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キャパオーバー

和製英語らしい

ひとには「得手不得手」がある。しかしそれに関して言うなれば「餅は餅屋」としてできることに専念することも出来る
「持ちつ持たれつ」世の中は、そうして支え合って成り立っている。世の中まで幅を広げなくても、自分の生活圏だけでももちろんだが、とにかく本音はそういうやさしい場所にわたしたちは生きているのだと思うのだ

しかしながら「キャパオーバー」は、若干「得手不得手」を孕みながらも、そこから逃げることは許されない感が否めない。最後までやりきらねばならないことに対し「限界」を感じた時に使う言葉なのかと理解する
でもよくいうじゃない?「最悪」は「最悪と言えるうちはそうではない」的なこと…どん底、地獄、崖っぷち、なんて言葉も当てはまるのかしら

過ぎてしまえば「キャパ」を「オーバー」したわけだからそれはむしろ限界を「乗り越えられた」あるいは、逆境に立ち向かい「成長を遂げた」と言えるのかもしれない。某不思議生物に例えるならば、まさに「進化」である

わたしはこの子が好き

なにをいいたいのかと今更ながらに唱えれば、できないことをしなければならない場合の「キャパオーバー」は、本当は「辛い」ってことを言いたかったのだけれど、物書きあるあるで、言葉に方向性をねじ曲げられた感が否めないな…あ、いいわけか。これは文章能力の問題かも!?

あまりできないことに果敢に向かっていくことのないわたしだけれど、極稀に、できなくてもキャパオーバーでもやらなければならないことに遭遇することがある。それは大人だから、責任という点でやらなければならない避けられない場面。たとえば、苦手な会合の幹事とか、見知らぬ群衆の前で発言するとか、身内の葬儀のしきりとか・・・・
これは「得手不得手」で「餅は餅屋」を優先することもできるが、大人社会はたいていが「公平」で、不公平があるともめごとに発展する。PTAの役員選出時の圧迫感とか、ホールケーキを均等にカットしなければならない緊張感のようにね

でも、結果「オーバーオーライ」であれば、そのあとの達成感やら優越感やら高揚感を得たあとの自分は「キャパオーバー」なんてどこ吹く風って感じで、あとで自分で見たら恥ずかしくなるくらいのどや顔をしているはずなのだ
これは思い付きだが「キャパオーバー」が和製英語として成り立つならば「キャパオーライ」もあっていいのかなと思う。まぁ、オーバーを超えた先のオーライであるという条件付きでなければ成り立たないけれど…なんとか大人は自分を鼓舞しなければならない場面に遭遇するから、安心したいわけで、言葉の印鑑が欲しいということ

そんな感じで、まとまりました~(੭ु´・ω・`)੭ु⁾⁾
お付き合いありがとうございました



いつもお読みいただきありがとうございます とにかく今は、やり遂げることを目標にしています ご意見、ご感想などいただけましたら幸いです