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ぴったりくる『ひとこと』

*くっだらない話です

子どもたちが小さい頃、わたしは自分の都合で、子どもたちの父親と離別しました・・・・

*興味のない方はこの辺で読むの辞めてもいいです

当時、ちょっとした出来ごとわたしにはチャンスから家族で嫁ぎ先を出ることが叶い、万が一また嫁ぎ先に戻るようなことがある時は「離婚」も辞さないと考えていた矢先のことでした

「離婚」

この2文字が頭に浮かんでしまうと、臆病になるか強靭になれるかのどちらかでは無いかと思うのは経験からですが、ある意味「勢い」や「思い込み」も大事だと悟った20代後半のこと

しかし「嫁ぎ先」という暗闇から、やっと解放されたというのに、わたしのこころは疲れ果て、子どもたちと過ごす時間以外はビクつくようになっていました。そう、好きで結婚したはずの旦那さまの行動がいちいちわたしを脅かすようになったのです
それまで好きだったものが嫌いになり、外に出かけられなくなり、生活音にすら怯えるようになった・・・・
「(嫁ぎ先に)戻る時は一人で帰って」
売り言葉に買い言葉だったけれど、上手いこと誘導できたと、小躍りするほどに当時の自分を褒め称えたものでした

しかしながら、ひとりになったらナーンの音も聞こえなくなって、何度も何度もカーテンを開け、窓の外を見ていたようにも思います。もしかして、ここだけ地球で外は砂漠なんじゃないかってくらいの孤独を味わった

とはいえ、

離婚をしたことはわたしにとってはいい転機になった。だから後悔はない。後悔がないからこそさらっと済ませるひとことが欲しかった

今思えばくだらないことかもしれない。でもなぜか、あの頃のわたしには大事なひとことだったのだ

離婚の理由は人それぞれと思う
「浮気」「生活の不一致」「嫁姑問題」・・・・そう、ひとことで片づけられる都合のいい言葉が欲しいと思った。別に浮気をされたわけでもなければ浮気をしたわけでもない。性格の不一致と言えば、だれにでもある。嫁姑なんてものも、当たり前だし、それ相応に経験したことではあったが、どれも当てはまらない気がしていた。いっそ「浮気してくれたらいいのに」とさえ思った当時
なぜなら、わたしたちの関係は「別に離婚するほどでもない」ことだったようにも思うから

性格上、ひとだろうがものだろうが、一旦嫌悪感が湧いてしまったらなにがなんでも排除したい性質で、どうにもその生活を続けることが苦痛だった…というのがいいわけだが、ただそれだけだったから・・・・

だから「なんで離婚したの?」と言われると、答えに詰まってしまっていた

「その程度で?」…ほかにもっと大変な人がいるのに?
「我慢できないしない」…今だけのことかもしれないのに?

わたしの中にも疑問はあった。周りの人間主に大人たちにもさんざん言われたし、なにより「なんで離婚するの」かと問われ、はっきりと答えられなかった
この程度で「離婚」を決断することは、世間一般的に見て「どうなんだろう?」と、それなりに悩ん…いや、悩むことなく直結した。⇐そういう性格だから…しかしながら、いちばんの気がかりはふたりの子ども。子どもがいるのに、子どもにはわたしの事情なんて関係ないのに、父親のいない生活を強いるのは「自分勝手なんじゃないだろうか」とも考えた。でもそれ以外はもう「離婚」から頭が離れることはなかった

あとから聞いた話では、当時のわたしは気づかないうちに笑わなくなっていたらしい。親しい身内には「臭い顔」をしていた…と言われた。臭い顔って意味わからないかもしれないけれど、それはなんとも言えない普通にはない表情なのだと推察する
当時の写真を見ると、顔色が悪く、若干こけていたかもしれない。おそらくいちばん痩せていた意図的な時期でもあったろうと思う

結婚生活は3年にも満たなかった
最初の1年はよかった。子どもにも恵まれ、わたしは確かにしあわせの中にいたのだ。毎日がふわふわと浮いていた。しかし、子どもが生まれてから一転、我が子に対する嫁ぎ先の執拗さに嫌悪感を抱くようになり、加えてふたり目を身籠ったわたしに「早すぎる」とか「考えなし」などと言われるようになってから、わたしは体調を崩しこころを歪めた(⇐わりと図太いので聞き流すこともできたが、わたしはあえてそれを利用したのかもしれない)
案の定、切迫流産で入院することになったわたしは、季節を理由に入院期間を延ばしたり、出産までの時間を実家で過ごしたりして、すでに嫁ぎ先に帰りたくない気持ちを募らせていた。子どもが産まれても「帰って来い」と言われるまで、半年以上も実家にいたくらいだ。それが結婚して2年になろうとしていたとき・・・・それからの約一年は生きた心地がしなかった

ようやっと嫁ぎ先を出ても、子どもの前で笑えない自分に気付いた時、このままでは「虐待してしまうかもしれない」と思った
わたしは気性が激しい。加えて我儘だ。感情に任せて子どもに八つ当たりすることは容易に考えられた。でも、当たり前だが「それをしてはいけない」と強く思う気持ちはあった。当たり前のことでも、ままならないことがある。固く心に誓っていようとも、無闇に声を張り上げてしまうこともある。子どもたちに非はないのに・・・・頑張って、頑張って、頑張っていたら、笑えなくなったらしい ⇐ 結果臭い顔

子どもの前で笑顔でいられない母親では、子どもがかわいそうだと思った。そんな風に思うことすら傲慢だと思った。でも、つまらない人生の中に子どもたちとの思い出を残したくないとも思った(忘れられない屈辱的な思い出も未だ消せずにいる)。それには、今の生活と、旦那さま、旦那さまに係るその他もろもろを排除すべきだと結論付けたのだ
浅はかな考えだとも思う。けれども、わたしにはそれが最善と思えた

あの当時、なにかうまいひとことがあった気がするのだけれど、今は思い出せない。今もまだ「離婚」について、ひとことで言えることもないけれど、強いて言うなら「笑顔でいたいから」というかもしれない。離婚後のわたしは「地球はわたしのために廻っている」と思えるほど楽しかったから

あの時の決断に間違いはなかったと確信している。ただ、結婚が間違いだったとも思っていない。わたしは本当にしあわせだったし、ふたりの子どもにも恵まれた。そしてその子どもたちはとてもいい子に育ってくれた。わたしは離婚はしたけれど、大きな宝物をいただいたのだ。宝物は大事にしまっておくべきか、いいや、宝物は決してわたしへのご褒美ではない。宝物は愛でてもらって生きる活きるのだ
わたしのように円満に解決した「離婚」はそうないと思う。いろいろな都合や事情が重なった結果ではあったけれども、運が良かったとも言えるし、恵まれていたとも言える。そしてなにより、わたしには必要な経験だった

離婚経験があると、離婚をしたい、、、ママ友ができる。わたしは自分の経験を踏まえ、より速やかにそうできるよう相談には乗るが、なかなか気持ちが追いつかないのが現状だ
他人には、簡単に「離婚できた」と思えるかもしれない。それでも、気持ちが湧いてからそこに行きつくまでには相当なストレス、体力を要する。(後は勢いとタイミングね)
それもあとから気づいたことなのだが、しばらくは「悪いことをした」ような気持ちがずっと取れずにいたことだけは、忘れないようにしたいと思う。だって、できれば「離婚」はしない方がいいと思うから

そもそも「結婚」に対する構えが甘かったようにも思う。アクセサリーでもつけるような軽い感覚で、苗字を変えた。でも、ピアスの穴のようにいつまでも、どこかに跡の残ることだとは思いもしなかった・・・・
わたしは子どもだったけれど「離婚」を経験することで、やっと大人に近づけたのかもしれない


これは余談だが、離婚が与える影響は大いにあった。それはまた別の話といたしますが、ひとつだけ・・・・(笑い話程度に)
離婚してまもない頃で、子どもが小さかったから、そのあと自分にエラい額の保険かけました。万が一子どもが幼いうちに自分が死んだ後、子どものことで迷惑がかからないように、母親と妹を受取人にして3つくらい…
加えてなんども「遺書」を書きました。この辺はやっぱり気が動転していたというか、普通ではなかったのかもしれない。万が一わたしがいなくなることで、子どもを「取られまい」とする気持ちがそうさせたのだとしても、あんなにひもじい思いをしてまで保険に貯金すべきではなかった
今は、わたしがいなくても誰も困らないのでさっぱりとしてますけどね。大事に至らず今日まで、こまごまとしたことはありますけれども、安穏とした日々を迎えられております

長々と、私事にお付き合い、ありがとうございました(=゚ω゚)ノ


いつもお読みいただきありがとうございます とにかく今は、やり遂げることを目標にしています ご意見、ご感想などいただけましたら幸いです