現実を拡張すること

最近すっかり月一配信になっているが、それを言い訳するつもりもない。そもそも僕は「日々更新」の意味を疑っている。「ほぼ日刊イトイ新聞」は「ほぼ」と付けながらも休みなく更新が成されているが、毎回が傑作であるわけでもない。「日々更新」の目的化は、「忘れないでほしい」というメッセージである。また目的化した筆記に精神が乗っ取られると無意識の闇が覗いていくのはシュルレアリスムを例に取るまでも無い。

ここ最近は自主企画のシンポジウムに占められていた。


研究会とプレイベントの同時運営に加え、自分も新たな議論の研究発表を準備するというあまりにも大変な企画で、僕も自分の限界を数回突破した。これを授業・期末試験関係の業務・入試業務・育児などと並行して進めていったわけだ。その準備過程を発信し続けていると、間違いなく「自慢」の連続となる自覚があった。「ドヤ顔」は身内だけに晒しておけばよいのだ。そもそもいくら自分が異次元の努力をしたからといって、シンポジウムは登壇者や参加者によって構成されるのであり、他者の協力がなければ開催し得ない以上、僕の運営など構成要素の「一部」に過ぎない。

むろんこの間に懲りもせずに読書や映画やスポーツ観戦に勤しんでいたので、語りたいことはたくさんあったのだが、それはこれからゆっくりと書いていく。

今語るべきは「死者の国際文化学」によって拡張した国際文化学の議論だ。

「死者の国際文化学」において、我々は現実世界と死者の世界の「関係性」を論じた。我々は「生」を前提に考察を練り上げるが、生と死は連続している。しかし近現代において、死後の世界の表象は矢神夜が立ち向かう「無」として認識されるのが一般的だろう。一昔前の流行語である「地獄に落ちるわよ」がジョークとして了解され、我々は死後何らかの逆転があることを信じることもなく、現実を生きている。

僕の議論は「死後の世界が存在する」といったスピリチュアルなものではない。そうではなく、我々の「現実」は容易に拡張されるものであり、広さをもった「現実」の中で死者を捉えることこそが重要なのだ。

僕らの目の前に立ち現れるものは、おそらくデータサイエンスによって情報に還元することが可能だ。視角は画素数に、味覚は成分に、いくぶん容易に解析される。僕らの目の前に見えているものは、他者が目にするものと同じだ。だが「同じ」とされるものを見たときに、途方もない感動に打ちのめされる瞬間がある。宮沢賢治の「虔十公園林」で、自然の光景を前にしてただ息を発しながら、固有の印象に立ち向かう少年が描かれる。あるいはプルーストの『スワン家の方へ』で、語り手「私」は空が反射する水面を眺め、言葉にもならない言葉で感動を吐露する。

このような日常の感動を、まったく了解しない勢力がいる。個々の精神的な意味を無意味と断じ、データサイエンスあるいはエコノミーにすべてを還元し、数値化されたものを尊ぶ人々は、すでにサン=テグジュペリが『星の王子さま』で滑稽に描き出した。「役に立つ・役に立たない」の二項対立が経済的価値と結託し、人文学を「不要」と断じるのが大人の態度であるとも言わんばかりの高圧的な言動を、僕は過去から現在において至るところで目にしてきた。人文学を専攻することを無意味と断じられ、見知らぬ中高年や縁遠い親類に難癖をつけられた経験は、人文学に関わるものであれば誰でも身に覚えがあるのではないか。

しかし僕らの文学的経験は、間違いなく現実性を持ったものとして、僕らを突き動かしていく。むろん虔十は印象の世界のみに生きることなく、植樹という実践的な試みを繰り返す。僕が言いたいのは、現実の中に拡張された現実が見出される瞬間があるということだ。僕らはいわばその二つの世界の「あいだ」を行き来する。そして、自らの主観的な体験を詩として綴り、絵として残す。僕らにはフィクションや想像世界を形象化せずにはいられない衝動が存在するのだ。

死者の世界を感じ取る——実社会において無神論を気取る人間に批判される行為こそ、生から死へと至り、死に触れてきた我々の普遍的な所作ではないか。僕が今回視聴したかったのは、生と死の「あいだ」に目を向けることであり、それを一般化すると人が客観的なものとして了解する現実を拡張することに他ならない。無としての死に立ち向かう不条理に身を包みながらも、現実の向こう側にある「現実」は、説得力を持ったものとして僕の現実に流れ込んでいる。

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