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個別文化としてのオンライン

息子とポケモンの新シリーズを見ている。新キャラのヒバニーがラビフットに「進化」することで、一転してクールな性格になる。こんな描写も、来るべき息子の思春期の表象として受け取ることができる。近い未来だ。

あらゆるものは自分に「紐付け」可能であり、自分ならではの「見方」へと変わる。それがポケモンであろうと、ウイルスであろうと、本質は変わらない。

にわかに「オンライン」という五文字のカタカナが飛び交うようになった。別に新しい言葉ではないが、今までこの五文字の言葉が現れるとは思えなかった媒体にまで侵食が及んでおり、一気に時代が変化した感がある。

2000年台初頭に「IT革命」なる言葉が流行した。その頃に生まれた子供が今年の新入生だ。では子供が成人するまでの間に「IT化」なるものがどれほど進んだのか。

ここにはテクノロジーによる文化の差異がある。「老人はITが使えず、若者は得意」という単純な議論ではない。PC文化の中にスマートフォンが挟まれることにより、文化はデバイスによって区分された。現状は「PCをメインとするもの」「スマホをメインとするもの」「PC・スマホ・タブレットを使うもの」などと状況が分かれている。そのそれぞれに「個別」な文化が共存し、方向性を模索しているのが現在の大学であろう。

スマホをメイン機材とする中に、PC文化が入り込む。その断絶を理解するものもいれば、自文化を絶対視するものもおり、あるいは異文化に歩み寄りを見せるものもいる。その多様な行動とミスマッチへの不平不満がSNSで発信される。これがいわゆる「現場が混乱している」という言説の中身だ。

2018年にふと思い立ち、スマホをメイン機器とする生活に変えてみた。おそらく学生で僕以上にスマホを使いこなせるものは稀であろう。しかしスマホでは無理な部分が出てくる。一つの方法論で異文化を超えることの困難さがここにある。

「PCは社会で使う」「スマホがあれば足りる」といった言説に僕たちは踊らされ続けてきた。この混乱の中で明らかになったのは、自分が立脚していた言説が生む分断に他ならない。

ZOOMというミーティングアプリはいともたやすく僕たちを繋ぐ。しかしそれは生活圏への浸食だ。かつて固定電話に侵食された僕たちは、新たなテクノロジーによって似たようなストレスにさらされる。YouTuberを気取って動画配信に参入するも、PowerPointを使用したMP4はPC文化への従属を可視化する。急激な状況変化の中での異文化接触は、ぎこちない形で進み続け、外部はその混乱を嘲笑する。だがその嘲笑者が複数の文化を自由に行き来できているのかというと、決してそんなことはないだろう。

僕らは一つの文化圏に所属していると錯覚しながら、文化と文化の「あいだ」を生きている。国際文化学における「文化触変」は今目の前にある日常だ。

今こそ僕らは「オンライン」の壁の向こうに潜む異文化を想像せねばならない。PC文化にとどまらず、スマホ文化に囚われず、オンラインの「あいだ」を相互に移動するために必要なことを少しずつ進めていかねばならない。そこではかつてないほどの不器用さがあらわにされ、壁の向こう側を否定し、壁のこちら側に自己嫌悪を抱く、そのような気分が蔓延するかもしれない(というか実際に蔓延しているだろう)。僕らが立ち向かうべきは、オンライン化に伴う具体的なテクニックである以前に、壁の内外を否定しようとする単純化された人間の「感情」に他ならないのだ。

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