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キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン 感想 告解3部作

キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン
スコセッシの映画を見ると私はキリスト教徒になってしまう。
2023年は80歳のスコセッシ、82歳の宮崎駿の新作映画が劇場で見られるという贅沢な年となった。
80代の大先輩たちが新しいチャレンジを公開し続けている事に励まされ拙いながらにキラーズ・オブ・ザ・フラワームーンを見た感想を記してみようと思う。ネタバレありまくりなので注意してください。

あらすじ

禁酒法時代のアメリカオクラホマ州
強制移住させられたオーセージ族の居住地から米国最大規模の油層が発見される。これらの石油利権を含むオセージ族の資源利益は均等受益権として各オセージ族の人々のものとなり、この権益は相続可能な財産となった。資金を持ってるとはいえ時代は 1908年、先住民族は劣等とされ多額の金銭を管理する能力がないと白人社会に決めつけられ、郡の裁判官が「未成年者および無能力者」だと判断した者の所有地の管轄権を、米連邦議会がオクラホマ州の郡遺言検認裁判所に付与した。
モリーが自身を「無能力者」だと言っていたのは比喩ではなく「未成年者および無能力者」と登録されているからだ。第一次世界大戦から帰国したアーネストはオジのウィリアム・キング・ヘイルを頼りオーセージの土地にやってきた。ウィリアムはアーネストに自身を「キング」と呼ばせる。
キングは州保安官補で、熱心なカトリック教徒であり、オーセージ族のよき隣人、友人としてオーセージの土地で勢力を誇っていた。
しかし、真の顔は一族のためと言いながらオーセージの「相続可能な」受益権を手に入れようと画策する人間だった。アーネストは、叔父のもとで犯罪にも手を染め、権益の拡大にいそしむことになる。


石油の発見に喜ぶオーセージ族 公式トレーラーより借用



上記があらすじとなる。

映画感想文


スコセッシの作品はキリスト教と咎人の側に立つ事が大きなテーマとなっているわけだが直近の3作である「沈黙ーサイレンスー」「アイリッシュマン」「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」は特にその系統強い。
私はこれらの作品を告解3部作と呼んでみようと思う。

「沈黙ーサイレンス」は神の沈黙と裏切りへの赦しがテーマとなっており
「アイリッシュマン」は「悔み」「赦しをこう」ことがテーマだ。
「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」は上記2作のテーマを踏襲しつつ発展させたと観ることができる。

沈黙とアイリッシュマンのあらすじを簡単に下記で説明する。

【沈黙-サイレンスー】


沈黙は遠藤周作の原作小説を基に描かれた映画で、17世紀に布教で日本に来たセバスチャン・ロドリゴ神父が切支丹弾圧で死んでいく信者らをなぜ神が助けないのか、神の沈黙に悩むテーマ1の主人公と、心が弱く裏切りたくないのに何度も裏切ってしまう悔み(神の赦し)をテーマ2とした主人公であるキチジローを描いた作品だ。モキチら強い信者を目の当たりにしているキチジローは自信の不甲斐なさを常に後悔し、ロドリコ神父に告解を頼る。
ロドリゴ神父は何度も裏切るキチジローに恨みを感じるが、一番弱い者、ユダであるキチジローその人に救いを与えることこそが神の愛であり慈悲でありそこに核心があるのではないか、キリストは沈黙していたのではなく、常にロドリコ神父と共に苦しんでいた、キチジローと共に嘆いていたのだと気づき、キリストの気持ちがわかったことにより宗教的な救いを得る。


【アイリッシュマン】


スコセッシの前作であるアイリッシュマンの主人公フランク・シーランはアーネストと同じく無思考で、上に言われたことは「はい、はい、わかりました。」という感じで人を殺す。フランク・シーランはこれも過去にWW2に赴き、捕虜を上官に始末しろと言われ生きたまま埋めさせられていたため何も考えず人を殺す癖付けがなされた結果だった。
フランクは戦場での生死の不条理を感じ「なるようになる」を信条に無思考に言われたことをただこなす、そこに自身の責任はない、と考えていたが、
親友であるジミー・ホッファを止められる立場だったのに自らの手で殺害したことで人生の果実を全て失う。この殺人はフランクが頼りにしていた「オジキ」であるイタリアマフィアバファリーノからの依頼だった。バファリーノとフォッファが揉め、刑務所に入る事を恐れたバファリーノが殺害を依頼したのだ。フランクとバファリーノは家族ぐるみの付き合いで、逆らえないまでも二人の仲介役には十分なれる立場だった。
結局殺害を依頼したフランクの「オジキ」であるバファリーノは別件で刑務所に入ることになり、殺しても殺さなくても結果は同じ、完全に意味のない殺人だった。
指示したバファリーノは獄中で自らの罪を後悔し、教会に通い、フランクを残し死んでいった。バファリーノだけではなく弁護士も、ほかのイタリアマフィアも、知り合いだった悪党社会の全員がフランクを残してこの世を去る。フランクも赦しを得たいが、一番申し訳ないと思っている娘ペギーからも拒絶される。
あれだけ名声があったホッファを知る人も消えていき、存在が歴史の一部となっていく。誰も許してくれる人はいない。フランクは罪の意識に苛まれ続けて2003年にこの世を去った。告解の気持ちを含み、原作本を記した後。

キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン

前2作のあらすじを書いてきたが、それぞれの描写やテーマはやはり今作キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンに通ずるものがある。
アーネストは所謂「一般大衆」的なところがありフランクと同じく無思考で上に言われた事は疑問に思わず、思ったとしてもそのまま実行する。
叔父である「キング」はアーネストにもオーセージ族の相続権の事を教え、
一族のために探偵を殺せ、自身の最愛の妻の妹を殺せ、前夫を殺せ、命じられるまま行動する。キングはオーセージ郡の「キング」としてアーネストにとっての主なる父の役割をストーリー上担うわけで、フランク=バファリーノとの関係とアーネスト=キングの関係と構造は似通った形となる。
順調にキングの計画が進み、モーリー以外の親族が全てこの世を去る。

キングがアーネストに話していた通り、すべての遺産はモーリーに相続されることになった。話はこれで終わるわけがなく、アーネストはキングに妻モーリーの糖尿病薬インスリンに謎の薬を混ぜるように指示される。この薬はキングたち曰く、精神を落ち着ける薬だということだ。
しかし、アーネストはキングがオーセージ族を裏で差別し食い物にしている事を見聞きしており、それどころか直接キングの計画する殺人に関わり、オーセージ郡にいる白人が(外部者であった自身もそれに加わって)搾取構造を形成していた事実を知っている。妻はどんどんと衰弱していきインスリンが効いていない事は誰がどう見ても明らかだった。そんな中状況で謎の薬を混ぜるとなると、通常の思考では毒物だとわかるはずであり、アーネスト自身も気づいていたはずだ。妻のモーリー自身も毒物であることは気づいており、神父に相談を漏らしていた。
しかし何故アーネストは最愛の妻に毒を注入し続けたのか。
共同体社会のキング=神への信頼と自身を裏切るはずがない、言われたことをやっていたらすべてうまくいくという考え方の危険性が描写されている。
史実ではウイスキーに毒物を入れ飲ませていたらしく、アーネストがモーリーに注射していた謎の薬を半分入れ飲んでいたのは、毒物だと気づいているアーネストにとって苦しみの共有的意味あいがあったのかもしれない。

考えてみると、キングは主なる父の役割をストーリー上担うわけだが、あくまで「父」でなく叔父なのだ。主たる父ではなく、神の言葉を代弁し命令する社会の象徴だといえる。私たち人類の歴史では「神の聖名において」人を殺すことや搾取することを命令する為政者の例を無限に上げられるだろう。
じゃあ神は誰なのかというと、モーリーこそが表象される神に他ならないだろう。
モーリーはアーネストがやっている犯罪、毒物の注入に気づきなから、最後までアーネストのサイドに立ち続ける。

演出の妙だが、前半から中盤にかけては自力救済色の強い西部劇の世界観に観客は没入するが、都会では社会進歩が進んでおり、FBIが当該の連続殺人事件を追ってオーセージ郡に来ることになる。比較的近代的な外部の司法機関や、兄弟が運営する町医者ではなく本物の病院がでて一気に時代観が我々の時代に近づく事で歴史の一部であった一連の事件がグッと身近な問題に感じられただろう。
FBIの操作によりキングを中心とした60人を下らない連続殺人事件の解明と裁判が進められることとなった。重要参考人として逮捕されたアーネストはFBIに司法取引を持ち掛けられる。
映画的意味付けを考えるとこれは云わば神のくれたチャンスに他ならない。
アーネストは旧世界の主たるキングを捨て、新しい近代国家に鞍替えし全てを証言しようとするが、この判断も自身ではあまり考えていない。妻に会いたい一緒に暮らしたい一心で、捜査官の言っていることに従っていただけだ。
キングの弁護人側と話し合いを設けた際、フレイザー演じる弁護士、キングらの徒党(分かりやすくキング党と呼ぶ)である白人社会はアーネストを説得し、殴られたといえ、強制的に証言させられたと言えと迫る。芯がないアーネストはこの期に及んでも自身で道を選択するわけでもなく、なんとなくそうなんだと頭の中にインプットして、証言人を降りることになる。

アーネストに圧力をかけるキング党のみなさん。 公式トレーラーより借用

その折、アーネストは回復したモーリーに会うこととなる。キングらはインスリン治療は世界で5人しか受けられないといっていたが、そんなはずもなく、近代国家による本物のインスリン治療でモーリーは回復し、アーネストはそれを見ることとなる。「インスリンが効いたな!衰弱は一時的なものだったんだな!」しかしどうみてもインスリンの容器も色も違う。
私はこのシーン、見ていてあまりの愚かしさにため息をついてしまったのだが、アーネストは旧社会の差別思想をそのままモーリーに伝えている。「白人の法は複雑だ」「オーセージにはわからないと思うが」こう言った発言を見ていて怒りを感じなかった人は少ないんじゃなかろうか。しかし、モーリーはまだ見捨てない。

偉そうにインプットさせられた主張を語るアーネスト 公式トレーラーより借用


キング党や弁護士の勧めで証言人を降り司法取引を蹴った形になったため、アーネスト自身も容疑者として被告人になる。裁判のための長期拘留が続く最中に娘の一人が死んでしまう。
汚い犯罪の主犯であるオジキを守るために最愛の娘の一人を失う、自身は拘留されている、死に目にも会えず妻とも長く会えていない。ここで決心がつき、再び証言人なる決意をする。裁判で洗いざらい証言したアーネストだが、その後、妻モーリーとの面会の際にモーリーからすべてを証言したのかと問われる。アーネストは「すべてを証言した。告解と同じだ。心は綺麗さっぱりだ」と答えた。
モーリーは、アーネストに「じゃあ、正直に言ってほしい。あの私に打っていた薬はなんだったの。毒だったの。話して」と問う。アーネストは言葉に詰まり、一瞬間を開けた後、あれはインスリンだよと答える。
アーネストは明らかにあの薬がインスリンではない事を理解していたし、よしんば信じていたとしても、途中から混入していた薬は毒だと考えていただろう。アーネストはここで最愛の人、神の表象たるモーリーに心の底からの謝罪をせず、懺悔をせず、自身に責任はないふりをした。アーネスト自身も自分がやった行為の罪を認識しているのに、またも彼女を欺いたのだ。
モーリーはアーネストのもとをさった。

アーネストに薬について質問するモーリー 公式トレーラーより借用

搾取することを命じているのは常に指導者であり神そのものではない。また、過ちは贖罪、懺悔によって赦しを得られる。
沈黙でのキチジローはユダと同じく裏切りを続ける。そんな弱い人間も神は見捨てず、懺悔をうけいれる事が表現された。
アイリッシュマンのフランクはホッファよりも所属するギャング社会を選び、後悔と神の赦しを静かに求め続ける。
アーネストはモーリーに告解せよ、懺悔せよと促されてもそれを裏切ってしまった。モーリーが去った後服役、釈放後に弟とトラック暮らしをするとのことだが、恐らくフランクと同じように後悔の日々を送ることになっただろう。
この3作品はテーマ性が似通っているために、3部作といっても過言ではないと考えている。

社会か愛か

【天気の子】
スコセッシから少し離れるが、
所属する社会と、最愛の家族を天秤に乗せて、社会をとってしまった者の映画がキラーズオブフラワームーンでだとすると新海誠の「天気の子」は社会と愛(最愛の家族)のどちらを取るかという時に、愛をとった映画だと言える。
見たことがない人のために簡単に説明するが、天気の子のあらすじは下記の通りだ。

雨を晴れに変えられる能力を持った少女が伊豆諸島神津島から来た少年と出会う。世界の天候は長年の人間の活動により乱れ、少女が能力を持った巫女として人身御供にならなければ治らない。少年は少女と世界を天秤にかけ少女を異界から助け出す。
雨が降りやむことはなくなり、東京は水没する。

この物語は何が言いたかったのか、新海誠のインタビュー記事があったので引用する。

その一方で、当時から将来の気候への危機感は高まっていました。『そのうち異常気象が世界的な問題になるだろう』『このままだと地球は温暖化で大変なことになるに違いない』などと、当時から気候変動を問題視する声も少なくありませんでした。それがここ数年でとうとう現実のものになってしまった印象があります。
かつては穏やかに移ろう四季の情緒を楽しんでいたはずの気象の変化が、いつのまにか危機に備える必要がある激しいものとして、とらえ方がすっかり変わってしまいました。
ちょうど前作『君の名は。』が上映された2016年の暑かった夏あたりから、『これからは、天気は楽しむだけのものではなくなってしまうだろう』と、不安や怖さを実感したのを覚えています。『天気の子』では、そういう今まさに激しく変化している気象現象を、どうやってエンタテイメントの形の中で扱うことができるだろうと考えました。
そんな世界をつくってしまった僕たち大人には間違いなく責任の一端がある。でも気象という現象はあまりに大きすぎて、個人としてはどうしても不安感や無力感に右往左往するだけになってしまう。でも、これからの人生を生きていく若い世代の人たちまで、大人の抱える憂鬱を引き受ける必要はないと思うんです。
異常気象が常態化している世界で生きていく世代には、それを軽やかに乗り越えて向こう側に行ってほしい。帆高と陽菜のように、力強く走り抜けて行ってほしいという思いを伝えたかったんです」(新海監督)

https://weathernews.jp/s/topics/202012/240115/
『天気の子』新海誠監督単独インタビュー 「僕たちの心は空につながっている」
ウェザーニュース

少年と少女が世界と愛を天秤にかけ、愛を選んだ結末は、アーネストがキング党の社会と愛する人を天秤にかけ、社会を選び続けた事と対比できるだろう。
実を言うとこの「社会か愛する人」かの命題は町山智浩氏の天気の子についての批評が先述で、感銘を受け常に考えていた。なのでキラーズ・オブ・ザ・フラワームーンのテーマとの共通性を認識しえた。

帆高に対して「大人になれ」と言う人もいるだろう。でも、「大人になれ」と言った大人たちが作ったのが今の世界だ。毎年、すごい暑さや山火事や豪雨や洪水で人が大量に死んで、極地の氷が溶けて沈みゆく世界だ。これが経済や国家を優先させた大人の世界の結果だ。

 だから、たったひとつの間違いなく大事なことは、自分の愛する目の前の人を命を懸けて戦って守ることだけではないか。君の愛する人と世界が戦うなら、世界全部を敵に回してもいい。

「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)
、261頁

社会を取るか愛する人を取るかという問題は非常に身近な問題でありそれを表現するために新海誠は社会からの要請を災害と人身御供で表し、スコセッシは現実に起きた犯罪で表現した。
現実の日本に置換すると日本人として最も思い出しやすいものはやはり第二次世界大戦中の大日本帝国だろう。天皇の威を借りた他者からの戦争犯罪指示が山ほどあり、天皇=社会のために死んで来いと少年兵まで駆り出し、自爆攻撃や虐殺など多くの混乱を世界に与えた。多くの民衆はそれを支持し応援していた。私たちは間違っているのじゃないかと考えた人も多くいたわけだが、核兵器の投入という人類史に残る虐殺が起こるまでこの混乱は止まらなかった。

差別について語るとき、人々は「私には黒人(ゲイ、在日、etc)の友人がいる」と前提につける。使い古された手で近年は差別主義者の常套句ともいわれているが、アーネストは妻を愛していたが、妻を差別する社会構造に抗わなかった。それは妻を差別している事と変わりはない。
作中、アーネストが感情的になりモーリーに差別言動を口走るシーンが何箇所か見受けられたが、これは意図して差し込まれたシーンのはずだ。
少数者に友愛の情を持つ、愛情を持つ、結構な話だが、彼らを苦しめる差別構造と戦わない限り、差別に加担している事に他ならないだろう。
例えば読んでいるあなたの大切な人の一人に女性がいる場合、男女間の不当な賃金格差を問題視しない事、人口の10パーセント程度いる(貴方の友人の中にも本当はいる)はずのLGBTの婚姻が不当に制限されている問題に真摯にならない事、これらの行動は自身が差別構造に加担する構成要素の一部であることを端的に表している、それを自覚しないとならないはずだ。差別構造がある限り、社会から愛する人を加害する要求を投げつけられることは必ずある。
私はそういった社会構造が存在する限りキラーズ・オブ・ザ・フラワームーンや天気の子と同じように個人を犠牲にして社会を維持せよと命じる要請があると私は考えているし、これらの映画がどの時代でも弱者の側に立つと考えている。まずはあなたに関わりが少しでもある方への差別の構造をなくす努力をすることで、そのリスクを減らしていきましょう。

社会か愛か、選択を差し迫られたとき、我々は愛する人を選択する道を誤らないよう努力するべきだと、語り掛ける映画だといえる。




参考文献

上記の3商品はこの数年繰り返し聞きすぎていて私の血肉となっているため、私が描いた文章の沈黙、アイリッシュマン、天気の子の作品理解はこの音声作品を前提としている。

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