迷惑をかけないことを是とし、他人にもこれを強制させる息苦しい人間は死ね

社会は迷惑の上で成り立っている。

この言葉は、僕が昨日の昼下がりに思いついた言葉だ。
他人に迷惑をかけなければ何をやっても良いぞとはよく言う言葉だが、そんなことでは生きていけない。
マクドナルドが人気になれば他のファストフード店は困ったもんだ。売り上げが下がって良い迷惑である。
トヨタの車が売れたらホンダはどうなる?三菱は?
地域に根ざしたスーパーも、大型の安いスーパーが来れば客足は遠のく。迷惑もいいところだ。

賃貸に住んでいると、隣の部屋の人がうるさい。上の階の振動が伝わる。下の階のベランダからタバコの煙が上がってくる。
それをオーナーに伝えると、それぞれの部屋の住人は”わざわざ”その人のために行動を制限させられる。その人さえいなければもっと過ごしやすくなるのに。いい迷惑だ。

僕は極論が好きだが、生きていることが迷惑だとも考える人もいる。

ここまで言って伝わったかはわからないが、迷惑というのはどこからどこまでと決めるのがとても難しい。
日本語で「ありがた迷惑」という言葉があるように、迷惑かそうでないかを決めるのは、行動を受けた人の主観による。

だからこそ、「こんなことをしたら迷惑になるんじゃ…」なんて考えはやめた方がいい。
そもそも自分は相手の考えをわかっていて、「相手はこれを迷惑と思うだろうな」と決めつけていること自体が傲慢だ。

また、社会の成り立ちのように、迷惑によって会社が競争化し、より良い製品の開発につながったり、サービスの向上にも繋がっていくわけだ。
このことを「迷惑」と表現する人は少ないと思うが、迷惑は何も悪いことだけではない。

私たちの日常生活に視点を移しても同じことが言えると思う。
自分はプレゼントを貰う時は、基本的に「迷惑」寄りで考えている。
なぜなら、自分の欲しい物ではないものに相手がお金を使っている現象が効率的ではないと思うからだ。
しかし、プレゼントは気持ちがありがたいと思う人ももちろんいる。

一緒に生活する上で、一つ一つの行動を軽くでいいから報告してくれと思う人がいる。「ご飯作ったよ」とか「今日は早く帰るね」とか。
日常生活の中に報連相を組み込むことで、相手に迷惑がかからないようにしているのだ。

一方で、特別返答が必要ないものに関しては何も言わないでくれと思う人もいる。たとえ同じ部屋にいたとしても、それぞれがそれぞれの時間を楽しみ、言葉がなくても楽しめる。分かり合える。
干渉しすぎないことで、相手に迷惑がかからないようにしているのだ。


この迷惑が一体何を指すのか、それはどこまで行ってもその人次第だ。もちろん犯罪につながるような、ほとんどの人が迷惑だと思うような行為は推奨できない。
しかし、一般人の暮らしの中で、この小さな迷惑をかけないようにしてしまっては、自分が精神的ストレスを被るばかりである。

人に迷惑をかけなければ何をしたっていいと思う。でも、そもそも人ってもんは迷惑をかけるものなんだよ。だから気にすんな。

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