、ピシャンと本筋に戻す一手を打つ。ンンンん~~!この巧みさよ!と唸りながら読みすすめていました。
・具体には、伊沢拓司が忘れた頃にやってきたり、バラエティへのつなぎにナンシー関が入ってきたり、それをセネカでつないで人生40年を抽出したりと、もううねうねうねうねですね。私が「面白さ」や「不思議さ」、「わかりみの深さ」に通じるキー概念だと考えている「深さキョリ2」のパタンが数珠つなぎで潜んでいる、不思議でありながらも未知の世界へ連れていってくれる素敵な文章でした。

その3.キャッチーな新概念で素晴らしい!

・そして、3つ目の素晴らしポイントは、「ケアとしてのクイズ」というキャッチーな言葉で、新たな視点を提示したことです。ケアとしてのクイズ、なんとキャッチーなフレーズだろうか!!
・「ケアとしてのクイズ」、これほどまでに耳あたりのよいフレーズは発明だとも言えるでしょう。言葉は、コピーライターが職業として成り立つように、それ自体が発明です。「ケアとしてのクイズ」は、カッコいいし、キラキラしていて、前向きな印象を与えてくれます。とてもキャッチーな言葉だと思います。
・ただ、言葉は独り歩きすることがあります。先生の意図とは裏腹に、言葉の綺麗さだけにひかれて、「ケアとしてのクイズ」をお題目に掲げて弱者救済を押し付けるような、それこそ本来のケアの本質を理解していない使い方がされないかは、少し心配ではあります。
・Quizologyにおいては、クイズのケア的な側面(というより非ケア的な側面)を扱うこの領域は、ポストアンゴルモア期の諸問題が一定の解決をみた後に掲げられた、真のプロジェクトミケルセンのトピックであり、2010年代後半以降の、比較的近年の話題となっています。確かな道を一歩一歩、共に歩む「技術」。現実がQuizologyの世界線を追い越す未来もあるのだと感動しました。

・ファンレターが長くなってしまいましたが、要点をまとめると、こんな感じです。

・具体の「分かち合うクイズ」の方法論・技術論は、先生のこれからの研究テーマとなるのでしょう。Quizologyの知見からもお手伝いできる部分が多々あると思いますので、ちょいちょい滲み出していきたいと思います。
・先生の研究の行方がどこへと向かうのか、何を生み出すのか、1人のファンとして、また、在野クイズ研究者の在野研究者として楽しみにしています。


以下、元となった感想メモ。
(雑多、注意。)






・完ッ全に見落としていた。既に11もスキ!がついている。今週はヒスイ地方の住民になっていたので、気が付かなんだ。(みんなもポ〇モンGETじゃぞ~。)

・タイトル。「ケア」か。何か広そうな意味。単に、クイズによる療法とか心の健全化だろうか。それとも、それ以上の深い洞察に触れるか。ふむ。
・「ケア」を狭い意味だけで捉えて論じているとすれば、個人的には、もにゃる。無論、KK先生である。これは要らぬ懸念であろう。
・病的な状態をクイズによって健全な状態にもっていく、クイズを投薬的に用いるのもできなくはないが、ちょっと違ってて、いや違ってはなくて、というか、視座を見落としかねないと思ってて、健やかな状態が先ずあって、それがクイズを邪魔しないようになるという感じだと思う。クイズが主で目的。健康はその前提。無論、結果から元に波及するやり方もあり、その方法を探求するのも面白いんだけど、ケアを「なぐさめ」の意味でとるならば、クイズに寄りかかり続けることにならないように注意せねばならない。自己肯定の手段が他者からの評価ではなく、他者への関心へと向かうようなところまで含め、ケアだろうと思う。

・個人の信念に首をつっこむことはない。ただ、その信念に自分で納得する分にはよいが、他人に迷惑をかけ始めると問題である。そんなスタンスだ。
・なんというか、救われてなければならないのだ。他からみても気持ちよいクイズをすることが健全なクイズなのだろう。
・さて、「ケア」。どんな病的状態が取り上げられるのだろうか。要求、欲求に対し、現状が満たされていないままだと病的状態になる。承認欲求は、気持ちよく処理してしまおう。

・目次。……すごい。
・クイズの不健全さ、クイズの定義、エンパシー、ナンシー関、人生の長さについて(セネカだ…。)、「脳ベルSHOW」と「クイズダービー」、「分かる」から「分かち合う」。
・すごい、すごいぞ! 予想していた以上の大作! これは腰を据えて向かわなければなるまゐ!
・丁寧に、そしておそらく、KK先生の昨今の関心の行き先と、そこで得られた見識とを順に巡っていくのだろう。これはやばい。
・はやく図鑑を完成させてポケモンマスターになりたいな、ならなくちゃ、いや、絶対なってやる!

  ◇  (-@-)  ◇

・さて、残念ながらポケモンマスターには、なれなかったが、ヒスイ図鑑は完成し、遂にマンテンボシとなった。エンドコンテンツの消化に入り目途もみえたので、やっとヒスイ地方からこちらに戻ってこれたぜよ。
・楽しい時間だった。そして、お待ちかねの、また楽しい時間。さて、どんな感じに展開していくのだろうか?順に読んでいこう。

  ◇  ◇  ◇

1.ケアとクイズとのかかわり

・ふむ。ケアって何?ってお話ねぃ。

・ほほぅ!世話とか慰めという狭い意味ではなく、もっと根本の、注意や関心の方の意味でケアを捉えるのね!抱いていた懸念が一気に払拭されたぜよ。ちゃんと、「病人にたいする「ケア」では必ずしもありません」としている。
・関心のありよう、注意(Aweaness)についてのクイズのお話ならば、実にQuizolozy的ぜよ!クイズの奥の方の、だけど始まりの方のお話。問い、答えることのお話。そして、OFPmmrccの「c」の部分のお話だ!これは期待が余り高まる!

クイズをつうじて、われわれは日々接する人や物事にたいして、どのような関心をもち、どのように配慮することができるか。それによって、われわれの生活をいかに豊かに、かつ健やかなものにできるか。

・表現が丁寧ぜよ。いつもながらの丁寧な筆致。いいなぁ。

・話は変わるが、これからの時代(いや、既に?)人々の「注意力」は、企業が奪い合う対象となるみたいな言説をどこかで目にしたことがあった。どこだったっけか。あぁ、アテンションエコノミーだったか。
・時間は大事なのだろう。大事ならば、動き過ぎてはいけない。ベストとはモアベターである。一歩ずつ一歩ずつ、身の丈から始めよう。そのためのデザイン論としての技術的な側面からのクイズ論が、もっと盛んになってくれないかなぁとぞ思う昨今である。
・デザインの視点からクイズを語れる方、どこかにいないのかしら。疑問文以外でも問いを想起させる文書とか。広告のキャッチコピーやってる人なんかは、語れる部分あるんではないかしら。自発的に判定し、学習し反省しやすい構造の話とか。様々な心理障壁を解消するクイズの場や明示化されたお約束づくりなど。組織論から攻めることもできると思うのだが、伊沢さんあたり、一家言ありそうなものだけどなぁ、経済学部だし。経営組織論の知見にクイズの知見を絡めれば、立派なコミュニティ論になるのだが。ふむ。
・多分、彼が(彼らが?我々が?)いずれ整理することになる部分だと思う。
・その際に、この「関心」や「注意」の仕方、それを引き出すデザインの方法論の話は、熱く語られていくのかなぁ、と思う。

・Q.逸れるものってな~んだ? こたえ.話
・戻ろう。

・さて、クイズの不健康さ、か。そうね、クイズと他人に配慮すること、他人に関心を持つことってのは、世間一般からすると、繋がりはピンと来ないよねぃ。
・『問答企画百物語』のラスボスのように、「クイズはソリティアだ」とか、「他者など知れている。そして、知りえない。しれて、しれている。世界を探求し、すべてを支配する我が覇道において、他者など雑念でしかない」とか言い出しかねない。

・伊沢さんだ。「知の本質を歪めかねない」。ふむ。
・知の本質って、ことばがでけえので危ういんだけど、要はスリコギ問題のことだな。
・まじの歪みねえ求道者が求めているのは知の本質とは言えないのかという、も少し聞いてぇやといいたくなる物言いが来そうなものだが、ちゃんと「だからといって、クイズの強さを追い求めることの意義も失われません」とカバーしている。さすがである。

・クイズは と き に 「不健康」である。
・ふむ。途中をすっぽかして知れる、不健康さね。フェルマーの最終予想の証明過程がわかんなくても、予想ではなく定理だとわかるようなものもあれば、スマホのように、中身がブラックボックスで、わかっていれば楽しいけど、わからないままでも楽しいものもある。それらも含めて、すっとばせるのは、魅力のひとつですな。うん。何というか、学問ってのはすっ飛ばすことができないからね。論理だから。

・「途中の関心だとか注意をすっとばしても楽しめる」のがポピュラーなクイズ観ならば、「ケア」が大事だと言うにあたり、ごっそり抜け落ちてるので、クイズ観を問い直していかねばな、と。ふむ。要は、ポピュラーなクイズ観って「ケア(関心)」がどこかで抜け落ちてる部分があんじゃね?ってことか。

  ◇  ◇  ◇

・んで、その前準備で、「クイズ」の定義か。先ずルーツ。

・!!
・そうよ、そうなんよ!クイズとは、クイズ問題を使ったRBCプロセスなんよ。伊沢氏の解体本の一章のとこで感想(まだ清書できてないが)をもった、クイズって、別にことばは18世紀からだけど、クイズ行為はもっと昔からあるんよってことよ!

「ぼうや、あれはなあに?」
「てふてふ」
「そうだねぇ」

もクイズなのだ。
・そして、記録上で確認できる日本最古のクイズ大会は、みのさんオープンなどではなく、平安宮中の歌会合なのだ。そして、そこでの様子から見ても、まさに、「配慮」が問答に重要な要素であったことが読み取れるのである。
・西洋的なクイズがOFPmrcモデルの左側から進展していくのに対し、東洋的なクイズはOFPmrcの右側から進展していくのだ。そして、2000年代のQuizologyの成果をもって西洋と東洋とが交わり、森羅万象DBによる恐怖の大王が打ち崩されるのである。

・……気を抜くと、すぐこうである。脱線よくない。

・そうね。「問い」を誰かが出題し、誰かが「答え」るというプロセス全体がクイズ。さもありなん。
・Quizologyでいうと、計算式(クワス!)はあくまでも「Question」であって、Question&Answerを使ったAsk、Back、CheckのABCプロセスが、クイズなのだ。クイズ問題とクイズ行為とは、ちゃんと峻別して話をすすめないと、煙の中に頭をつっこむこととなる。

・ほほう!「ABCプロセスの双対性」についても触れている!

問いと答えを介して出題者と解答者がたがいに創造するこのプロセス全体をクイズと名付けたい。

・きた!やっときた!N=1がN=2になった感動に、今、震えている。あえて言語化して、明示してくれた者は出会えなかった。十数年来の感動である。

クイズとは「問い」と「答え」をめぐるやりとりの総体である

そのやりとりは「出題者」と「解答者」を含意している

・この定義は、既存のクイズ観から可能性を拡げ探求していくための最広義の必要条件ぜよ。
・クイズとはABCプロセスである前にRBCプロセスなのだ。そして、OFPmrcの「c」はコミュニケーションのcでもあるのだ。

  ◇  ◇  ◇

2.エンパシーとシンパシー



・続く疑問。このような定義が「豊かさ」や「健やかさ」とどう関係してくるか?
・丁寧な立論だ。先生ならではの文章だからこそ、いみじけれ。

・ふむ。どうつながるか。豊かと健やかって何だろ?ふむ。

・「エンパシー」だ。そして、ブレイディみかこ氏だ。本屋で目立ってたので読んだことあるな、読書感想文にうってつけ!みたいに売り出されてたっけ。「誰かの靴を履いてみる」。むべなるかな。

・そう。お気持ちでおまんまは食べれない。亡き祖母からよく言われた「腹が減ったら田を作れ」と。泣いたって問題は1ミリも解決はしない。時間は問題を解決しない。解消しうるだけだ。
・大事なのは「能力」、そして、それを可能とする問題解決の「技術」なのだ。

・話が反れそうなので戻ろう。

・そうか、「感情」、「経験」を「分かち合う」「能力」。
・なんだか、すっごいエモい、面白っ!とか、凄っ!ってのを素に受け入れて、素で返して、自分も相手も一緒にわかるようにちゃんと伝えるし、ちゃんと受け取る。それはとっても素敵だなぁって、素朴に思う。

・そして論の流れはスムーズ。中だるみしそうな文末もカッコいい表現でピシャりと注意力を戻してくれる。読み手を意識してて技巧的ぜよ。
・なんでクイズにエンパシーのアドバンテージがあるの?他のと違うの?というのをみている。
・これは面白い!そう、こういうのですよ!こういうの!丁寧に概念をみていくやつ、抽象的なものを具体的にみていくやつ!問題の立て方が、シャキっとしている!

・きました。件の医学論文。これをクイズの有用性、そして、危険性へと通すのか。どうやるんだろ。

・「他者コントロールで自己を保つ」か、そして、なんでことさらクイズサークルなの?と、大学の非常勤講師なだけでもいいやん、と。これは鋭い。

・慧眼ぜよ。実にそうなのだ、クイズはそれだけでコミュニケーションっぽいことをやれた気になれるのだ。
・これは、10年以上前に、クイズ界のどなたかがTwitterでこんなことを言っていたのを思い出した。探したけど、探しきれなかった。
・クイズは誰でもできて、誰でもはできない、という一見して矛盾しているオクシモロンな面白い性質。これが、有用性と危険性なのかも。
・よみすすめよう。

・にゃる。クイズは「シンパシー」の負荷を減らす、か。さもありなん。
・もうちょっと細かくすると、シンパシーの中でも、自分の中でのシンパシーなのかと思う。シンパシーって他者に向いているようで自分に向いている場面が、特に病的なコミュ力の場合は多いのかなと。
・相手が不快に思うのではないかという不安と、不快そうなのはわかるがその理由がわからない、相手に受け入れてもらえない、拒否されるのでは?を乗り越えるコスト、能力、それがクイズは一部減らせてるんだと思う。

・人間は、ある行為に主体的であれ受動的であれ、物事を扱うときに、その理由を求め、「納得」を求める生き物である。
・大事なのは、理由の内容ではなく、納得ではあるが、納得するだけにたる理由の強さも必要なのだ。

・くどくなった。書き換えよう。
・たぶん、「クイズをすること」は、もっというと、「クイズとして問いかける」ことは、行為を発現させるための、また、行為を受け入れるに足る理由として機能しているんでないかと思う。
・ブランダムの推論主義の考えに沿えば、規範的語用論の視座から捉えてみると、クイズは共通の規範として受け入れられやすい強い規範なのだ。

・また、くどくなったな。
・要は、誰かと意思疎通をとりたいな、コミュニケーション欲を満たしたいなってときに、クイズってのは、うまーく理由付けとして機能してくれる。何の前触れもなく声をかけられても疑問符が浮かんで警戒されるが、クイズならば「あぁ、クイズか。じゃあ、とりあってみようかな」と納得を得られやすい。
・逆に納得を得られないとしても、もっというと、強い謎ほど、否応なしに残ってしまう呪いのような魅力を持つのだ。納得うんぬんを超えたその強さは暴力的である。
・ふと気が付いたら隣におちんちんおじさんがいて、「やぁ、君はおちんちんなのかな?」と聞かれれば、「うわぁあああああーーー!!!!」と叫んで逃げだすのが正解だろう。しかし、逃げた後でも「君はおちんちんなのかな?」という謎の問いは心に残ったまま、頭の中がおちんちんでいっぱいになるであろう。「問われた謎は、納得できないと、残り続ける」のだ。コミュニケーションとマニピュレーションぜよ。
・問うことにより、相手の納得を得られれば望み通り関心をゲットできるし、納得を得られずとも強い問いなら関心を残せる。妄言、呪詛、構って欲しいマンの挑発。バカと言った方がバカになるのは、それを相手にしてしまうからなのだ。どっちに転んでも望んだ結果となる。ボタンを押したら反応して欲しいし、問題を出したら聞いてほしい。もう透明な自分はいない。

・そして、同様に、受け入れやすいことがわかっているから、相手に働きかけるのに気遅れしくて動けないって時でも「クイズだから」と理由をつけて、ふんぎりをつけることができる。

・理由なんて何だってよい、納得できればよいのだ。
・「万引きなどしちゃいけない」「犯罪者だ」「あの高層団地の住人は社会の屑だ」のあとに「だから」と続ければ、暴力行為を正当化する理由ができあがる。吹けば飛ぶようなお飾りの理由だってよい。だって、自分は吹かれることのない強者なのだ、弱いやつのすることなど暴力の前では無力な弱いものなのだから。黙れ、お前のせいで、みんなが迷惑しているぞ、と。

・現状のクイズという規範は、誰かと交流をはじめる際の手段として強いのだ。

・その点で、「出題者は神」や「クイズの暴力性」にまつわる概念をアップデートし、「クイズ」に対する世間一般の規範(一般常識)を変えていくのは、色々とクイズをより楽しむ上での諸問題を解決するに都合がよい。KnowWhatのフレームを変えることは、ナラティブアプローチによる問題解決のKnowHowでもある。

・「一方的に問える」という権威性。これが、今のクイズという規範にはあるし、「出題者」なのだから、出題に専念するべしという規範で、逆に問われることも防げる。そんなイメージが一般常識(規範)になっている。
・これは実に明晰にクイズの権威性に触れている。うれしいことが続き過ぎて、うれしみがふかい。

「クイズは、ときに、人を権威的にする。」

・みんはやのフリー卓の出題動機にそんな動機があろうとは考えもしなかった。無自覚であった。
・たしかに、誰もきいてくれない。自分のことを「俺」クイズというルール(規範)にのせることで「俺の話をきいてくれ!」欲を満たす場とできる。この事例を考えると、まさにクイズは理由たりえやすい規範だなあと思う。俺の話でつたない表現の自分語りなんて、本来、自分にしか需要がないからな。(あとは子を愛する親とか、恋愛や畏敬の対象としている追っかけとかファンとか、あとは純粋なフィールドワークの研究対象としている研究者とかかしら)
・多くの人はタレントではない。

・にゃる。「他者と関わりたい欲を満たすクイズ」。これはメモだわさ。もっというと、他者より優れている欲も満たすのもあるから、これ危険なんだな、きっと。俺ルールで、一方的に問える気持ちよさ。現実にはそんなことはないので、至る所でトラブる。

※以下、ぐだめき注意

・2年ほど前、24時間フリバというオンラインイベントにお邪魔したことがあった。がっつり参加というよりは、どんな雰囲気なのかなと覗きに行ったというのが正確なところだ。
・フリー卓に入ると問題が読まれている。少したつと、「問い読みありがとうございます。お疲れ様です。問い読み変わりましょうか?」という方が出てきてくれる。ボランタリーで実にありがたい、よい雰囲気だなぁ。世界は平和だ。
・しかし、その楽観は、これから訪れる悲観の前ぶれ、地獄へと落ちるパラレル問題の前フリなのであった。和んでいた矢先、同日のうちに2つもの印象的な事件に遭遇することとなろうとは思わなんだ。

◯事件その1
・「代わりに問題よみましょうか?わたし、問題集をたくさん持ってますので。ハハハ。」
・突然の申し出。

・あ、これはアカン。
・ハンドルネームをみて、そう思ったが、この場では自分はニューカマーだ。傍観に徹さねばならない。
・「最近買ったので、まだ読んだ人がいないと思います(独断)」
・「皆さんには簡単かもしれません。私がクイズの勉強に使っている問題集です。」
・謎の前置き。早く始めてくれと、皆が思っている。

・読み始められた難問長文の問題集。
・スルーが続き、舌足らずで過呼吸気味の問い読み。スリーカウントの後の静寂に、問い読みの向こう側から、遠くカエルが鳴き合う声が聞こえる。
・あぁ、いとあはれ。さっきから、他の人の問い読み中に、マイクをオフにしてくださいと再三呼び掛けても応じてなかったのは、やはりあなたでしたか。

・続く静寂に耐えられぬと、誰かがボタンを押す。
・ブー。「本ッ当にごめんなさい。それじゃないんです。本ッ当にごめんなさい。」
・長ったらしい弁護と、誤答者を逆なでしかねない余計な一言二言。
・ことあるごとに、何もないところでも、「ごめんなさい」の一言が入る。
・場の空気が重い。大事故だ。マイクの後ろでカエルがないてる。

・体感はもっと長かったろうか。10分ほどして、部屋移動の時間となった。
・24時間フリバでは、長屋クイズアリーナというサイトを使っており、サーバーの定期更新で部屋が落ちてしまうのを避けるため、定期的に部屋をいったん閉じて、移動をするのだ。しかし、誰か1人でも部屋に残っていると、部屋を閉じることができない仕様になっており、他者から強制退出させることはできないので、一斉アナウンスにあわせて各自退出する必要がある、のだが、元いた部屋をみると、まだ一人残っている。
・たぶん、さっき最後に問い読みをしていた、あの御方だな。と思って、それとなく、「すみません、部屋にまだおひとり入ったままの方がおります?」とDiscordのボイスチャンネルに呼びかけてみる。すると、他の参加者が「〇〇〇〇〇さんだと思いますよ。部屋替えの時間なんだから早く出てください!!」と声をあげた。すかさず、「す、す、すみません。えっと、あの、どーやって退出すればいいんですか?これ触っても大丈夫なんですか?」と返ってくる、そして「ちゃんとルールとか注意書きに書いてますよ!とにかく邪魔になっているので、見えてる画面を全部閉じて出ていってください!!」という旨の強い口調が響いた。
・まぁ、先ほどの問い読みなど(過去の所業など)のフラストレーションが溜まっているのだろう。さもありなんという感じではあるが。
・何だか、プロジェクトミケルセンって、ノーマライゼーションと同じで、物理的なものを解消した先の心理的な部分を整えるのがまだまだだなぁと思う。何というか、救われてなきゃならないんだと思う。

・今思い返せば、問い読みを買って出た彼のこういった態度や言動の端々は、この「他者と関わりたい欲」と「他人に優越したい欲」という煮え切った思いが、クイズと言う規範の鎧を伝って流れ着いたものかもしれない。

◯事件その2

・んで、心機一転、部屋替えで別の部屋に入る。
・ある意味で幸運なことに、部屋替えの先でも、また事件に遭遇した。

・集まって早々、読みたい方がいなければ問題をわたしがよませて頂きますと率先して司会権をとった方がいた、ありがたい("司会権をとる"って、この書き方よ、、)。しかし、どうも喋り方が過去に耳にした知識ひけらかしマン特有の抑揚に似ており、声も高い。嫌な予感しかしない。
・人が集まるまでには少し時間があるのだが、その間、彼は参加者のうちの、おそらく顔見知りの数人に向かって、自分が転学しただのなんだの、え?そのこと知らなかったの?だのと、よくわからない話を楽しげにしている。
・またか……、といった感じだ。人が集まるまでのフリータイムなので、何を話してもよいのだろうが、知らなかったの?って他人の学歴など誰も興味ないでしょ、、と思いながら待つ。ニューカマーの自分には長い、、そろそろ人が集まったのだが、早く始まらないかなぁ。。
・長々しい近況独演会によると、どうやら大学院にいるそうで、オフラインでのクイズ経験も長いようだ。それもあり、先程までの語り口調と違って、問い読みが始まると、とても綺麗で丁寧なCDにやいても問題ない問い読みだった。これは意外であった。他人のクイズの巧拙を、声色や普段の言動で判断してはならない。人って、でこぼこしてるなぁと、実に思う。
・自作問題を読んでいたようだが、やや難しく、数学の問題が出たときは数学的な定義がどうのこうのと解説のようなことを度々はさもうとしていたが、正直よくわからんかった。吾は無知なり。

・イベントが終わった。
・皆はどんな感想持ったのかな?とTwitterを検索していると、たまたま、主催の人とめちゃくちゃにバトルしていているアカウントを発見した。
・どんな人かなぁとTLを遡ると、先程自作問を読んでくださった、やたら声が高くて自分の話をしたがる人じゃあありませんか。わお。
・オンラインコミュニティでの過去のあれこれを堀り返されていて、あぁ、なんだかなぁ。。と思った。高めあうとか、啓蒙するとか言って他人に接触してくる人は恐ろしいなぁと思う。

・もう少し眺めていると、そのお方のプロフィール欄に、興味深いタイトルの電子書籍を販売していたのを発見。その名も「現代数理科学的クイズ論」というレーベル名だそうだ。
・胸を打たれるタイトルだ。Quizologyでも数学(というより応用先の情報科学)的な体系がクイズ問題、クイズ形式に至るまで構築済であり、このように銘打つからには、どんなことを言っているのだろう、数学の専門家が考えることが、自分があれこれ考えたのとどこまで一緒かな?超えて来るかな?と期待と想像を膨らませて購入。お値段200円。
・わくわくしながらクイズ問題を読み進めていくと、最後に「究極の問題」と称して、クイズ論っぽい問いかけがなされていた。
・その内容は、購入して是非確かめてみて頂きたいのだが、答えを見て、自分としては肩透かしを食らったのだ。ちょっと怒りさえ覚え、その後、とても悲しくなった記憶がある。

・ところで、この「究極の問題」とは1ミクロンも関係ないのだが、本当にこれっぽっちも関連しないのだが、今回のKK先生のノートのなかで「競技クイズとはなにか」という項があり、そこに次のようにあった。

われわれ個人の内面にある競技的な意識イコール「競技」だとするならば、あるものが競技と見なせるかどうかは結局その人しだいということになり、「クイズ」の在り方や、「競技」の在り方について、いかなる議論も成立しなくなってしまう。個々人の「私はこう考える」「私の経験はこうだ」といった見解ばかりが谺することになります。

・むべなるかな。といった感じである。
・加えて先生は「能力を競う」という観点で競技クイズを定義することを提唱しており、「ゲーム決定素分析に言及しうる人が遂に出るか!?」と、これまた嬉しくなる我が身である。

・「究極の問題」が気になるお方は、そのワクワク感をもって、ご自身で確かめてほしい。200円で有料販売されているものなので、究極の一問が何であったかは、ここには書けない。堪忍。きっと、面白い究極体験ができると思います。

・しかし、このように、(ブーメランではあるが)「俺の話をきいてくれ!」がクイズと言う場で横暴をふるってしまう。
・誰も謙遜して、空気を読みつつ出題者になろうとしない中、ハイ!ハイ!俺の話をきいてください!と、空気をよめないごめんなさいな方が手を挙げ、そのままとおり、特に何か言えることもなく朗読会を聞くことになる。

・クイズはときに権威的で魅力的になりうる。
・権威をもった自分の姿は、自分からは絶対的に魅力的にみえるが、他者からみても必ずしも魅力的にはみえない。本当に魅力的なのは、互いの思いやり、「徳」に沿った、おもいやりのある、いばらない、満ち足りている人なのだと思う。そして、苦言が出たら、素直に受け止め、折り合いがつく人。

・仮に、問い読み需要も、出題需要もなくなった世界ができたとすれば、クイズに流れ着いた者は、居場所がなくなり、窮屈な生活にまた押し戻されるのだろうか。
・水は低きに流れていく。

・悪い人は、悪いのだろうか。苦言を受けてもなおらない配慮のなさは、どう扱おうか。一般社会ならば大人げない不適合者として排除されるだけだ。
・先日、映画スパイダーマンの最新作をみた。別世界線の悪役たちが、主人公の至らなさにより呼び出されてしまい、彼らを科学的技術という圧倒的な力によって非悪人に戻すことを試みるお話であった。
・ワンダーモモーイ。悪い人は誰でもない、悪の波動のせいだわ。ほほえみをわすれないわ、あなたに教わったから。
・真のプロジェクトミケルセンは、まだまだ遠いぜよ。

3.ナンシー関によるクイズ批評

・んで、このコミュ力低くてもコミュニケーションっぽいことが出来てしまう(そんなことは言っていない)ようにクイズってなっているよね、というのを、クイズバラエティへとつなげるのか、引き出しが広いぜよ。脳ベルSHOWやクイズダービーの話に入る前に非常にうまく接続しているぜよ。

・”体裁がとれる”。にゃる。格別コミュニケーションに長けていなくても、「問い」と「答え」を回していくことによって、体裁よくコミュニケーションが成立させることができる。

・これは、今、ピシャーン!と気持ちがよい音が響きましたね。
・そして、とっかかりが広く開かれているということは、次のステップにもつなげやすいってことでもあるんだけど、罠があるのよね、うん。

・「絶対」に屈する。ふむ。
・うわあ、視点を操作してくれている。それに、忘れた頃に、ちゃんと前にあげたやつで、もう一回話をすすめてくれている。この腕前やべえ。この次どうなっちゃうんだろうという信頼されたワクワク感!!

・クイズは自己目的的である。
・伊沢氏の「Quiz for Quiz(クイズはクイズのために)」だ。これをこうも鮮やかに説明づけるか、、とんでもないぜよ。
・補足も丁寧だわさ。

4.人生の長さについて

・まとめだ。ありがてぇ、ありがてぇ。
・集めた材料の確認。それと、何作るかの再確認。
・クイズは、ときに自己目的的。この主張は何かキャッチーなことばにできんか。それこそ、Quiz for Quizだろうか。ちょっと手前過ぎる気もする。Quiz for Quizの論拠としての、コミュニケーションっぽいものができてしまうクイズの特性(疎シンパシー、親エンパシー)
・それが、当初の問いにどうつながっていくのか。

・にゃる。クイズは自己目的的に楽しいし、シンパシーの要求に耐えられなくても遊べて、エンパシーも身に付けられてうれしいんだけど、ときに、権威的にしてしまうよと。
・結論は、「クイズは健康にも不健康にもなる」。この一言の裏にぎゅっと詰まっている。隠れた情報密度が濃い一言。
・補足も丁寧だ。健康なエンパシー、不健康な絶対的なもの、健康的なもの、それはサウナのような嗜好の違い。

・そして、きました!!
・具体の方法論!!こうこなくては!!ワクワクが高まる!!

・40歳という問題。ちょっと遠くから始めてつなげる書き方だ。そして、伊沢氏の例もそうだったけど、前の方から、ちょうどよい頃合いでもってくる、とても技巧的なつづり方ぜよ。うねうねしているけど、補足も丁寧。ゆらされるんだけど、ちゃんと目的地に向かっている文章。すごいしか語彙がない。
・ガンジーだ。明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。元ネタここだったんだ。
・そして40歳を、脳ベルSHOWにつなげていく!もう、うねうねしていて凄いな!この文章!
・とどまってしまうこと、歩みをとめてしまうことの解決策へとつなげていくんだろうか。どうもっていくんだろう。ワクワクだわさ。

・お手本となる具体例を示しつつ次々と回収している。凄い。脳ベルSHOWで権威性とABCプロセスの双対性の話を回収し、続くクイズダービーでエンパシーの話を回収した上で、健康・不健康なクイズの二項対立を示して分別の道筋を示している。凄い凄い!
・まず、脳ベルSHOWの説明。リンク先の記事をよんでみて、楽しい感じが伝わる。
・番組側の気遣い、ケア、そしてウェルベックも登場した。
・クイズのコードに、ケアをアップデートする。クイズを作ること、企画を作ることは、クイズを解くことでもあるのだ。同じく俺の話をきいてくれ!欲を扱うとしても、こうやって心得た司会者をもって、自分が語れる場が出る。好きなことを語るとき、人は実に楽しそうに語る。そして、面白い。
・対話の中で、興味ある回答にチューニングアップしていくクイズ。岡田さんはクイズ王だなと思う。

・相手に合わせた問いを選ぶ。これも広くクイズだと思う。ただ、正解の判定ができないし、問題も定式化がすすんでいないので「競う」が難しいんだろうな。「競う」ためには「(基準で)はかり」「(ルールで)判ずる」ことが必要だからねぃ。

・そしてクイズダービー。
・「エンパシー」を発揮できるクイズ。きました。「自分とは違う誰かの立場を想像するクイズ」、正体をつきとめたようで。
・エンパシー × エンパシー
・知りたいし、知ってもらうとうれしい。湧き出る承認欲求という呪力を、呪術回路に正しく流す。


(メモ発掘中)


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