教授法の可視化と再現性の問題

先日、政界の関係者に「キャラが濃い」と言われたので、もはや認めざるを得ない状況である。同時にキャラの濃さは個人の代替不可能性を示している。そんな人間が教壇に立つ場合、授業は極めて属人的になる。

「他と違う授業」になることのデメリットは、他の教員との接続が悪くなることだ。具体的には僕の授業で初級フランス語を受け、他の先生が中級を担当する場合に、学生の違和感が大きくなってしまうのである。これは仕方がないことではあるが、決して望ましいことではない。

さて、ちょっとした縁があって繋がった学生が、KJ法のワークショップを企画することとなった。KJ法は僕にとっては慣れたものだが、学生がやるとなると様々な困難が出る。それゆえにワークを可視化することが意味を持つ。

過去に東大のインタラクティブ・ティーチングで授業構成を学んだが、その際に習得したクラスデザインシート(CDS)は主に自分が計画を立案するために使っていた。しかしCDSは授業の可視化にも役立つ。ワークショップをデザインし、学生にファイルを共有することで、自らのワークショップを再現することが可能だ。

これは言ってみれば「具体」の「抽象」であり、自分がやっていることのエッセンスを見極めて骨格を共有することを意味している。属人性は「具体」において発揮されるのであり、授業の骨格は「普遍」であろう。仮にそれが抽象化できず、共有もできないのであれば、それは授業としての骨格を有していないことになる。

自らの授業が教授法に紐付けられていれば、そこには必ず共有可能な骨格が潜んでいる。骨格の比喩から連想するならば、それは異なる文化システムの深部に潜む普遍的特質だ。ワークショップや授業の再現は、自身のメソッドが普遍的な批判に耐えられるかという問いに繋がっている。

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