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読書メモ:『問いの立て方』(宮野公樹さん著) 答えの出方

今年2021年4月に読んだ、宮野公樹さん著『問いの立て方』(ちくま新書、2021年)の読書メモを公開します。
本を読みながら思い付いたことを書いています。この読書メモの形式は今後も続けていくつもりです。

p.9 何かいつも引っ掛かる。私は「読みたい」というよりも「書きたい」、「書きたい」というよりも『書かなければ』と思って書いている。
p.26 言葉の中に人が在る、言葉があるから人がある。
p.29 問いより先に考えや意見、答えを先に思い付いて、後から問いの存在に気付くことも多い。言葉を話せない赤子にも想いはあり、だから泣いたり笑ったりする。思いは言葉にも先立つ。思いがあって、後付けでそれを言葉で表しているのだ。
p.39 「論拠」(『議論のレッスン』)
p.40 人間とは関係付ける動物である。『ホモ・リレイション(homo-relation)』。
p.42 私のアイデアも全て長期的なものだ。
p.44 ここは耳が痛い。
p.45 歴史とまで言えばそれは言葉はおろか個人の思いにも先立つものだろう。
p.45 しかし、その人の考えが全て歴史によって決まっているという決定論に陥るなら、インプットとアウトプットという結果の話にしかならなくなってしまう。
p.46 歴史は同時に創られるものでもあるから、ということは我々は歴史を創る存在でもあるということだ。初めの状態が保存されるなら歴史はない。歴史は変化によって創られるのであり、私たちが変化を起こし、未来を創るのだ。
p.50 もしも自分が電子だったら。
p.52 あるいは『無』。
p.54 『無』から生まれたから「在る」。
p.55 弘学という在り方からすれば学問の各分野は枝葉だ(その分野の人にとっては本質でも)。それを自覚した上で私は枝葉から幹を育てるために各分野の「研究」に取り組む。それが本質だけを考える哲学と弘学の決定的な違いだ。
p.55 人類という視点から見れば一人一人の人間自体が枝葉である。しかし、その人自身にとってはその人生は幹である。
p.60 自分はない、のではない。無が在る、のだ。無からあらゆる存在、世界も自分も生まれるのだ。
p.62 私は自分が『無』であると知って、なぜこんなに頑張っているのだろう?→この無は虚無の無ではなく豊潤な無である。無限の可能性を体現したくて私は頑張っている。
p.64 白色であれないならば全色であろうとする私。それが弘学。白は何色にも染まらないと共に、全ての色を含んでいる。
p.68 答えの循環の図(参考:図5 問いの循環)
⓪「他者(世界)」が在る(右下からスタート、左回り)
①「他者(世界)」を観察して、
②本質的な「答え」を思い付く
③自分の「答え」を基に
④答えを答える過程にて根源的な問いの存在に思い至って…
⑤「自分」を理解して「他者(世界)」と通ずる
p.69 自分の死後も世界を継続させること自体が『目標』なのだ。そして、その目標は達成できないかもしれないと知っているから不安が常にあるのだ。
p.78 死んでも書かなければならない。むしろ、死ななければならないからこそ書かなければならない。死ななくて良いなら書かなくても良い。いつか死ぬと知っているからこそ書き残さなければならないことがあるのだ。
p.79 まだ若い私には何が還ってくるのか分からないが、先達の教示に感謝する。
p.88 そもそも誰かは誰かよりも優遇されるべきか?
p.96 共創も他人次第でもあり、自分だけで実現できるものではないだろう。そのことを念頭に置いた上で、何をやるかだ。
p.119 バランスを保つことは目的ではなく手段だ。目的は矛盾を止揚すること。バランスを保つこと自体を否定するべきではない。
p.120 心理値を平等化し、バランスを取ることが止揚である。
p.120 「個別と全体」ではなく『自己と他者』だ。
p.120 『過負荷(マイナス)』の感覚がないから、『無(ゼロ)』の存在にも気付かないのか。
p.125 わかることは大したことではないが、わかるということは驚くべきことだ。アインシュタインより。
p.134 しかし、なんでもあり得る中でどの未来を選択するかという問題は考えなければならない問題だ。
p.134 「二つの道がある。どちらを選ぶか?」という既定の善悪の二択があるのではなく、自分たちでより善き選択肢を創らないといけないから大変なのだ。
p.136 SDGsは現状の延長として未来を考えているように思う。しかし、科学革命によって本質的な革新が起こると、直面する新たな問題も解決策となる技術も次元が違うものになると私は確信している。
p.146 『世界に一つだけの花』の歌詞をちゃんと知った方が良い。宮野さんと同じことを言っているよ。→ゆとり世代と共に在る曲だ。
p.149 「熟度」というのが引っ掛かる。私は未熟な子どもの心こそ大切にしたいと思うんだよなあ。「考える」だけが全てではないと『思う』。
p.153 でも、人類が滅亡する可能性だってあるんだよなあ。いや、人類が滅亡してもまた新たな文明が地球に生まれたり、あるいはこの宇宙には他の文明があるのかもしれないが。しかし、人間として生まれたからには人類が存続してほしいと願わずにはいられないんだよなあ。たとえ、自分の魂が死後も在り続けるとしても。
p.168 むしろ『探究心』と言うべきか。→『創造心』も同様だ。
p.180 自己と他者の確率論・決定論の4重構造の図(参考:図11(e)違和感の意味)
            他者の確率論(無)  他者の決定論(存在)
自己の確率論(無) →   →|     →   →|
自己の決定論(存在)→   →|     →   →|
     自己と他者の選択論(系)  2×2=4重構造
p.185 系(全体)としての選択論の座は個(要素)に現れる。
p.188 先の図(図11(f)個=全 p.186)の「全体(対象)」とは正確には『脳内他者』だ。自分の外部にはその起源となる『現実の他者』も存在する。
p.190 いや、自己の外部には『現実の他者』がいる。そこから与えられた純粋贈与が『脳内他者』を経由して『自己』に届いた時、『自己』は系としての選択論の座を与えられて突き動かされるようにして外部の『現実の他者』を関係選択しようとする。
p.190 近内悠太さんが交換と贈与だけを見て供犠(純粋贈与)を見ようとしないのと同様に、宮野公樹さんは脳内他者と自己だけを見て外部の現実の他者(マイナス、過負荷)を見ようとしない。『問い』だけを見て、そこに在る『答え』を見ない。
p.192 『答え』は確かに既に『自分』の中に在る。しかし、それはかつて外部の他者に与えられたものであり、その外部の存在に気付くことで私たちは『答え』に思い至るのだ。他者の存在に気付いて、私たちは自己の存在に気付く。自己と他者がこの世界を形作っていると知る。

答えは問いに先立つ。
思いは往々にして考えよりも先に生まれる。
例えば私たちは誰かを好きになる時、「私はあの人のことが好きだろうか?」と自問して「そうだ、私はあの人のことが好きだ」と自答して好きになるだろうか?否、気付いた時には既にその人のことが好きになっていたのではないか。
私たちは日常の中で、人生の大事な場面では特に、問いよりも先に答えを得る。
「とにかく動け」も結構。「とにかく考えよ自ずと身体が動くまで」も結構。だが、意識と無意識の実相は『考え始める頃には既に身体が動いていた』に近い。
答えは問いに先立って、初めからそこに存在する。